将来の国民につけを回しながら、享楽にふけっていいのか | 佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

変わらぬ理念の実現を目指し、しくみを修正する。
実態に合わなくなった諸制度を見直し、日本国を良くすることを目指す、政治ブログです。

 利器にも凶器にもなり得るものを指して、諸刃の剣(もろはのつるぎ)と呼ぶことがある。私は、「全てのものは、諸刃の剣である」と思っている。
利便性を追求し過ぎれば、新たに得るものよりも、新たに失うものの方が多くなり、その結果、生活の質が下がる。そういうことを、幾度となく経験したせいだろうか、そういう風に思うようになった。

 米国という連邦国家は、とても若い国である。先に住み着いている人がいても、開拓と称して、強引に、自分たちにとって住み良いと思う町を作ってきた。まるで陸の孤島のような町が、点在している。日本国民である私には、そう見える。そういう町がまとまって州(state)を構成し、州がまとまって連邦国家を構成している。

 日本は、敗戦後、ややもすれば、伝統的なものを排除し、歴史が浅い米国の生活様式を積極的に取り入れて、戦後復興を成し遂げ、生活の利便性を向上させた。が、私達が日常生活を送る地域社会は、日本人として生まれたことに誇りを感じ、安心して暮らせる社会になっただろうか。

 日本は、米国とは違い、拳銃がなければ安心して暮らせない、未成熟な国ではない。また、陸の孤島のような町が多い米国では、自家用車がなければ生活が成り立ちにくい場所が多いが、長い歴史を有する日本においては、そういう場所は、米国ほど多くないはずだ。

 カーナビに依存し過ぎれば、素早く土地勘をつかむ能力が衰えるだろうし、衝突回避装置に依存し過ぎれば、全ての方向に対し同時に注意を払いながら自動車を運転する能力が衰えるだろう。
ひたすら利便性を追求してきて、何を失ってきたのか。そして、将来の国民につけを回しながら利便性を追求し享楽にふけるのは、人間として、いかがなものか。最近、そう自問しています。


神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則