日本語の行方 | 五島高資のブログ

五島高資のブログ

俳句と写真(画像)のコラボなど

 先日、帰省のため飛行機に乗った。何とはなく搭乗券に見入ると、「ゴトウ/タカトシ、座席15K、携帯電話の電源は搭乗前に必ずお切りください。」などと書かれている。しかし、よくよく考えると、そこにおける、漢字、英字、カタカナ、平仮名、数字といった多様な文字体系の混淆に日本語の特異性を再認識させられた。

 ところで、水村美苗氏は著書『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)の中で、〈書き言葉〉が〈話し言葉〉の音を表したものに過ぎないという「表音主義」を批判し、むしろ、上述したような日本語における複雑な表記法を使い分けることが意味の生産に関わると指摘している。

 以前、〈春灯し漢字カタカナ英語かな〉と詠んだことがあるが、確かに十七文字という極端に短い詩型の俳句でも〈書き言葉〉によって発揮されるべき言外の意味性がその詩的創造に関わる場合も少なくない。

 水村氏は、「表音主義」の悪弊として、例えば、伝統的仮名遣いから新仮名遣い(表音式仮名遣い)への改変、さらには〈読まれるべき言葉〉としての「文語体」の抛擲を挙げている。もっとも、すでに新仮名遣いが一般化した現在、伝統的仮名遣いへの復旧は難しいが、翻訳や詩歌を含めた日本近代文学の古典、例えば、夏目漱石、樋口一葉、北原白秋などの作品を音読させて、「文語体」や伝統的仮名遣いに親しませる国語教育の重要性を水村氏は強調する。そして、時代を超えて〈読まれるべき言葉〉を読みつぐのが文化と結論している。

 ただ、そこで俳句についてほとんど触れられていなかったことが少しく残念だった。現代の文学において、〈読まれるべき言葉〉を読みつぎ、しかも、〈書き言葉〉も〈話し言葉〉も現在ただ今ここにおいて包摂することのできる伝統的文芸こそが俳句だからである。寺田寅彦曰く。

 

  俳諧の本質を説くことは、日本の詩全体の本質を説くことであり、やがては又日本人の宗教と哲学をも説くことになるで  

 あらう。『俳諧論』

  俳句の亡びない限り日本は亡びないと思うものである。『俳句の精神』

 

                                                  初出 : 朝日新聞2009年8月