学校教育(formal education)で、その国の国語やその国の歴史を教えることは、近代国家においては、ほぼ普遍的なことでしょう。
もちろん、編纂されて公表された個々の歴史文献は常に、それを編纂した人の価値観(何を重視し、何を軽視するかなど)が色濃く反映されています。なので、例えば、「学校の歴史の授業で習った内容は、唯一絶対のものだ」などと早合点せず、「多くの捉え方のうちの一つとして、こういう捉え方、見方もあるんだ」と、広い心で観察することが大切だと、僕は思っています。
学校の歴史の授業で習う内容、つまり、歴史の教科書に書かれている内容を、単なる「表の歴史」だとして軽んずる風潮が、昨今あるかと思いますが、その「表の歴史」からでも学べることは、沢山あるでしょう。
今日では日中戦争と呼ばれる戦争を、僕は、前々回の投稿で、「1937年7月7日の晩に、北京郊外にある盧溝橋という橋の付近において、日本軍と中華民国の国民革命軍の間で勃発した事案を発端に、戦線が拡大していった戦争」と述べました。この戦争において、日本の対戦相手国は、中華民国一国だけだったのでしょうか。
同じく前々回の投稿で、僕は、「英米などが(蒋介石の)中華民国に軍事支援の物資や人員を輸送するのに利用していた陸路」、いわゆる援蒋ルート(=兵站線)のうちの一つに、言及しました。
中華民国側は、戦場に投入されていた人員が、国民党の軍隊や共産党の軍隊の人員であっただけで、英米ソなどの連合国(United Nations)が、がっちりと後方支援を担っていました。つまり、日本は、真珠湾攻撃によって大東亜・太平洋戦争を始める前から、現在の国際連合(United Nations)の安保理常任理事国連合とも、戦っていました。そして、日本は、大東亜・太平洋戦争を始める前の段階において、経済制裁を課されていました。
この史実から、何を学ぶか。当時も今も、日本には充分な規模の油田ガス田はなく、現在のロシアには充分な規模の油田ガス田(ここをクリックした後、図表左下の「Click to view larger map」をクリックすると、ロシアの油田ガス田マップが表示されます)があるという大きな違いはありますが、現在進行中のウクライナでの戦争が更に長期化し、戦線が、ロシアと国境を接する他の国へと拡大しないことを、何の力もない僕は、只々願うばかりです。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則