今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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「問題はロシアより、むしろアメリカだ」

 

歴史人口学者のエマニュエル・トッドと池上彰の対談を収録したこの本(朝日新書)が発刊されたのは、アメリカのトランプ政権がベネズエラやイランに対し、正当性が疑わしい軍事行動を起こした2026年ではない。

 

この本が発刊された2023年は、ロシアによるウクライナ侵攻した2022年の翌年。

当時のアメリカは民主党・バイデン政権で、西欧諸国とともにロシアの軍事侵攻を激しく非難していた。

ウクライナ戦争の最大の責任はロシアのプーチン大統領にあるという見方が支配的な中で、トッドは早い時期から「最大の責任はアメリカとNATOにある」と発言していた。

 

トッドや、アメリカの国際政治学者であるジョン・ミアシャイマーによると、ロシアによる侵攻が始まる以前から、アメリカやNATOによる武器供給を通じてウクライナは武装化し、事実上のNATO加盟国となっていた。

 

ゴルバチョフ大統領がソ連を解体した際に西側から約束された、「NATOを東方に拡大させない」という約束が反故にされ、ウクライナの武装化が、ロシアにとって安全保障的には許容できないレッドラインを越えたことが、ロシアによる軍事侵攻の背景にある。

「ウクライナの中立化」というロシアの要請を西側諸国が受け入れていれば、戦争は防げたというものである。

 

欧米による支援を受けた武装化がなかったなら、ウクライナはロシアの電撃的な攻撃を受け、ひとたまりもなく制圧されていた可能性が高い。

ウクライナの独立を守るためには、武装化が必要だったという見方もある一方で、戦争の最大の被害者であるウクライナ人が、アメリカをはじめとする西側諸国の武器を持たされ、「人間の盾」として、代理戦争をさせられているという、非人道的な図式があるとも指摘している。

 

「第三次世界大戦はもう始まっている」(文春文庫)に収録された2022年5月の論考では、トッドはアメリカの好戦的な側面を、こう表現している:

 

「戦争がアメリカ文化の一部になっている」

「アメリカは第二次世界大戦後も、常に戦争をしてきた国」

「アメリカ人にとっては、他国を侵略することも普通のことだと考える基盤がある」

「世界の不安定がアメリカには必要ということなのです」

 

その意味では、最近に起きたアメリカによるベネズエラやイランへの侵攻は、歴史的に見れば決して目新しいアメリカの姿ではなく、また、トランプ政権の下でなければ起きなかったという見方は正しくないのかもしれない。

それは、個人や国民性の問題というより、アメリカという国(システム)が持つ特性、あるいは構造的な問題である可能性がある。

 

たとえトランプが政権から下りようと、世界各地での軍事行動によって明確な憎悪の対象となり、また同盟国にとっても「予測不能な国」となってしまったアメリカが、国際社会に安定をもたらす国と再びみなされることは難しいだろう。

 

一方で、トッドの意見の中には、そのまま受け入れ難いものもある。

「日本は核武装すべきだ」という彼の主張もその一つだ。

中国や北朝鮮が核保有国になる中で、日本の核保有が「核の不均衡」を緩和し、むしろ地域の安定化につながるというのがその論拠だが、こうした主張が、核爆弾の残酷さ、悲惨さを最も知っている日本人に支持されるとはとうてい思えない。

 

だが、現在のように混迷する世界の中で、これまで信じてきた定見やバイアスを脱し、リアルな世界の実相を理解するためには、ときには常識に逆らった言葉にも、心を閉ざさずに向き合ってみるべきなのだろう。

そこには確かに、鋭い視角や重要な示唆がある。

 

「現在の英米は、「自由民主主義」とは呼べない」

という指摘もその一つだろう。

「自由民主主義国」の代表とされるアメリカやイギリスの現在の姿を見れば、この呼称が空虚なものであることが分かります。これらの国では、不平等があまりに大きく広がっているからです」

「とくにアメリカでは、選挙プロセスに膨大な資金が投入されています。「金権政治」が大々的に行われているのです。こんな国に、他国の「民主主義」を云々する資格などあるのでしょうか」

「個人的には、これらの国を「リベラル寡頭制」と呼ぶべきだと考えます」

(「第三次世界大戦はもう始まっている」(文春文庫)「ウクライナ戦争」の人類学(2022年4月収録))

 

2026年3月18日の日経新聞によると、スウェーデンの独立調査機関が年次に発表している報告書で、アメリカの自由民主主義指数は179ヵ国・地域のうち51位で、前年の20位台から大きく低下し、政治体制区分としては「自由民主主義」というカテゴリーから、「選挙民主主義」というカテゴリーに転落した。

(ちなみに、日本は24位)。

 

三権分立や表現の自由が、アメリカの現政権下で危機に瀕し、権威主義化が強まっていることが浮き彫りになっている。

 

政治の権威主義化が、ますます戦争が起きやすい世界を生み出していく様を、いま我々は目の当たりにしているのではないだろうか。

 

戦争を起こしたどのような国も、そこには「正当な理由」があると主張する。

 

自衛権を行使するための軍事行動は、たしかに国連憲章でも容認されているが、ロシアによるウクライナ侵攻、またアメリカによるイラン空爆が国際法上適法なのかは、当然に疑問視されている。

 

また、誰がどのような理由で始めた戦争であろうと、当事国では罪のない多くの人が苦しみ、命を失うことは、動かしようのない事実だ。

にもかかわらず、戦争の災禍をかえりみることも、軍事行動の結果に責任を負おうとしない指導者たちによって、各地で戦争が引き起こされている。

 

許されるべきでないことが現実に起きているー

それが我々が生きている今の世界の現状だということをあらためて思い知らされる。

 

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年明け早々に衆議院が解散され、総選挙が行われるのは、1990年以来36年ぶりだそうだ。

雪や寒さといった問題もあるが、このタイミングでの選挙実施には、首をかしげる人も多いのではないだろうか。

 

高市首相が着任後に言っていたように、経済の課題が山積している。

物価高で国民生活が苦しくなっている中、財源確保を後回しにしても減税を訴える候補者たちの声が勢いを増しているが、日本政府の債務残高(対GDP比)は先進国の中では断トツの1位だ。

人々が冷静に、日本の将来を考えた正しい選択ができるのか、国民の判断力が問われる選挙となりそうだ。

 

 

日本に限らず、最近の選挙のたびに問題となるのは、SNS上で飛び交う、真偽が不明な情報だろう。

荒唐無稽・根拠が不明な極論を真に受ける人は少数だろうと思いたいが、それでも(どこかの国の大統領のように)、自分には都合の悪い事実はフェイクニュース・陰謀と敵視し、都合の良いことしか受け入れない政治家を支持する人もいるのは事実だ。

 

ただ、そうしたあからさまに主観的な論理は問題外としても、一見すると根拠があり、客観的に見える情報や理論に、人は騙されてしまう可能性もある。

 

「「科学的に正しい」の罠」(千葉 聡 著)は、科学的で正しそうに見えるが、実は信用するべきではなかった説明が、社会に不利益をもたらしてきた事例について書かれた書である。

例えば、スターリン時代のソ連では、共産主義政権に都合の良い疑似科学(ルイセンコのミチューリン生物学)が賞賛され、まっとうな多数の科学者が粛清されたために、世界トップの生物学強国の地位から転落する羽目になった。

また、大躍進政策時代の中国では、ルイセンコ説にもとづく農法による農作物の不作と飢餓で、何千万人もの飢餓者を出したという。

 

イデオロギーが科学を歪めてしまうことは、なにも共産主義に限ったことではなく、自由主義・民主主義の国でもそうしたことが起きうるし、実際にそうした傾向が強まっている国もある。

日本では、政治による科学の支配と呼ぶまで深刻な状態には今のところはないかもしれない。

だが、イデオロギーが客観的なものの見方、事実認識を歪めてしまうということは常に起こりうる(というより、実際に起きている)ことは忘れてはならないだろう。

 

そして、「科学的に正しい」の落とし穴は、疑似科学の罠だけに限らない。

一見すると主観的な価値観からは中立で、客観的に見える科学的説明の罠の方が、むしろ厄介といえる。

「出来事そのもの(現象)は価値判断から独立しているとしても、どの出来事を「事実」として扱い、記述するかは価値判断を伴う。つまり自然界で起きている様々な現象のうち、どの部分に焦点を当てるか、何を重要とみなすかという取捨選択には必ず価値が関わる」

「事実は説明された瞬間にも価値が絡む。数値データはそのままなら価値中立だし、それらの関係を記述した数式やコードも価値中立である。しかしそれから導かれる事実を言語化したとたん、言語が持つ歴史的な意味や社会的利害が付着する。それゆえ事実の説明から完全に価値を遮断することは困難である」

どのような事実の説明にも、価値判断が絡んでしまうことが避けられない。

であれば、事実を誤認し、間違った判断をしてしまわないためにはどうすればよいのだろう。

 

自分の思考、価値観を客観視すること、自分のバイアスを自覚しながら情報を吟味すること。

それが、目の前に示された「事実の説明」の背後にある価値観を見通すこと、そして、もっともらしい事実やニセの論理に支配されてしまわないことに繋がっていくのではないだろうか。

 

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日本の正月は、関東では1月7日まで、関西では1月15日までとされている。

この期間(松の内)に神社仏閣に参拝することを一般的には「初詣」と呼ぶらしい。

警察庁が初詣の参拝者数を発表していたのは2009年までで、それ以降は、主な寺社の発表やヒアリング調査による推計でしか参拝者数はわからない。

だが、コロナ明け以降は再び多くの日本人が初詣に行っているようだ。

 

あるアンケート(※)では、初詣に行く習慣があると回答した人は約6割。

厄除けや家内安全などを祈願することが目的という人ももちろんいるが、最も多いのは、「新年の行事として楽しむため」ということらしい。

日本人は、宗教心や信仰心があまり強くないと言われるが、年の初めには1年の平安や幸運を祈るイベントとして、初詣は現代の日本文化に定着しているのだろう。

 

 

かく言う私も、初詣には毎年欠かさず行っている。

たとえ神や仏を本気で信じていないにしても、人にとって、祈るための特別な場所があるということは、決して悪いことではない。

 

けれども人々は、神や仏に祈るだけでは物事が上手くいかないことも、もちろん心得てはいる。

古代ローマの諺らしいが、

「神は自ら助くるものを助く」

という言葉があり、これを大切にしている人もいるようだ。

 

この言葉について、ユヴァル・ノア・ハラリが「ホモ・デウス」の中で面白いことを言っている。

「神は自ら助くるものを助く、とよく言われる。

これは、神は存在しない、と遠回しに言っているわけだが、もし神を信じれば何かを自らやってみる気になるのなら、それは助けになる」

「神は存在しない」とは、信仰心があつい人には聞き捨てならないセリフだろうが、ハラリの「ホモ・デウス」の中では、宗教における神が人間によって「偽造」されてきた歴史が解説されている。

 

そして、かつての人間たちが神から与えられることを祈ってきた力や不死、幸福などを、現代の人間は科学技術で手に入れようとまで考え始めている。

ホモ・サピエンスは、今や神的な存在(ホモ・デウス)に向かって進んでいる ――

それは、人間至上主義(もっと言えば、テクノ人間至上主義)という名の新しい宗教である。

 

人間は、他の動物と異なり、想像上の物語を共有するという能力を持つ。

「共同主観的な現実」を生み出すことができるというその能力のおかげで、ホモ・サピエンスは地球の支配者になることができた。

 

ハラリは、そうした想像上の物語・虚構の体系(システム)を「宗教」と呼ぶ。

自然や社会、世界の摂理についての物語が「宗教」なのだから、キリスト教や仏教、イスラム教だけでなく、共産主義もナチズムも自由主義も(その意味では資本主義さえも)すべてが「宗教」なのである。

 

そうなってくると、われわれは、自分ではいかに無宗教的と思っていても、やはり何らかの宗教(イデオロギーや価値観と言い換えてもよい)の、見えない網の中で生きていると考えるべきなのかもしれない。

 

2026年の世界も、異なるイデオロギー・価値観の分断と対立の中で、少しも穏やかとは言えない始まりを迎えている。

過去には信じられてきた価値観や秩序が崩れ、ますます混沌としつつある世の中で、これからどのような時代がやってくるのだろうか。

 

未来の予測は難しい。

だが、このような時代だからこそ、相手が、そして自分自身が、どのような価値観や主義にもとづいて動いているのかを、冷静に見極めながら次の行動を考えていくことが重要なのだろう。

 

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(※)こちらのアンケートを参考にさせて頂きました。

 

 

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毎週日曜夕方のちびまる子ちゃんでは、

「いつだって忘れない。エジソンは偉い人、そんなの常識~」

と歌っているが、ダーウィンもまた、偉い人だと多くの人から思われている。

 

東北大学の生物学の教授である千葉先生によると

「ダーウィンがそう言っている」は、最もシンプルでわかりやすく、科学を装う危険な説明の一つである。ほぼ何も言っていないのに、なぜか説得力を発揮する稀有な説明である。どんな主張でも、科学的客観性の権威を与えてしまうマジックワードなのである。

世の中で一般的に理解されているダーウィンの思想というものが、必ずしもダーウィン自身の思想と一致しているわけではない。

 

ダーウィンの有名な「種の起源」の原書初版には書かれていなかった「適者生存」という言葉が、やがてダーウィン進化論の原理とされるようになったというのも、その一例なのだという。

 

「われこそはダーウィニズムの継承者」と称する生物学者同志が、互いに激しい論争を繰り広げたりもしている。

 

また、適者生存という考え方を人間社会に適用して進化を論じる「社会進化論」が、人間社会での弱肉強食を肯定し、あるいは、進化的な優劣による人種差別や植民地主義の正当化に利用されたこともある。

 

日本においても、優生法という法律のもとに、人権を無視した不妊化手術が行われていた時代が最近まであったが、優れた者の生存を人為的に選択するという考え方が優生学である。

 

ナチスによるユダヤ人迫害は、世界中を震撼させたが、ヒトラーの優生政策は、当初は米国の優生学者から賞賛されていたという。

 

近代統計学の父とも呼ばれる、偉大な統計学者で、生物学者でもあった米国のピアソンは、

自分と(思想的な盟友である)ゴルトンの夢を実現してくれるのはヒトラーだと考え、

「最高の時は将来、おそらくヒトラー総統と、彼のドイツ国民再生計画によって実現する」と公言していた。

 

高い知性を備えた天才として人々の尊敬を集める科学者たちが、実際には危険な思想を支持していたという事実には驚かされる。

最高の知性と道徳性と善の持ち主だと自他ともに認める人々が悪と不道徳をこの世から無くし、社会を浄化しようと目指した結果が、最も邪悪で非人道的な地獄であった。

この皮肉な歴史を踏まえて考えると、優生学を、ナチスのような極端な集団に特有の思想だと片付けてしまうのは、危険なことなのだろう。

 

意外なことのように聞こえるが、生物学での「進化」は、「進歩」とは異なるのだという。

進化は進歩でも発展でもない。生物の進化に方向性はなく、自然選択によって、ただ無限に変化する。

生物に生じた偶然の変異が、環境との関係で有利なものであれば、その変異を受け継いだ子孫が生き残る可能性が高い。こうしたわずかな変異の蓄積が、生物の生存率や繁殖力に影響していくことが「自然選択」であり、その積み重ねによって、生物は漸進的に進化していく。

これがダーウィンの考え方なのである。

 

 

従って、一定の優れた方向、理想とされる方向を目指して変化する「進歩」は、生物学での「進化」とは別物なのである。

 

人は進歩を望む。そして、高い道徳性や善を尊ぶ。

人間社会の進歩を望む思想家が、社会進化論という名前のもとで、人間社会に進化論を当てはめようとするとき、「進化」を「進歩」と読み替えるのは、自然なことかもしれない。

 

「人間は進歩しなければならない、高い道徳や善を備えた存在へと成長しなければならない」という観念は、ダーウィンがかけた呪いではなく、「進歩」こそが生存の必須条件だと信じる人間たちが、自らにかけた呪いなのである。

 

進歩を目指さなければ成長はないと、ビジネスでも、スポーツでも言われ続ける。

実際、進歩すること、競争に勝つことによって、達成感を得られるということはあるだろう。

だが、それだけが人間が生きる価値だと決めつけてしまうことが正しいことなのか。

世の中には様々な文化があり、人々の価値観も多種多様だ。

自分とは異なる価値観を認めないことは、「自由」という、人間に与えられた尊い価値を、自ら否定していることになる。

 

そして、自分とは異なる価値観を持つ人間を認めない不寛容さが、これまでどのような危険を招いてきたかということを、我々は忘れてはいけない。

これだけははっきりしている。

自由と平等に反する非人道的かつ差別的、強権的な制度は、強権国家でなくても、自由と平等の名のもとに、民主的に実現しうるのである。

ただし、それにストップをかけられるのも、やはり自由と平等、人権の尊重、そして誤りを認め、修正を厭わぬ意思であった。

「ときとして、真っすぐな善は凶器につながる」

「悪魔はいつでも私たちの身近なところで、復活のときを待っているのである」

 

という著者の言葉は、決して楽しいものではないが、常に忘れてはいけない警句なのだろう。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 


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人間の活動によって自然環境が破壊され、地球上の多くの生物種が姿を消している。

だが、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」によると、これは最近の数百年の現象ではなく、ヒト=ホモ・サピエンスが何千年にもわたっておこなってきたものだという。

「私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。

産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。

私たちは、生物史上最も危険な種であるという、かんばしからぬ評判を持っているのだ」

 

多くの哺乳類がヒトによって絶滅させられ、地球上の大型動物の90パーセント以上が家畜となっているという。

ブタは、イヌよりも賢く、哺乳類の中では類人猿に次いで知能が高いというが、巨大な製造ラインの歯車として、一生を送ることを強いられる。

ウシは牛乳を製造し、ニワトリは卵を製造する機械のように、工場のような施設で飼育されている。

ヒトは、ペットに愛情を注ぐことにためらわない一方で、家畜の身体的苦痛、精神的苦痛にはまったく無関心でいることができる。

「大西洋奴隷貿易がアフリカ人に対する憎しみに端を発したわけではないのとちょうど同じで、今日の畜産業も悪意に動機づけられてはいない。

これもまた、無関心が原動力なのだ」

畜産業の工業化・農業の工業化が、都市での産業革命の基盤となり、やがて空前の生産と消費に明け暮れる、現代の資本主義・消費主義の世界を生み出していく。

そして、ヒトによる環境破壊はますます加速していく・・・

 

自分自身は菜食主義者ではないし、焼肉も好きだ。

また、消費主義社会の一員であることから抜け出すことも難しいだろう。

だが、日頃は気にも留めていないことが、実は当然のものではないということ、そして、私たち「ヒト」がどういう動物なのかについて、この本はあらためて考えさせてくれる。

 

確かに、ヒトは強大な力を得て、全地球を支配する存在となってきた。

遺伝子を操作して、自分に都合の良い種を生み出すこともできるようになったし、AIという無機質の知能を生み出した。

そして、自分たちの類を崇高な存在と考える、「人間至上主義」を抱くようにもなった。

だが、ヒトが現実に行なっている行為の残酷さを考えると、ヒトを、倫理的・道徳的で、思いやりのある心優しい存在と呼ぶことはできないだろう。

 

ところで今、日本の各地では、クマ被害が相次いでいる。

人間による環境破壊や地球温暖化が、山の中のクマの餌を減らしてしまったためだろうか。

腹をすかせたクマが人間の住む場所に現われ、住民を不安にさせている。

クマが出没する地域の自治体には

「なぜ、人間の勝手な都合で、クマを殺すのか」という批判と、それとは逆に

「なぜ、危険なクマを撲滅しないのか」という、相反する批判の声が寄せられている。

 

一方は、自分は安全な場所に身を置きつつ、クマの殺処分を残酷だと非難し、自分自身が実は残酷な存在であることに気づいていない人間。

 

そしてもう一方は、人間とその身近な動物(ペットたち)だけが特別な存在で、それ以外の動物はただ殺してしまえばよいと思っている人間。

 

そのどちらもが「人間至上主義」であり、自己満足的で身勝手な考え方なのではないだろうか。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 

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