78年前・8月6日〜父の体験記〜 | 〜未来を変えよう〜寛親(ひろちか)から君へ

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日本維新の会衆議院広島県第3区支部長の「せぎひろちか 」です。古い政治の在り方・古い選挙制度・古い政治家を刷新して日本の未来を変える為活動を続けます!

こんばんは。

 

せぎひろちか(瀬木寛親)です。

 

78回目の原爆の日を終えました。

 

幼少期を基町市営住宅で祖母や叔父叔母と共に暮らし、遊び場が原爆ドーム周辺や広島城周辺だった僕にとってこの日は特別な日。

 

写真は37年くらい前の父と僕。

 

 


 


僕は被爆二世で、両親の親族合わせて13名が被爆者です。

 

以前も公開しましたが、僕が生前の父や親族から聞きとった昭和20年8月5日から8月8日までの父、瀬木信明からの視点の体験記を改めて掲載します。

 

 

 

 

〜以下父の体験記〜

 

昭和20年8月5日。瀬木家の長男である私と6歳の妹は1ヶ月近い八幡村での入院を終え、広島市舟入幸町での自宅療養生活に入っていた。

 

当時広島で流行していた伝染病「赤痢」に感染した為だ。

 

本来なら中学1年の私は学校に行き動員学徒として軍の指示により野外で様々な作業をしている筈だった。

 

因みに当時の夏休みは8月10日から20日の10日間だけである。

 

その日の夕方、警察官である父が三次に住む祖母の元に疎開している筈の小学校2年生と5年生の弟2人を連れて帰って来た。

 

ちょうどその日8月5日は日曜日だった為、両親に会いたい余りに2人は祖母に黙って三次から列車に乗り広島駅に到着。

 

しかしお金を持っていなかった2人は駅員に県警本部に連絡をとってもらい仕事が終わった父が迎えに行ったのが顛末だった。

 

散々と父から怒られた2人だったが家に帰れた嬉しさ、そして4ヶ月ぶりに会えた母に抱きついてとにかくニコニコとしていた。

 

家族6人で久しぶりの食卓を囲んだこの日の晩ご飯は野菜の煮物だった。

 

夜は兄弟4人で木造二階建ての2階に上がって就寝。

 

翌8月6日の午前7時過ぎに警戒警報が鳴り、ビックリした私達兄弟は1階に降りると既に制服を着た父が仕事に出かけるところだった。

 

警戒警報が鳴った為、いつもより早く現場に駆けつけるとの事。

 

当時の父の職場は国泰寺の広島市役所の敷地にあった県警の部署だ。

 

警報が鳴るとそこで防空業務に従事しなければならない。

 

父は5年生の弟に、、

「おい、お前。今日お母さんに言うとるけえ、お祖母ちゃんのところへ帰るんで。」

 

と言い出かけて行った。

 

これが私が生きた父の姿を見た最後である。

 

その後家族5人での朝ごはんを食べ終えた頃警戒警報解除のサイレンが鳴った。

 

すると母は窓際に夏布団を敷き私と妹に、、

「あんたらここで休んどきんさい。お母さんは近所に用事があるけえ」

 

と言い外に出て行った。

 

うつらうつらしていたその時、突然言葉では言い表せない強烈な音と共に身体が何処かに吹き飛ばされた。

 

気が付いて目を開けると辺り一面が真っ暗だった。

 

私は瓦礫の中にいる事に気付き、そこから出ようと懸命に這う。

 

暫くすると爆風による砂塵も収まり辺りが見えてきた。

 

目の前に髪が焼けただれ剥けた皮膚が垂れ下がって立っている女の人がいた。

 

それが母だと直ぐに分かった途端に私は背中に猛烈な痛みを感じた。

 

窓際に寝ていた為、爆風で飛ばされたガラスの破片が無数に突き刺さっていたのである。

 

その先に頭から血を流して立っている2人の弟がいるのがわかった。

 

「妹は、、」と思った瞬間、大火傷をした母が考えられない速さで私の這い出してきた隙間に潜り込み力なく泣いている妹を布団に包んで抜け出して来た。

 

そしてその時2000度近い熱線を受けて倒壊している木造の家が完全に発火点に達し煙が上がり始めた。

 

満身創痍の母が「さあ、みんな逃げるよ!」と言い、私達はよたよたしながら避難を始めた。

 

その日の夜は周囲を転々としながら見つけた火の気から離れた広い畑で過ごした。

 

60~70人に膨れ上がった近所の人たちと共に一晩中燃え盛る広島の空を眺めながら殆ど一睡も出来ずに8月7日の夜明けを迎えたのだった。

 

その日は朝から畑にあった大八車に私と妹そして母が乗り、まだ軽症だった2人の弟が引っ張る。

 

電車道を大八車を引っ張って下って行くと救援に来た2~3人の男性が声をかけてくれた。

 

「おーいぼくら、江波小学校へ避難しんさい。そこが救護所じゃ。」

 

2km以上下って行き到着した救護所には医師がいるわけではなく、軍の衛生兵が赤チンを塗って消毒してくれるだけの場所だった。

 

しかしそこで兵隊が私と妹と母をタンカに乗せて教室の片隅に寝かせてくれた。

 

私は背中一面のガラスを抜いてもらいながら前の晩に寝ていない事も相まって深い眠りについた。

 

上の弟はその日と翌日も母に頼まれて広島市内中を父を探して歩き回った。

 

8月8日朝、母は私に下の弟を連れて三次に帰り誰かに迎えに来て欲しいと頼むよう言った。

 

なので私達は急いで広島を離れ三次に向かった。

 

それが被爆前後数日間の私の広島での体験だ。

 

 

 

そして父はその後も見つからなかった。

 

翌年県警本部から届いた小さな骨壺には父が最後に目撃された付近から拾い上げた誰の物ともわからない白いお骨がひとつ入っていた。

 

父は39歳だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

平和な未来が続きますように

せぎ ひろちか(瀬木寛親)