今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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前回、釈徹宗氏( 相愛大学学長。人文学部教授)の監修による「お経と仏像で分かる仏教入門」と、著書の「維摩経 空と慈悲の物語」について書いた。

 

今回は、著書「バカの壁」(2003年)がベストセラーになった(平成で一番売れた新書と言われている)養老先生と、スリランカのテーラワーダ仏教を日本で伝道するスマナサーラ長老の間の公開対談で、進行役と聞き手を釈先生が務めている。

 

養老先生の著書には「バカの壁」をはじめとして、「○○の壁」というタイトルの本が多い。

「無知の壁」というこのタイトルも、養老先生のそうした著作のシリーズを意識したものだろう。

 

本のタイトル:「無知の壁」の「無知」は、仏教の中ではどのような意味を持つのか、また養老先生が「バカ」と表現しているものと共通する部分があるのかというのが、この対談のテーマである。

 

その意味では、もしかすると「バカと無知」でもよかったのかもしれないが、ちょっと攻撃的な響きがする。まさしくこのタイトル名の本も出版されているが、書いているのは別の人(橘玲氏)で、もちろん内容もまったく別物である。

 

話をこの対談に戻すと、スマナサーラ長老と養老先生の間で、話があまり嚙み合わない部分が多い。

そもそもの発想や用語が異なる二人の「対談」を成立させるために、釈先生が、単に聞き手としてだけではなく、自らポジションをとって話をし、架け橋役となっているところもある。

それはこの場合にはどうしても必要で、欠かせないものであったとも思える。

 

養老先生の「バカの壁」を釈先生は次のように要約する:

釈 「つまり脳にある枠組みががっちりできてしまうと、脳はその枠の外のことをそもそも認識しようとしない、それをバカの壁と表現されたわけですね」

 

養老 「そうですね、自分で書いておいてなんですけど、「バカの壁」とは何か、一言で言うのは難しいですが、そういう「枠」ですよね」

 

釈 「どうでしょう、スマナサーラ長老。

仏道を「我々がついもってしまっている自分の枠組みを通してしか物事を認識していないことに、まず気づく。そしてその枠組みをはずすトレーニングを実践する」

というふうにとらえるならば、養老先生のお話をスマナサーラ長老が説いておられる領域はかなり共通しているんじゃないでしょうか」

 

スマナサーラ 「まったく共通していますね。

だから「バカの壁」っていうのはいい言葉ですよ。

先生は真理をすごくおもしろい単語を用いて世の中に広めたんですよね。

対談の中では話を合わせているけれども、養老先生自身の言葉では、「バカ」に込められた意味は、次のように説明されている。

細かく言えばいろいろあるのですが、まとめて言えば、結局は、「意識には限界がある」ということです

また、実際の「バカの壁」のまえがきでは、養老先生はこう言っている:

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。

つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ、そういうつもりで述べた。

釈先生は、「バカの壁」の意味を、自身の言葉で表現し、定義し直すことで、仏教の思想との接点を広げようという試みを行っていたのではないだろうか。

 

一方で、スマナサーラ長老が考えている「無知」とは何か。

スマナサーラ「無知の状態とは、どんな生命も本能的に持っている生存欲(存在欲)の状態です。

長老は、「本能・感情の衝動で生きること」を「無知」の状態と呼んでおり、知識・理性・智慧の働きで、「無知」の状態から脱していくことが、人間の正しい生き方であると説く。

順番で言えば、本能・感情の衝動で生きることは無知で、物事を学んで生きる能力を上げることが知識で、人格的によりよい人間になることは理性で、人格を向上して本能に打ち勝って、心の汚れをなくすことが智慧ということになります。

結論として、養老先生がもともと考えていた「バカ」と、スマナサーラ長老の言う「無知」は、同じ概念ではなかったと考えるべきだろう。

 

それでも、三人の間の対談の中には、示唆に富む話が多い。

 

そして、養老先生とスマナサーラ長老の考えが交錯し、共鳴していると思える言葉もある。

 

たとえば、スマナサーラ長老は、

「自我が実在しないとわかる人は、死を恐れません」

という。

 

一方、養老先生の対談での言葉:

死というものは、生きていないとないわけでしょう。

だいたい、(自分自身の)「死」について考えたって本当にダメなんです。

は、「バカの壁」の続編として書かれた「死の壁」では、もう少しわかりやすく、次のように説明されている:

そこで悩むのは、そもそも「一人称の死体」が存在していると思っているからでしょう。

死ぬのが怖いというのは、どこかでそれが存在していると思っている、一人称の死体を見ることが出来るのではという誤解に近いものがあります。

 

極端に言えば、自分にとって死は無いという言い方が出来るのです。

そうすると、「(自分の)死とは何か」というのは、理屈の上だけで発生した問題、悩みと言えるかもしれません。

 

こんなふうに、自分の死というものには実体がない。

それが極端だというのならば、少なくとも今の自分が考えても意味が無いと言ってもよい。

 

死んだらどうなるかは、死んでいないからわかりません。誰もがそうでしょう。

しかし意識が無くなる状態というのは毎晩経験しているはずです。

眠るようなものだと思うしかない。

 

そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません。

死への恐怖というものも感じない。

養老先生にとって、「意識」や「心」は、脳の働きが生み出しているもの、脳という臓器の機能であって、それ自体に実体があるものではないという立場であり、それが「唯脳論」という本のテーマでもあった。

 

お二人が言おうとされていることは、表現方法やアプローチは違っていても、深い部分で相通じているように思える。

 

 

ところで、スマナサーラ長老は、先ほどの続きの語りの部分で、「理性」と「信仰」について、意外なことを言っている。

仏教は信仰を推薦していないのです

 

信仰と理性というものはお互い相反するもので、信仰が強くなってくると理性が死んでしまいます

 

信仰ではなく、理性で物事を考えて人生を歩むことが、お釈迦様の推薦なのです

 

生きる上で、ちょっとした安心感を得るために何かを信じてもいいのだけれど、お釈迦様が言うのは

「それだったら、ましなものを信じなさい」

ということですね

長老は、信仰をすべて否定するという立場ではないと最後に言っているのだが、ひとくくりに同じ仏教と言っても、例えばひたすら念仏を唱えることがが大事だとする日本のの阿弥陀仏信仰とはずいぶんと異なった思想である。

 

日本国内の仏教でも、さまざまな宗派が分かれて共存しているが、こうした多様性を許容できること自体が、仏教という宗教の一つの特徴なのだろう。

 

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このところ、仏教のお経や、坐禅に興味が惹かれている。

 

以前、博物館で開催された寺宝展で購入したものの、そのまま「積読」になっていたこの本を開くと、本書の冒頭の章の結びに、次の言葉が出てくる。

仏教は、「仏教の知見を生かして生活するのに、仏教徒である必要はない」という稀有な面を持つ「宗教」です。

信仰心が薄い自分が、仏教の世界に首を突っ込んでいいものだろうかと思っていた時に、この言葉を見つけ、何よりの励ましを得た気持ちになった。

 

この本は、「仏教入門」というタイトル通り、各宗派で用いられている重要な経典が紹介され、それぞれの経典の特徴が、分かりやすく説明されている。

 

ひとくちに「お経」と言っても、長い年月の中で発展してきたその内容は多種多様だが、その中でも異彩を放つと言われるのが、維摩経。

あの聖徳太子が、特に重要とされたお経の一つとして伝わっている。

 

このお経の主役である維摩居士は、出家して修行をしているわけではない「在家者」なのだが、仏陀の有名な弟子たちを議論で打ち負かしてしまうという、ただものではない人物。

 

その維摩がある日、病気にかかってしまったという。

自分の代わりに見舞い行ってくれないかという仏陀の願いを受けて、菩薩たちの中でも、特に智慧にすぐれていることで名高い文殊菩薩が、面会に向かう。

 

二人の議論は、まさに賢者の頂上対決。

それまでは維摩を煙たがり、尻込みしていた菩薩たちも、文殊菩薩に付き従い、維摩のところへ向かう。

 

実は、この維摩居士という人の正体は、現実世界とは別の世界(仏国土)からやってきた人で、それが彼の超人ぶりの秘密でもあるらしいが、それはさておき。

 

「不二の法門に入るとはどのようなことか」と、維摩は文殊菩薩たち一行に問いかける。

 

「不二」とは、対立するように見える二つのものは、実は二つではなく、根本的には一つであるということ。

 

そして、「不二の法門に入る」とは、「対立して見えるものを一つのものだと発見することから仏法の門に入ること」だという。

 

 (台湾・台南開元寺の不二法門。Wikimedia Commonsより)

 

維摩から投げかけられた問いかけに対して、

同行した菩薩たちは、「生と死」、「善と悪」、「我と無我」、「智と無智」などなど、さまざまな相反されるとされるものが実は一つのものに過ぎないと答えます。

それを受けた文殊菩薩は

「あらゆる現象は言葉では説明できません。諸々の問答を離れるところにあります。

それを不二法門に入ると言います」

という自らの見解を述べます。

 

(仏教入門・維摩経)

では、維摩自身は、この問いへの答えをどう考えているのか。

文殊菩薩が逆に維摩に尋ねると、いつもであれば菩薩たちをあっと驚かせるような言葉を発する維摩が、ただ押し黙ったまま答えない。

 

この部分の解説を、現代語訳 大乗仏教3「維摩経」(中村元)から引用すると;

他の人は、対立を離れたことが不二の法門であるとか、ことばで言い表せないことが不二の法門であるとか言って、じつはことばに出してしまったわけです。

ところが維摩はことばを発しないで、その身のうちにこの不二の法門を具現している。

ああ、これはすばらしいと思って、みんなが感嘆した、というところで、この章が終わっているのです。

釈徹宗氏の「維摩経 空と慈悲の物語」では:

この場面は、「維摩の一黙、雷の如し」などと呼ばれ、「維摩一黙」という熟語にもなっている、維摩経で最も有名なクライマックスのシーンです。

 

文殊菩薩は、言葉や思考や認識、問いや答え、そのすべてから離れてこそ不二の法門に入ることができると説きました。

つまり不二の法門とは煩悩即菩提のことであり、分別を越えた世界であり、維摩のあり方そのものとイコールなのです。

だから、維摩は自分自身の姿、存在を見せることで表現したのです。

 

このやりとりを見ていた五千人の菩薩たちは、維摩の姿に感銘を受け、全員が不二の法門に入って悟りの安らぎ(無生法忍)(※)を得たと、この章の最後には書かれています。

 

(※)

「無生」:生じることも滅することもない

「無生法忍」:一切のものは空であり、なにごとも生じたり、滅したりしないという真理を受け入れること (注釈より)

 

二つのものが対立するように見えるのは、人の心の働きにすぎない、そうした区別から離れることが大事なのだという思想は、「色即是空」・「空即是色」で有名な般若心経にもあらわされた、大乗仏教の根本思想の一つだという。

 

なにごとも区別し、対立させて考えることに慣れてしまった現代人にとって、理解するのはけっして容易なことではない。

 

そして、言葉によって言い表したり、理解したりできることにも、限界があるに違いない。

 

そうであっても、初めから言葉が無くしては、人は手がかりを得るすべもない。

 

超越した賢者ではない人間が、物事を正しく理解していくためには、やはり言葉を聞き、読み、考えることが必要なのだろう。

 

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JR嵯峨嵐山駅の近くに、Tuttiというカフェがある。

観光客の多い渡月橋からは少し離れていることや、店内が広々としていることもあり、混雑した京都の中では、珍しくゆったりとした時間を過ごせる場所である。

 

 

Book & Caféという名前の通り、店内には絵本や旅に関する書籍を置いた本棚があり、ちょうどそれから行こうとしていた天龍寺を紹介しているこの本を見かけ、手にとってみた。

 

天龍寺の法堂(はっとう)の天井には、加山又造画伯の手による雲龍図が描かれている。

(落慶は、平成9年10月)

 

 

この絵があるから寺の名前も「天龍寺」という、「いい加減なガイド」をしている人もいるそうだと、平田精耕管長(当時)が書かれているが、史実はもちろんそうではない。

 

ただ、定説があるわけではなく、中国にある天龍山という山にちなんで名付けられたという説や、寺を創建した足利尊氏の弟・直義(ただよし)が、龍が川から天に昇る夢を見たことにちなんで付けられたという説があるという。

 

もともと臨済宗のお寺には、龍の絵が描かれていることが多い。

 

仏の守護神としての龍、寺を火難から守る水神としての龍など、色々いわれがあるようだが、この本に文を寄せている玄侑宗久氏も、「龍」が何を表すのか、さまざまに思いを巡らせている。

 

禅門では、優れた修行者のことを「龍象」というらしい。

そして、天龍寺で修行に励む僧侶であった筆者は、「龍にならねばならない」という思いを抱きつつ、夜ごと寺庭の石の上で、仲間と共に坐禅を組んでいた。

月明りに照らされただけの曹源池(そうげんち)畔に夜坐していると、池の鯉がときどき跳ねる音で、対岸の「龍門瀑(ばく)」と呼ばれる枯山水ばかりがしきりに意識される。

それはむろん中国の「登竜門」の故事に基づく命名で、つまりは、黄河の三段の滝になった急流を登り切った鯉が龍になるというのだ。

国師の「龍になれ!」の一言に尽きるような気がしてくる。

ここでいう「国師」とは、天龍寺の創建を足利尊氏に提案した夢窓国師のこと。

(夢窓疎石としても有名な禅僧だが、後醍醐天皇から「国師」という号を受けている。

鎌倉幕府の倒壊のあと、朝廷が南北に分裂した時代にあって、「怨親平等」を説き、対立する人々の和解のために奔走した人である。)

 

曹源池は、その夢窓国師が、天龍寺の方丈庭園に造った池である。

 

 

 

 

夢窓国師は、数多くの禅寺の庭(「山水」、という)を造った人だが

 

「山水(さんずい)に得失なし。得失は人の心にあり」

 

という言葉を残している。

 

平田管長はこう書かれている:

山水を愛好するのは悪いことでも善いこととも言えないといって、

「山水そのものには得るものも失うものもない。それは人間の心にある」

と夢窓国師は説いている。

問題はあくまで心なのである。

同じく、玄侑氏も、この言葉について語っている:

是非善悪、あるいは損得勘定に明け暮れる人の心に、国師はなにより自然そのものとしての心を感得せよと、迫る。

自然に変化する庭こそが、心の清らかさを磨く鏡だとういうのである。

大事なことは、庭そのものの美しさよりも、庭と対峙する人が何を感じるか、そして、自分の心の中に何を見つけるか、にあるということだろうか。

 

鎌倉の円覚寺の庭園もまた、夢窓国師の手によるものと言われている。

以前に円覚寺をたずねた時、金澤翔子氏の「仏心」の書を前に、「仏心」の意味とは何だろうと考えたことがあった。

 

平田師は、こう書かれている:

禅とは心の別名であり、禅宗は仏心宗ともいわれる。

 

仏の心とは釈尊の悟り、真理そのものを指す。

それは言葉や文字では表現できないものであり、師から弟子へ心でもって心に伝えていくものであるとされる。

 

禅でよくいわれる、「不立文字・教外別伝」、あるいは「以心伝心」という言葉は、そのことを示しているのである。

そして、最後に心に残る、平田師の言葉がある。

釈尊は「死んだらどうなるか」という問いに対して、一言も答えられなかった。

これを「無記」(むき)という。無記とはノーコメント。

生も死も、本来何もない、というのが禅の立場である。

自分が禅に親しみを感じるのは、こういう考え方に共感を覚えるからなのかもしれない。

 

 

 

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平成19年発行の本なので、今は新刊書を見つけるのは難しいかも知れません。

京都嵐山から東京に戻ったあと、神保町の古本屋街で中古本を見つけて購入しました。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 


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前回、「数学的話し方」をすすめる深沢真太郎氏の本を紹介した。

 

客観的な数字を用いた比較や、モデルを使いながら、「数学的」に話すことで、説得力のある説明ができるようになる。

 

筆者の深沢氏はそう言いながら、一方でこうも言っている:

「結局のところ、説得力のある話とは正しそうな話のことです」

 

正しいことを証明する「数学」に対して、「数学的」とは、「正しそうに説明する」こと。

「正しそうな説明をする」ことと、「正しいことを証明する」ことは別物だ。

 

「正しそうな説明をする」ために、著者は「比較して話すことが大事」とも言っているが、その大原則として、「自分がしたい意味づけができる比較を選ぶ」ことが必要と言っている。

 

裏返せば、うまい話し方をする人は、自分に都合がよい比較ができる対象を選んでいるということであり、都合が悪い比較は避けている可能性もあるということでもある。

 

話を聞かされる立場からすると、「正しそうな説明」をうかうか信じてはいけない、ということにもなる。

 

 

前置きが長くなってしまったが、今回取り上げる本:「客観性の落とし穴」は、数字と客観性が支配する世界に警鐘を鳴らす本だ。

 

だが、「客観的で、いかにも正しそうな話に騙されないよう気をつけよう」という単純な内容ではなく、もっと深く、根源的な問題を扱っている。

 

筆者(村上先生)が大学で行っている授業で、ある日

「先生の言っていることには客観的な妥当性はあるのですか?」

という質問を学生から受けた。

それが、本書を書いたきっかけにもなっているという。

 

学生の質問の背景には、客観性や数値化されたエビデンスのない議論は、世の中で価値が認められないのではないか、そして、そんな授業や学問は役に立たないのではないかという疑問があるのではないだろうか。

 

その質問をした学生は、きっと真面目な性格の持ち主なのだろう。

だからこそ、筆者も深く考えさせられずにはいられなかった。

 

著者が長年にわたって取り組んできている仕事は、家庭に困難を抱えていたり、不登校になっている子どもたち、また子育て支援の援助職の人たち、看護師たちへのインタビュー、そして心のケアの実践活動である。

 

心の問題を客観的に捉え、数値化しようとすると、その過程でこぼれ落ちてしまうものがある。

それは、一人ひとりの心の中の経験であり、それは「数学的」に表現することが難しいとしても、確かに存在する、無視できない事実なのだ。

 

数値によって測定されたことや、客観的な事実しか信じないという価値観にとらわれてしまっていると、個人の心の中の経験がかえりみられなくなってしまう。

本書の主旨は、世の中を支配する、客観性への信仰に対する問題提起である。

 

 

確かに、数字にもとづく客観的なエビデンスはさまざまな意味で有効だし、むしろ、客観的な根拠のない主張がまかり通ることの方がよほど危険だ。

 

だが、客観的なエビデンスを重視する姿勢は、実は近代以降の傾向であって、人間が古来そうした考え方をしてきたのではない。

 

なぜ近代人が客観性を重視する価値観に行きついたのか。

 

18世紀後半の西欧社会で起こった啓蒙思想では、もはや真理を保証してくれる存在は神ではなく、人間自身が自然の中に真理を見出す必要があった。

真理を自然の中に見出そうとする自然科学は、機械を用いた測定や法則性・構造の存在の追求を重視する。

自然科学が進展する中で、自然が客観化されていく歴史に続いて、次には人間とは切り離せない社会を客観的に分析しようとする社会学が19世紀に生まれ、さらに20世紀になると、人間の心を客観的なデータとして研究する、行動主義心理学が登場する。

 

このように、あらゆるものを客観的に捉えようとする動きが、自然科学だけでなく、人文学や心理学の世界にまで広がってきたという歴史がある。

 

19世紀の初め頃には新語であったらしい「客観性」という言葉が、その後どのように日常生活にまで広がってきたかについての筆者の解説は興味深い。

 

ビッグデータをAIが分析し、統計の結果によって評価が決定される社会。

その流れは変えられないし、数字と客観的な根拠を見極め、それをうまく使っていかなければいけない。

けれども、そうした社会の中で、いつの間にか、数字と客観性を絶対視してしまい、数値化できないものの価値を忘れてしまっていないか。

知らず知らず、目に見えないバイアスに閉じ込められてしまってはいないだろうか。

 

そうした自省を促してくれる一冊であると思う。

 

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世の中には、たくさんの数字を使いながら説明をする人がいる。

確かに、数字を使うと、話は具体的になる。

だが、数字で話されれば話の内容がわかりやすいかというと、必ずしもそうでもない。

単に数字が羅列されても、その数字が持つ意味がわからなければ、話し手が結局何を言いたいのかも理解できなくなってしまう。

 

書店に置かれたこの本のタイトルを見ながら、

「『数学的』話し方・・・数字を使って効果的な話し方をすることだろうか?」

と考えながら手に取ってみたが、実のところ、そうではなかった。

 

確かに、数字を入れて話す(数字で話す)ことも重要だとは本書でも書かれている。

けれども、「数字で話す」ことは、「数学的に話す」ことと同じではない。

 

効果的な話し方の一つに、AとBの比較をした結果をもとに、自らの主張を裏付けるという方法がある。

だが、その比較は数字で表せる場合もあれば、数字では表せない場合もある。

 

 

物事を比較し、対比して話すことで、聞き手には、話し手が言おうとしていることのポイントが伝わりやすくなる。

「比較」は、筆者が言う「数学的」思考の一つだが、それ以外にも、「数学的」思考には「定義」、「分解」、「構造化」、「モデル化」などの方法があるという。

 

人が話をする時に、冒頭でどのような前提を「定義」するのか。

主張を裏付けるためにどのように物事の「分解」や「比較」を行い、また、どのような「構造」や「モデル」を使って説明するのか。

そうした意識を持ち、準備をしたうえで話すことで、自分の言いたいことが相手にうまく伝わる説明ができるようになるという。

 

それは単なる話し方の変化ではなく、考え方にも変化をもたらす。

というよりも、話し方の変化は、考え方の変化によってもたらされると、筆者は言う。

もしあなたが自分の話し方を変えたいとするなら、「話し方」そのものを変えようとするのではなく、結果的に話し方が自動的に変わる何かを変えようということです。

本書ではそれを「思考」とします。

 

思考、つまり考え方が変われば、話し方も変わる、そう思っています。

そして、「数学的に考えること」がその正解だというのが、本書の主張になっている。

 

確かに、分かりやすい話し方のことを、私たちは「理路整然」と表現する。

だが、なぜその話し方から「理路整然」という印象を受けるのかは、あまりわかっていないことが多いのではないだろうか。

 

知らず知らず無意識のうちにしているかもしれない工夫を、意識的に行っていくことが、思考力や話す力を強めるトレーニングになる。

 

著書の最後に筆者はこうも言っている:

私は本書において、思考(つまり考え方)を変えると話し方も変わると説明しました。しかしそこにひとつだけ加えることがあるとするなら、生き方で話し方は決まるということでしょうか。

「生き方で話し方は決まる」とまでくると、話す力をテクニックや訓練で強めるには限界があるということになる。

話し方をコーチする筆者の立場としては、技術では変えられないことがあることに触れるのは、本来なら微妙な面があるのではないだろうか。

だが、話し方の達人たちを観察し続けてきた筆者としては、それが偽りのない本音なのに違いなく、きっとそれが正しいのだろう。

 

生き方そのものを変えるのは勿論だが、思考方法を変えるのも、けっして簡単ではない。

だが、自分自身の話し方で、自分の言葉が相手にどう伝わるだろうかと、考えることはできる。

自分の説明のしかた、話し方が聞き手にとって伝わりやすいものなのか。

それを見直してみるきっかけとして、参考になる一冊だった。

 

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