五島高資のブログ

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俳句と写真(画像)のコラボなど

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加藤直克先生(自治医科大学名誉教授・日本俳句協会理事・俳句スクエア同人)のご逝去を悼み、心よりお悔やみ申し上げます。公私にわたり大変お世話になりました。 先生のご冥福を謹んでお祈りいたします。合掌。

 

宇都宮国際交流協会日光研修会・竜頭の滝 2013年9月21日

 

「辞世の句」による魂の救済  ― 死によって立ち現れる真の自己 ―

 

 

一般財団法人 日本俳句協会理事長 五島高資

 

 第44回日本死の臨床研究会年次大会は、俳都・松山で開催されたこともあり、ワークショップ5では、「辞世の句」が現代のターミナルケアにおいてどのように位置づけられ、どのような役割を担いうるかを考える場が設けられた。

 

 私はまず、「辞世の句」について総論的な概要を講義し、その後、詩歌療法の一つとしての各論的・実践的な講義と質疑応答に臨んだ。

 

 「辞世の句」の淵源

 

 辞世の句には、臨刑詩と遺偈という二つの淵源がある。前者は、古代中国の政変などによって刑死した貴族が、その志を詠んだもので、我が国でも有間皇子や大津皇子などに例が見られる。後者は、僧侶が死に臨み、悟得した仏教的理念を述べたものである。その後、時代の変遷とともに、辞世の句のありようも変化してきた。

 

 「辞世の句」のあり方

 

 中世以降、辞世の句が詠まれる状況は、大まかに三つに分けられる。一つは、日常生活において常に「死」を意識している場合、二つは、刑死などの強制的な「死」に直面する場合、三つは、病気などによって死期を悟った場合である。

 

 いずれにしても、「死のうちにおのれ自身を認める」とフィリップ・アリエスが述べたように、人は自らの死という鏡のうちに、自己の個性の秘密を再発見する。辞世の句には、そうした自己発見が反映される。それは往々にして「純粋な自己発見の言葉」となり、作者はもちろん、読者もまた、そこに特別な意義を見いだすのである。

 

 日常的に「死」を意識している場合の辞世としては、西行の〈願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ〉や、芭蕉の〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉などが挙げられる。

 

 両者とも漂泊の人生にあって、いつ死んでもおかしくない状況を覚悟していた。ただし、西行の歌からは、自らの死を予言するかのような大悟の至境が窺われる。一方、芭蕉は、あくまでも「病中吟」として〈旅に病んで〉の句を詠んでおり、いつ死んでも、その直前に詠んだ句が辞世になると考えていた。逆に言えば、いつ死んでもよいように、不断に「一句懸命」の覚悟にあったということだろう。

 

 刑死などの強制的な「死」に臨む場合では、浅野長矩の〈風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん〉、大石良雄の〈あら楽し思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし〉などが有名である。そこには、遺恨や達成感に伴う俗気がいささか感じられる。ただし、幕末の吉田松陰による〈身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂〉などからは、生死を超えた無我の境地が感じられる。

 

 「辞世の句」における開悟

 

 時代は前後するが、大内義隆の〈討つ人も討たるる人も諸共に如露亦如電応作如是観〉では、和歌を裏打ちする大和心に、漢心として『金剛般若経』の一節を融合させ、あるがままの真実に迫る開悟が窺われる。また、葛飾北斎の〈人魂で行く気散じや夏野原〉からは、絵画芸術の至境において生死を超越するような開悟が感じられる。

 

 言霊による鎮魂の力

 

 前述した「辞世の句」による開悟という至境をもたらすものとして、和歌における「言霊」の鎮魂力が、大きな役割を果たしているのではないだろうか。それは、短歌や俳句といった伝統的な韻文詩の形式に深く関わっているのだと思う。

 

 五七調あるいは七五調という音律は、記紀歌謡から洗練され、和歌の根幹へと収斂された。その「音楽性」こそが、「言霊」の力を発揮させるのである。

 

 普段、私たちが用いる日常言語は、あくまでも二項対立的な観念に基づく記号として用いられている。つまり、散文である。この散文によって社会も世界も分節化され、それゆえに科学が発展し、物質文明が豊かになったことは間違いない。しかし、その反面、記号としての言葉は、観念的な道具と化してしまった。

 

 例えば、そうした記号としての言葉によって書かれる小説は、多くの言葉を駆使することによって、膨大な情報を私たちに伝えることが可能となった。これによって物事の細かな描写が可能となり、壮大な文学作品として、私たちに大きな感動を与えることも可能となった。

 

 しかし、散文文学がいかに感銘深いものであっても、長編であればなおさら、その全文を諳んじることは難しい。ところが、俳句や短歌などの短詩型韻文は、私たちの記憶に残りやすい。それは、前述した大和言葉による五七調あるいは七五調の音律が生み出す「音楽性」によるものである。例えば、三百年以上前の芭蕉の俳句を、現代の小学生でも完璧に諳んじることができるのは、その好例である。さらに、千年以上前の『万葉集』などの短歌を覚えている人も少なくない。

 

 つまり、和歌をはじめとする短詩型韻文は、その音律形式によって日本人の脳に記憶され、作者が死んだ後も、時代を超えて読み継がれるのである。

 

 生物学的遺伝子(gene)のほかに、文化的遺伝子(meme)としての役割を和歌は担っている。geneは生命をつなぎ、memeは文化をつなぐ。geneは個体ごとに変化しつつ生命を維持するが、memeは個体を超えて未来へと引き継がれていく。つまり、人間の意志が個体の生死を超えていくのである。こうした和歌における言葉の力を、古人は「言霊」と捉えたのである。

 

 「辞世の句」による生死の超克

 

 ここで「眞」の原義について、白川静の漢字学説を援用して解釈すると、次のようになる。

 

  眞:「匕」と「県」を組み合わせた会意文字。

  匕:人を逆さまにした形で、死者の形。

  県:首を逆さまに懸けている形で、顚死者。

 

 つまり、「真」とは、死に際してこそ見える物事の本質であり、辞世の句には、虚仮とは異なる真実の世界が開かれている。辞世の句が真実や真の生を闡明する所以も、ここにある。

 

 「辞世の句」の現代的意義

 

 俳句や短歌など、日本の伝統的韻文詩には、第一に記憶しやすいこと、第二に紙と筆記用具があれば容易に書き残せること、第三に口述による録音も可能であること、という特徴がある。

 

 これらの特徴から、和歌による「辞世の句」は、特に日本人のターミナルケアにおける心のケアとして、比較的容易に活用できる有益なツールとなりうると考えられる。

 

 「辞世の句」による魂の救済

 

 さらには、生死という二項対立的な観念の超克へとつながれば、心の安定に加えて、スピリチュアルな、すなわち「死」に対する魂の次元での救済をもたらす可能性を、「辞世の句」に期待できるのではないだろうか。

 

 例えば、良寛の辞世と伝えられる〈散る桜残る桜も散る桜〉は、わずか十七音の俳句でありながら、生死のありようを生命の摂理としてやさしく諭すかのように、「死」に対する不安や恐怖から解き放たれた心境へと、私たちを誘ってくれる。

 

 このように、死の受容によって真実の生に気づき、それを他者と共感し合うなかで、「辞世の句」は「言霊」の力によって、真のいのちの永遠性を悟る一助にもなりうるのではないかと考えられる。

 

五島高資 : 辞世の句 ―「辞世の句」による魂の救済 死によって立ち現れる真の自己 ―. 死の臨床 2024 ; 46 (1) : 73-74

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再放送は 5月6日(水)14:20〜14:45、NHK Eテレに予定されています。ぜひ、ご高覧の程を!!