第百九代明正天皇は、江戸時代の天皇、女帝です。


御父は後水尾天皇、御母は徳川和子(まさこ)、徳川秀忠と織田信長の妹お市の娘お江の子です。つまり、徳川家康の曾孫で、三代将軍家光の姪でもあり、織田信長の家系の血と信長に滅ぼされた浅井家の血も引いています。


御名は、興子、女一宮。


一六二三年生。


在位一六二九年から一六四三年。


後水尾天皇は第三皇子でしたが、徳川幕府の後押しがあり天皇に即位しました。和子の入内はその家系や、不遇な時代の長かった朝廷に入る莫大な持参金や幕府との関係を考える上でも歓迎されるものでした。しかし後に徳川家康の強引な朝廷政策に悩まされるようになった後水尾天皇は、入内に抵抗するようになります。入内後の二人は仲良かったようで三年後には、女一宮が誕生し、さらに二年後には高仁(すけひと)親王も誕生しましたが、天皇と幕府の確執は続き、紫衣事件をきっかけに天皇が譲位し、高仁親王が夭逝していたため即位したのが女一宮でした。   


女帝が即位するのは、奈良時代の称徳天皇以来のことで、八百五十九年ぶりのことでした。


極秘利に即位させたため、幕府の怒りを買いますが、過ぎてしまったこととて矛をおさめたといいます。


とはいえ七歳で即位したので、後水尾上皇が院政をしき明正天皇が政務に関わることはなかったようです。しかし、時の将軍家光の姪であり、母は妹ですから、幕府との関係は安定しました。


和子の皇子はその後みな夭逝したため、異母弟の紹仁(つぐひと)親王へ二十ー才で譲位(百十代後光明天皇)。


後光明天皇は、明正天皇に太上天皇の尊号を奉ったとき、質素で真面目なご性質で慈しみ深いことや古きを守りかつ時代に応じていたと言われています。 

 

在位中には、叔父である徳川家光の上洛がありました。これにより紫衣事件で悪化していた朝幕関係は修復し国内政治の安定を図ったのです。

 

大陸では清が建国され、翌年には李氏朝鮮が清国の侵攻を受けて敗北し、清国の完全なる属国となり、この状態は日本が日清戦争で清国を破り半島から駆逐した下関条約が結ばれるまで二百五十八年間続くこととなりました。

 

また島原の乱が起き、鎮圧には約五カ月かかりました。島原藩主の松倉勝家はその過酷な年貢の取り立てにより一揆を招いたとして改易処分となり後に斬首されました。大名が切腹ではなく斬首となったのは江戸時代を通じてこの例だけです。また過大な石高の算定があったとして、初代代官の鈴木重成は検地をやり直し、石高の算定を半分にするよう幕府に何度も訴え最後には切腹をして抗議しました。これには幕府も驚愕し重成の養子を二代目代官としましたが、その重辰もまた同様に訴え続け、乱発生から二十二年後ようやくこれが認められました。死をかけてまで二代に渡って民のために訴える代官が生まれたのも、日本のお国柄ではないかと思います。

 

この島原の乱ではポルトガルが一揆を支援していたため、幕府は国交を断絶し、国交は明、清、朝鮮、オランダに絞られました。現在この国々が反日国である事は歴史の皮肉であるといえます。


明正天皇の譲位後は、両親や妹の女三ノ宮と度々修学院離宮に行幸するなど家族仲の良さが伝わっています。


手芸を好み、押し絵の作品が縁の寺に伝わっているそうです。


一六九六年崩御。


追号は、奈良時代の女帝の元明天皇と元正天皇からそれぞれとられています。


御陵は月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺内にあります。

 

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参照:「宮中祭祀」
「歴代天皇事典」
「天皇のすべて」


天皇を知る上で避けて通れない字




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世界が憧れる天皇のいる国日本