地震が起こることに対して、準備を行わせることになる結果を導ければ国家の責務として、それは結果オーライなのかもしれない。
という結論が最終的に残ってしまうからこそ問題を指摘しにくく、ひとたび起これば沢山の死者を出してしまう地震について、コスパやタイパで語るのはナンセンスかもしれない。
しかし、その名分が有るからと言って、過ちを(この動画の中では)認めないということは、また別問題。
科学や研究はトライ&エラーの繰り返しで確信を得ていくものだと思う。
しかし、自然現象に相対する機会は求めて得られるものではないし、出来れば無いに越したことはない。
そして起こる機会が分かればそれは地震予知が成功したことになり、それに伴うインフラの整備、意識や準備が行き渡っているころと同じような時期にそれが包括的、段階的に達成されるだろうと思う。
だから、この中の話で一番邪魔なのは、何が正しいかを決め打ちして結論先にありきで話を進めてしまう事。
予知と、それに関する防災の完成を最終的な地点として完了することを共有出来ていれば政治的な駆け引きなどは知ろうが知るまいがどちらでもいいこと。
無駄な足の引っ張り合いによって、実現したいことが現実になるまでに時間が沢山かかり、その過ぎていく時間の中で人がたくさん死んでいくだけのこと。
どちらが結果として正しいかを証明するためには、膨大な情報、知識を必要とする今の状態で、結論先に有りきで足の引っ張り合いをすること。
権威によって、黒が白に成ること。
その権威が人間に対して傲慢を自然に対する敬意を払うことを忘れる事態を生んでしまっている事。
分からないでは済まされない世の中の空気。
人が死んでいくことに対しての過剰な世論。
それを煽り立てるマスコミ。
沢山お金をもらってるから分からないでは済まされないと言えない空気。
そして、
分からない事を分からないと素直に言えるしがらみ(利権)のない人間の正しい(現時点の)提言は一番下に置かれてしまう。
そしてそれらの人をうまく使いこなせず自身が一番正しいと様々な要素を組み合わせた結果、
立場に自分が上り詰めたつもりで結果自分の首を絞めてる、がんじがらめになってしまっている偉い人(現時点では無能)
そしてその人間のご都合を無視するように自然が人間を蹂躙する。
その陰で醜い争いが起こったことを自然災害の犠牲者という悲劇のベールで覆い隠し、教訓として尤もらしいことが世の中に残って初めて、現実的な解決策が、ぽろぽろと出始め、長い時間を掛けて強靭化していく
政治的駆け引きという臭いものに蓋をして。
そして時代が変わり同じことを繰り返す。
石原慎太郎が、東日本大震災を日本人に対する天罰だ、といった気持ちが少しわかる気がする。