滝廉太郎「雪」 ~ 麗(うる)しき ~ 野口雨情「十五夜お月さん」 | 愛唱会ジャーナル

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当面の練習曲に含めた『四季』(滝廉太郎)の中の冬の曲「」(詞・中村秋香)

 

   一夜のほどに 野も山も
   宮も藁屋(わらや)も おしなべて
   白銀(しろがね)もてこそ 包まれにけれ
   白珠(しらたま)もてこそ 飾られにけれ
   まばゆき光や 麗(うる)しき景色や
   あはれ神の仕業(しわざ)ぞ
   神の仕業ぞ あやしき

 

変ホ長調、四声部、4/4拍子、Andante、27小節(うち前奏2、後奏1)、演奏時間約1分40秒の荘厳な印象の曲。

 

前奏がモーツァルトの Ave verum corpus のそれを踏まえているのは、歌詞が“神の仕業”で締め括られていることによるものか。

 

歌詞と言えば、“麗(うる)しき”はどう受け止めればよいのか。国語大辞典(13巻本)にもあたって見たが、見当たらない表現だ。意味は明らかに現代語の“麗(うるわ)しき”に相当すると思われる。

 

“麗(うるわ)しき”を“麗(うる)しき”と縮約する慣用法があったのだろうか。大辞典にはその旨の記述は無い。当方の見落としだろうか。

 

ちなみに、ウェブ上の音源はいずれも“麗(うる)しき”と歌っている。先達が踏襲している歌い方に倣うべきか。

 

頑固爺は、一抹の不安を抱えながら、“麗(うるわ)しき”で歌うことにした。八分音符に“る”と割り振られているのを“るわ”とすれば足りる。何ら不自然ではない。

 

類似の事例がある。

 

十五夜お月さん  野口雨情/本居長世

 

十五夜お月さん 御機嫌さん 婆やは お暇(いとま)とりました

十五夜お月さん 妹は 田舎へ貰(も)られてゆきました

十五夜お月さん 母(かか)さんに も一度 わたしは逢ひたいな。

 

第2節中“貰(も)られて”は“貰(もら)われて”の意味に違いない。何故わざわざ舌足らずに縮めたのだろうか。

 

各節対応部分の音節数を揃えたかったのかとは想像できる。譜割りで簡単に調整できると思うのだが、安易な便法は、詩人や音楽家の繊細な芸術的センスには沿わないのか。

 

“田舎へ”を“里へ”とすれば音符をいじる事無く“貰(もら)われて”と歌える。これこそ芸術家に唾棄されるだろうか。