福田海本部(岡山市北区) | 神社ぢからと寺ごころ

神社ぢからと寺ごころ

寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

「人々の平和を守る過酷な仕事をしてる吉村は、貴重な休日に岡山の実家に帰省したところ、高井というヒッピーの青年に出会い、身勝手な高井に強引に観光案内をさせられることになってしまいました。」


なんのこっちゃって冒頭ですが、このお話を続けながら、今日の記事を進めていくことにします。


天柱岩から北に下りて行きます。


魅力的な岩が所々にあります。


たいぶ下りてきました。

ここでちょいと休憩です。

なんかの供養塔かお墓

「レンタカーを借りて、吉村と高井がやってきたのは、福田海本部でした。」
福田海とは、明治33年に中山通幽が、聖徳太子・役行者・行基の教えに基づいて開いた修験道の寺院です。

通幽は当初小学校の教員をしていたが、修験道に強い関心をもち大和の大峰山で修行し山伏になった。
『陰徳積善』を生涯の目標と定め、無縁仏の供養、霊場・旧跡の修復活動に取り組み、昭和2年に吉備津に帰郷し、有木の青蓮寺を聖徳太子の四福田から『福田海』と名付け本拠地としたそうです。


中央の八角形のやつは易塚だそうです。

中山から下りてきてるので裏から入ることになります。

石仏ずらり

お目当ての鼻ぐり塚
農耕や搾乳で使役された後に、あるいは近年ではその目的で飼育され、解体されて肉や皮が人の用に供されていく牛を供養する為に、牛の鼻ぐりを集めて円墳の上に積み上げた塚です。

鼻ぐりとは、牛の鼻の輪っかのことね。

撫で牛ではありません。
供養のための石像です。

豚もいます。

動物の供養ですからもちろん上部に座すのは馬頭観音です。

鼻ぐり塚は、元々あった古墳を利用しているらしいです。

「鼻ぐりをとってアクセサリーにしようとする高田、それを止めようとする吉村の言うことを聞かずに、腕にはめて車で立ち去ってしまいます。
それを見ていた怪しい修行僧が念を送ると、高井の腕を鼻ぐりが締め付け、痛みにハンドル操作ができなくなった高井の車は並木に激突してしまいます。」

目眩するほどの数の鼻ぐりです。
鼻ぐりは二年前の情報でも700万個を超えており、毎年たくさんの鼻ぐりが全国から納められているそうです。

小さな牛の置物もちらほら置かれていました。


「後を追ってきた吉村に助けられ、その日は吉村の実家に泊まることになった高井ですが、鼻ぐりははずすことができず、さらにそこから毛が生えてきていました。」

大師堂
この前にも全国から納められた鼻ぐりがたくさんありました。

建物の名称は調べきれないので、とりあえず写真だけ。

「夜中にまたもや現れた修行僧が再び念を送ると、腕の毛は高井の体中に広がり、翌朝には頭部から二本の角が生えていました。
それがバレないように吉村らが出かけた後に一人で朝食を食べるのですが、臭いも味もうけつけなくなっていました。
庭に出て、雑草を口に入れ、美味い美味いと食べだすのですが、草が美味いなんて嫌だとすべて吐き出してしまいます。」

弥勒殿
一名中堂ともいうそうです。

井戸

中堂の後ろ
磐座であったとも言われる大岩には、『鎮遠』の錨と理源大師、役行者の石像がありました。

『鎮遠』は日清戦争時に、日本海軍と戦った清国の軍艦名で、この軍艦を弔い、現在その錨が不動尊として祀られているんだそうです。

なんで当時の敵国の軍艦を弔うのかわかりませんが。


「これは祟りに違いないと、あわてて鼻ぐり塚に行った高井は、二足歩行もままならず、頭部は完全に牛のようになっていました。
塚に向かって許してくれと懇願しますが、修行僧(実はヤプール)により巨大化され、超獣カウラになってしまいました。」

ウルトラマンA第16話 怪談・牛神男より抜粋でした。

ヒッピー高井は蟹江敬三さんが演じており、嫌な男の役やらせたらほんと上手いです。