ドクターペッパー大好きブログ
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何故ギャルバンというのは最高なのか?それは音楽に求める根本的な物の違いにあって、例えばギターが上手くなりたいとか、歌が上手くなりたいとか、そういうのは本当にどうでもよくて、楽器が好き、演奏が好きなだけではそれはほんとうにただの音が鳴っているだけの音楽にしか成り得ない。もちろん世の中にはそれで満足するという人は沢山いるけど、音楽の中だけに納まってしまうというのは少々退屈だ。音楽という枠の中にありながらその枠を飛び出すには、音楽に固執していては何も始まらない。Punk/NewWaveというものの美学があるとしたら、それは音楽の事なんて考えないほうがいいという事だろう。なにか極端な事を言っているような気もするが、音楽が好きであると発言する事に対して何の気恥ずかしさも持ち合わせていないようでは、それは趣味の範囲内で満足してしまえるものだと判断する。とにかく、どうにかして音楽というものにひと泡吹かせてやりたいのだ。音楽をやるからには音楽を超えたい。

マラリア!は、80年代ドイツの所謂ギャルバンではあるが、そういった「技術」としての音楽的な志向に収まるところは全く無く、エッジの強い「音」としてのアイディアをバンド演奏で完璧に表現している。この「完璧」というのは、楽器の練習に明け暮れるギター野郎や、演奏が上手い下手だけで音楽の価値を決めてしまうテクニック至上主義の男リスナーには一生かかっても到達できない高みであると言える。とにかく、音楽なんてのはどういったイメージを生み出せるかにかかっていると思う。あいつは楽器が上手いとか、あのバンドは演奏が上手いなんて思われるために音楽をやるなんてのは嫌だし、女だからこそ生み出せる想像力には心底嫉妬するのだ。







Compiled 1981-1984/Malaria

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いつからか、2000年以降くらいからか、「歌もの」という言い方をよく見るようになったが、これが全くピンとこない。いや、なんとなく分かるのは、クラブミュージックやら、エクスペリメンタルやらなんやら、オルタナティヴな音楽シーンからあらゆる音楽が出てきて、その中にはもちろん歌が無い音楽なんかもあって、そういう多種多様な中であえて「歌」という事に焦点を置く感じでしょ?。いや、いいよ、べつに。そう言いたいなら言えばいいよ。おまえらが歌心も分かる良心的な音楽リスナーだって言いたいんでしょ?いろいろな音楽が好きだけど、やっぱ歌ものも大事だよね?みたいな感じで言いたいんでしょ?いやいやいや、全く良い姿勢だと思いますよ。最先端の音楽や、アヴァンギャルドな音楽も好きだけど、歌ものも聴く。立派じゃないですか。やっぱ歌っていいよね。ただ、そういう、あえて「歌もの」と言うような方々が果たして原みゆきの「歌」に対してどいういう感情を抱くのか気になるところだ。

原みゆきのか弱い歌声の存在感は強烈だ。世間で言われるようなウィスパーボイスなんかとも違う、強烈に弱くて安定感の無い歌声。80年代後期にアルバム4枚ほどを残した原みゆきの音楽の需要がこの2010年代にあるのかというと、無いに等しいと言えるかもしれない。深夜営業のディスカウントショップや全国チェーンの古書店、ファーストフードや、若者、サラリーマンの集まる喧しい居酒屋なんかでは、原みゆきの歌の存在感など完全に消し去られてしまうだろう。そして、最先鋭な音楽を聴く耳を持つ人々が言う「歌もの」の中にも原みゆきの居場所は無いように思う。精神的に訴えかけるような力強さ、伝統的、神秘的な響き、深遠な音楽性、そんな物とは程遠い原みゆきの歌が、それでも俺の心をとらえ続けるのは何故だろう。野暮ったいバックトラックに一本調子な歌。誰が聴いても上手いとは言えないこの歌。

実は俺が原みゆきの音楽に初めて触れたのはここ2年ぐらいで、やもすると今の時代に聴くから新鮮に聴こえる(俺には新鮮に聴こえるのだ)のか?とも思う。今という時代は情報過多過ぎて、一見シンプルに見せているような物でも、その人のバックグラウンドには緻密な物が絡んでいる。その微細なノイズが気になって音がぼやけて見えてしまう事が多いのだ。原みゆきの歌はこのうえなくシンプルであり、余計なノイズは一切聴こえない。90年代以降の複雑なものに毒されてしまう前のものだ。なにも80年代至上主義という訳ではなく、極端に情報がカットされた音楽を聴きたいだけかもしれない。「歌もの」なんて言葉は要らない。ポップスで十分だ。









私風景/株式会社フォーライフ ミュージックエンタテイメント

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音楽は時代を超えて愛される、とは言うが、時代に埋もれきってしまった音楽の美しさというのも存在する。松井菜桜子が1991年に発表した2枚のアルバム「世界征服」と「道楽女王」は、今までも、そしてこれからも音楽業界で評価される事は無いと断言できるが、ここに詰め込まれた楽曲は音楽そのものが持つ楽しさを力一杯追求したものであり、気取りの無い驚く程素直なエンターテイメントとして成立している。いい加減、みんなが聴いているからあの曲を聴こうとか、カラオケで歌うためにあの曲を聴くとか、あのDJが良いと言っているから良いに違いないとか、そういうのを全部抜きにして、フラットな状態で音楽と接していかなければいけない。ファションの一部としての音楽の需要も分からないでもないが、見よう見まねのファッションばかりで埋め尽くす均一化したオシャレ空間で、場慣れした業界人の軽薄な挨拶を聞いていると、他人と違う事をするのは空気を読めないキチガイであると宣言されている気分になってくる。自分の理解の範疇を超えるものは大概はスルーされるか、排除されるか、それでも目立った行動を起こすと批判されるか、なんにしろ良い事なんか無い。なにも極端に独創的であれと言っているのではない。着飾る部分、着飾らない部分をうまく使い分けて楽しみたい。

松井菜桜子の「恋のリハリビテーシヨン」という曲は強力だ。詩、曲、アレンジ共に凄く元気があって、パワーをもらえる。ともすると時代遅れにも聴こえる全体的な雰囲気、シンセの音色等を単純に古臭いと言ってしまう事は、俺にとっては本当に退屈だ。かといって古いものをワザとらしく面白がるようなやり方も狙った感じがして嫌だ。つまりこの曲は、本当に素直に、元気一杯で楽しい曲として聴いていたい。新しいとか古いとか、オシャレだとかB級だとかそんな事は抜きにして、力一杯の音楽として松井菜桜子の曲を楽しみ続けたいと思う。











道楽女王/トライエム

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音楽って素晴らしいだの音楽に生きる勇気を貰っただの、音楽が無いと生きていけないだの、軽々しく言っている輩がいるが、実は俺も御多分に洩れず音楽大好き野郎なのだ。ただ面倒くさいのは、俺は音楽以外の事に殆ど興味が無く、何かに付随してくる音楽、つまりなにかしらのパーティでかかっている音楽、みんなで集まっている時にかかっている音楽、あのアーティストのあの曲がいいよねと語り合いながらカラオケで歌ってみんなで盛り上がる、そういうのを音楽だと思っている人たちの求める物にはあまり興味が無いだけで、音楽そのものが目的であり、個人の快楽としての音楽がやはり好きなのだった。だから、音楽自体が目的では無い音楽イベント、と言うと矛盾しているようにも聞こえるが、そういうものは世の中に沢山あって、そういう所へ出向くと疲弊してしまう事が多い。ただその、みんなで集まっている時にかかっている音楽を全否定する訳ではなく、みんなが集まっている時に、俺の好きな音楽はかからないというだけだ。だから、例えば外出先、音楽をかける事を目的としているライブハウスやクラブはもちろん、スーパーやレストラン、本屋やCDショップ等においても、自分が好きな曲がかかる事は殆ど無い。自分の好きな音楽は、自分で聴く以外に触れる事は無いのだ。だから、たまに外出先で好きな曲がかかると本当にびっくりする。そうすると、ああ、外で聴く音楽も良いものだなと思うが、この先そういった機会が訪れるのはどんどん減っていくような気がする。自分が好きな音楽は自分で探すしか無いのだ。

ハネムーンキラーズのユーモア過剰な楽曲は、ロックファンからもプログレファンからも無視されているような気がする。ユーモア自体を目的とした音楽は、音楽にかっこよさやテクニカルなものを求めている人にアピールしないのはしょうがない事なのだろうか。それは「音楽を聴く事の目的」の違いで、ハッキリしていて良いのかもしれない。ただ俺がこのグループのアルバムを20年近く聴き続けても全く飽きがこないのは、そのユーモアが音として普遍的だからだ。音楽を、あの頃は楽しかったというような思い出にはしたくない。










蜜月の殺人者/BIRDSONG/HAYABUSA

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音楽というのは凄く個人的な愉しみで、全く他人と共有する必要は無いと、割と昔から提言している。しかしこういう事ばかり言っていてもしょうがなく、音楽に対する感動はそれぞれ平等であり、他人の愉しみ方をとやかく言っても偏屈な野郎だと思われるだけで全く良い事なんか無い。音楽を他人に薦めたり、他人から音楽を薦めてもらうという行為は実はとても難しい事なのではないかと長年考えており、他人から薦められてピンと来なかった事や、薦めてみて相手がピンときてない感じは誰だって味わった事があると思う。音楽のツボというのは理屈で割り切れるような物ではないと思うし、その時の気分や体調、年齢、知識、経験等でいくらでも変わってくる。単純にジャンルの嗜好で片付けられないところがあって、やはりそこが音楽という物の面白い所であり難しい所かなと思うのだ。

俺が初めて氷上恭子を聴いたのはもう15年以上も前の事になり、以来、常に自分の生活のそこかしこに関わってくる重要な音楽ではあるが、全く持って他人に薦めた事は無いし、他人が氷上恭子を聴いているという話も聞いた事が無い。インターネットを検索するなりしても、失礼な言い方になるが世間的な評価もそれほど無いように思う。氷上恭子というシンガーの曲が好きだというのが共有できない事に対して思う所が無いといえば嘘になるが、自分のツボが他人に理解できる訳がないという、なんとも傲慢な考えもある。氷上恭子に対するそういう思いを長年に渡って自分の中で煮詰めているが、1度インターネットに放流してやる事で気持ち的にリフレッシュさせたい。こういう音楽が評価される時代がやってくるとは思えないが、ツボにはまる人がいないとも言い切れないのだ。ここまで書いて氷上恭子の「音楽」自体について全く書けていないが、この人の音楽はこの人自体の魅力としか言い様が無いし、おれが音楽そのものについて、そこまで語れる技量が無いだけだ。聴いてツボにはまるか、はまらないか、ただそれだけではないだろうか。










Hysteric Noise/マリン・エンタテインメント

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パンクやハードコアは生き方であって、パンクなりの考え方で行動して、パンクとしての結果を出す。常々パンクでありたいと思っているが、パンクという言葉にとらわれ過ぎても癪なので自分なりのパンクという在り方を日々模索する。世の中には知的なパンクもあるし、チンピラなパンクもあるが、いずれにせよパンクなのでたいした物ではないし、こういった音楽に価値があると思い込んでしまうと歳を取ってからしっぺ返しが来るような気がする。社会に対して役に立つパンクなんて何の意味があるというのか。

ハードコア期のソドムの素晴らしさは、そのハードコアというサウンドに何の意味も感情も込めていない所にある。これは単なるエッジの強い音の集積であって、間違っても社会に対するメッセージや、深い情念や感情、固い意志等は存在していない。何も無いゼロから組み上げるハードコアサウンドは聴いたあとに何も残さない。殆ど中身が無いという事がどれだけ素晴らしいか、音楽に意味を求める方々には理解しかねるかもしれないが、余計な装飾品や過剰包装は取り払って、中にある芯さえあればそれで満足してしまうのだ。たとえその芯がシャープペンシルの芯1本ほどの細さであろうが構わない。指に突き刺さったシャー芯はいつまでも黒点を残す。その黒点を見つめながら、ずっとニヤニヤしているだけの頭の悪いパンクスでありたいものだ。

ソドム ‎– 聖レクイエム











その昔、ロックはもう死んだだかなんだか言ってた人が居たが、死ぬも何もロックなんか最初っからどうでもよくて、ロックというものに対する嫌悪感だけを頼りに今まで生きてこれたようなものだ。ただ、世の中ってやつは結構ロック側に味方する事が多くて、やっぱロックってのは権力であり、流した汗や振り上げた拳の多さで支持を集めて大衆を先導していくんだな。個人個人でしか分かり得ない価値観やらはどうでもよくて、やっぱり共有してこそロック、みんなが楽しくなくてはならないんだな、ほらそこのキミもつまらなそうな顔してないで一緒に拳を振り上げて肩を組んで汗を流して、バーベキュウでも食おうではないか、ボクラはみんな仲間なのさ!。そんな鬱陶しい価値観とは別に、ひたすら個人の中にあるモヤモヤとしたものを形作るのがニューウェイヴである。

ロシアバレエ団の作るサウンドはPunk/NewWaveの流れを汲みながらも、ヴォーカリストの一本調子な歌唱が独自のノリで、聴いていて病みつきになる。ヴォーカリストというのは、そのバンドに対して絶対的な必然があってそこに居なければならないし、独自な声質や考え方、エキセントリックな振る舞いや言動が無ければ全く意味が無い。クラスで人気者ではあるけど個性のカケラも無い凡人はロックバンドに入って、クラスの除け者で友達がいないやつがニューウェイヴになるというのは言いすぎかもしれないけど、押しが強いだけのロックとかいう音楽はやはり苦手なのであった。

ロシアバレエ団 - 移動の民










音楽、ことロックに関して言えば「かっこいい」という言葉ほど信用ならぬものは無い。ロックは何故かっこよくなければいけないか?というのは愚問なのだろうか。登山家は、そこに山があるから登るというように、ロックはかっこいいから聴くというのは当たり前の理屈であり、かっこよくないものをわざわざ選んで聴くようなロックファンは、いないとは言えないが極少数であろう。いわゆるマイナー嗜好、B級、カルト等と言われるものが有するイマジネーションは、かっこよさとは別の次元で日々育まれており、それは要するにその人個人の中だけの音楽の世界であって、それをかっこいい、悪いの二元論で片付けきれない物として聴き手のイマジネーションを刺激すればそれでいい。

80年代ドイツのバンド、ヴィルシャフツヴンダーは長きに渡ってフェイバリットのグループだ。ロックは勿論、パンク/オルタナティヴの範疇へ入れるのも違和感があるストレンジな感触は独自としか言いようが無いが、世間の評価としては黙殺どころか、知っている人すら居ないというのが実情。このような現実を見るにつけ、やはりロックはかっこいいものでなければ評価されないのかと思う。音の1つ1つから見出せるユーモアの過剰さはロックリスナーの求めるものではないと言ってしまえばそれまでだが、曲がりくねった迷路の中に沢山のトラップを仕掛けていく楽しさは、かっこいいとはまた違った楽しみ方として捉えてほしい。

Wirtschaftswunder ‎– Salmobray











情報量の少なさは想像力を喚起させる。それはもちろん知識としての情報量もあるが、音そのものの事になると、配置する音数の量が重要になってくる。とにかく音数を増やすのは危険なのだ。重いギターリフや手数の多いドラム、音が重なれば重なる程、音ひとつひとつの存在は曖昧になり、多くの情報の中に分散してしまう。とにかく、可能な限り音を少なくしていき、無骨なまでに単純な音の連なりを提示したい。複雑な事なんかすぐに忘れてしまう。もっともっと頭を悪くしたい。なにひとつ出来ないというのが理想だ。何かが出来るという事はそんなに重要なのだろうか?そんな事よりも、何が出来ないかというのが本質なのではないかとずっと考えている。そして、何も出来ないからといって闇雲に情報量を増やすのではなく、無駄な物は徹底的に排除していきたい。頭が悪いのを情報量で誤魔化さず、つるつるの脳味噌を剥き出しで提示していきたい。

胎児の音楽程完璧なものは無い。当人達がどういう想いをもってやっていたのかは知る由も無いが、徹底的な情報の排除によって創出される音像には何の感情も情緒も見出せなく、ただただ無価値で無意味な音の配列だ。だからといってストイックにやっている風でもない所もいい。

胎児 - Endress World. Coincidence. Evanesce.









音楽に貴賎はあるのか?という事をたまに考える事がある。この音楽は良いもので、この音楽は悪いものだと断言するのはナンセンスで、人それぞれの価値観があって~...等と言う気は全く無く、好みではない音楽がかかると不快にもなるし、できれば二度と自分の耳に届かないでほしいと思う音楽は山程あるし、悲しいかな今の世の中の大半の音楽はその不快なものにあたる。この不快感の原因のひとつに境遇の違いというのがあって、例えば大学でスポーツ系のサークル活動に精を出す若者や、仕事に精を出すサラリーマンやOL。あとは、そう、金持ち。それぞれの境遇があって、それに合った音楽があり、その逆で明らかに境遇とは合ってない音楽もある。金持ちが聴く音楽というのは全く想像できないが、少なくともパンクやハードコア、アヴァンギャルドやノイズ、実験音楽の類では無い事は確かだと思う。もちろん例外もあるとは思うのだが、世の中のそういう類の音楽が相変わらず全く儲かる事が無く、絶望を継続しているのは明らかだ。そういった音楽のハングリーであるところに共鳴し、感銘を受ける事ももちろんあるのだけど、しかし、やはり音楽の本質から考えると、そんなものはどうでもよいと思ってしまう。ここでいう音楽の本質とは「音」そのものの事である。音自体が快か不快か。

池澤春菜は、御存知の方も多いと思うが、いわゆる「御嬢様」だ。自分とはかけ離れた生活をして、かけ離れた価値観を持っている...というのは、こちらの勝手な妄想も多いかもしれないけど、その「音」は圧倒的な快を含んでいる。今、世間で流れているような音楽は中途半端に身近で、友達感覚で近づいてくるから厄介だ。手の届かない貧富の差があってもいいじゃないか、日常を嫌と言うほど味わって、どんなに努力しても報われない人種のために量産される日常的な音楽の事を考えると気が遠くなってくる。池澤春菜を御嬢様という色眼鏡を通すのは、本人様には甚だ迷惑かもしれないが、私のような3流アンダーグラウンド音楽家の事なんかは高飛車に見下してほしいものだ。住む世界が違うという事を見せ付けてほしい。









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