本日は、100年前の1919年、パリ講和会議の国際連盟規約草案委員会の第10回会合が行われた2月13日に人種差別撤廃が日本から提案された日です。

 

パリ講和会議とは、大正七年十一月、第一次世界大戦がドイツの降伏により終わりその講和会議がパリで開かれたものをいい、ヴェルサイユ宮殿で条約が締結されたためヴェルサイユ条約として知られています。

 

その第10回会合が行われた2月13日に人種差別撤廃が日本から提案されましたが、提案した宗教事項が削除されました。そこで最後に行われた4月11日の第15回会合において人種平等を連盟規約の前文に盛り込むべく修正提案し、これは採決され17票中11票の圧倒的多数で支持されました。ところが、議長のウッドロー・ウイルソン(米国大統領)が介入し、こうした重要案件については全会一致にすべしとして退けられたのです。

 

 

以下、「アジアを救った近代日本史講義」においてわかりやすく紹介されていますので抜粋です。なお以下においては、多分講義時間の関係上か「人種差別撤廃提案」と「人種平等を連盟規約の前文に盛り込む修正提案」が一緒になっています。↓

 

条約の骨子はドイツが大戦を通じて占領した全ての地域の返還、ドイツの大幅な軍備縮小、さらにドイツへの多額の賠償金支払い要求でした。多額の賠償金に対するドイツ国民の不満が、後にアドルフ・ヒトラーの出現を促し、第二次世界大戦の遠因となっていきます。

 

パリ講和会議に先立って、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンはアメリカ議会で、民族自決、植民地問題の公正な解決、国際平和機構の設立など、平和主義的な「ウィルソンの十四カ条」を掲げ、これをもって講和会議に臨みました。この平和主義を実現する場として、国際連盟が多数国の賛成を得て、大正九年に発足しました。

 

しかし、アメリカの上院による批准反対にあって、アメリカ自身がこれに参加できなくなってしまいました。加えて、敗戦国ドイツの加盟が許されず、革命後の動乱のために大国ロシアが除外されてしまったのです。第一次大戦後の国際協調の場としての国際連盟は、成立はしたものの、その機能を発揮することはほとんどできませんでした。

 

アメリカが国際連盟加盟の基準を拒否した理由は、要するに、日本の興隆に対するアメリカの反感と嫉妬にあったと思われます。この反感と嫉妬が排日移民法の成立につながっていったのです。

 

パリ講和会議において、日本は五大国の一員として招かれ、国際連盟にも五つの常任理事国の一国として参加しました。日本は山東省においてドイツが保有していた権益の全てを譲り受け、赤道以南のドイツ領南洋諸島を委任統治領として、実質的に領有することにもなりました。第一次大戦によって日本の領土は膨大なものとなったのです。

 

パリ講和会に出席した日本はウィルソンの14カ条の中に盛られていた人種平等の理念にも背を押されながら、国際連盟の規約の中に人種差別撤廃条項を入れることを強く決意して会議に出席しました。少し難しいかもしれませんが、その文章を読んでみましょう。ここが日本の主張のポイントです。

 

「被抑圧的国民ノ不平ト密接関係ヲ有シテ人種ノ大ナル部分二取リ深キ憤恚(ふんい)ノ種トシテ尚以前トシテ存在スルモノニ人種的差別ノ非違アリ。軽侮セラルト観念ハ永ク或ハ国民ノ不平ヲ醸生シタリ。今以テ各人民及ビ各国民ニ対スル正義ノ原則ヲ以テ将来国際的関係ノ基礎ヲ宣言スルハ、偶々之等(たまたまこれら)人種ノ正統ナル批ノ熱望ヲ高ムルニ至リ。今ヤ之等人種ハ此ノ非違ノ撤廃ヲ要求スルヲ以テ其ノ正統ナル権利ナリト認ムルナリ。・・・余ハ今次世界ノ新組織ニ於ケル将来国際的関係ノ基礎トシテ『各国民ノ平等及ビ其ノ所属各人ニ対スル公正ナル待遇』ノ一原則ヲ確立セムコトハ正ニ純理ニ適合スルモノト思惟ス」

 

日露戦争での勝利以来、非白人社会の日本への評価は大変に高いものとなっていました。みずからの正義を高らかに宣言したこの日本の提案は、参加代表国32、代表1000名という空前の人々の共感を呼び、彼らの絶大な参道を得たのです。評決権をもつ28カ国の代表の多数決では、十七対十一で賛成多数となりました。

 

しかし、なんと議長を務めたウィルソンが、このような重要案件については、全会一致でなければならないと発言したのです。議長国アメリのこの発言に、全権代表の牧野伸顕は強硬な抗議演説をしたのですが、受け入られませんでした。牧野は食い下がり、日本の人種差別撤廃提案が多数決の原則からいえば承認されたものだと議事録にはっきり記すことを約束させて引きさがりました。残念というより他ありません。

 

ウィルソンの反対の理由は、もう一度いえば、アメリカにおける排日運動のゆえです。また同盟の問題を抱えるオーストラリア、カナダなどが反対側にまわって、陽の目をみることがなかったのです。中国山東省や南太平洋諸島を獲得して、パリ講和条約の五大国、国際連盟の常任理事国五か国のうちの一つとなった。日本に対する列強の反感と妬みには強いものがありました。日本の将来が米欧にとって危険な存在となるという予感が、この帰結をもたらしたのです。日本人はもとより、非白人国の落胆にはきわめて大きいことがあったことは申すまでもありません。

 

 

上記講義部分には抜けていますが、反対した国々は植民政策に依存し、アメリカ等国内においても激しい人種差別が横行していたことも付け加えます。

 

また、日本が委任統治することになった地域では、それまで白人たちが行っていたのとは違った自立を促す教育を行いインフラ整備を行ったこともつけ加えておきます。そうした地域では現在親日率が高くなっているのはそうした違いを現地の人達が分かって伝えて下さっているからです。

 

 

人種の平等と世界平和、公正な世界を目指した日本

 

 

 

その後の世界の流れをみれば、この条約の内容がもっと違っていれば、第二次世界大戦は避けられたのではないかと考えられ、世界史の教訓としてあるのがヴェルサイユ条約です。歴史授業では、ただ第一次大戦後にヴェルサイユ条約が締結されたとしか教わりませんが、その内容について考え、どう作ればよかったのか考えることこそが本当の歴史教育です。

歴史にIFはないのか?

 

 

また日本の歴史を学び直すと、日本では一貫して人々のための国造りが行われてきた世界でも稀有な国であることが分かります。もちろん時代によっては現在の私達の感覚では納得できない事はたくさんあります。しかし現代と比較することには意味がありません。しかし同時代の世界と比較した時、あまりにも世界と日本が違うことに驚かされることと思います。私達はそうした誇りある国の子孫であるということを誇りをもってそれを伝えて行くべきだと思います。そのためにはそうしたことを続けてきて下さった先人達を貶めるあらゆる活動には反論していくことではないでしょうか?先人達が貶められれば現在の私達はもちろん、これからの未来の子供達、孫たちが貶められてしまうのです。

言向け和し…和銅五年正月廿八日、古事記編纂1307年

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