私は、「自分の教育は自分でする」のが基本であって、教育に関し、二言目には「親が悪い」とか「学校が悪い」と言うのは、お門違いだと思っている。そういうことは、三言目に言うことではないか。
12歳の春、中学に進学し、英語の授業が始まったとき、私は、アルファベットの小文字など、書けなかった。見たことがない文字は、書けない。教壇に立つ英語の教師が、教室の生徒みんなに対し、アルファベットが書けるかどうかを問いかけたときの情景を、今も覚えている。
私の勘違いでなければ、周りにいる生徒はみんな、「アルファベットぐらいは」という顔をしていた。
偏った内容の教科書を渡されて、ひょっとしたら「内容が偏っているのではないか」と思わない者は、どんな教科書を渡されても、それを鵜呑みにするだろう。冒頭で、「自分の教育は自分でする」のが基本であると、書かせていただいたのは、そういう意味である。
立派だと思う教科書を渡されたら、そのことに感謝すればいいし、立派だと思わない教科書を渡されたら、なぜ、立派だと思わない教科書が渡されたのか、考えればいい。この世に、考えるための種は尽きない。
実地で考えることは、即ち、教育である。実地で考えることは「畳の上の水練」ではないので、より真剣にならざるを得ない。
学がある方は、その学に頼ろうとする傾向がある。学に頼り過ぎるあまり、目の前の現実をしっかりと見ない。赤子の心で見るのではなく、学という色眼鏡を通してしか、見ない。学があるのも、善し悪しである。
その筋の学の粋(すい)を集めて練り上げられた金融政策で、経世済民を実現したことが、かつて、あっただろうか。もう、気付いてもいいはずだ。通貨は公器である。既に、通貨の定義を修正すべきときが来ている。通貨管理制度及び変動相場制についても、その是非について検討すべきである。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則