神社ぢからと寺ごころ

神社ぢからと寺ごころ

寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

今回の天橋立への目的は、もちろん籠神社だったのですが、もうひとつ大きな野望がありました。

それは陰陽石です。

珍宝岩と名付けられた巨大な生々しい造形がそそり立つ陽石と、その上に陰石、さらに子石まで揃っているという非常に魅力的なものです。

しかしながら、アクセスよくわかっていない行き当たりばったりであることと、冬眠から目覚めた春熊の生息地であること、そしてなによりも片道一時間の山道であることで時間的にも無理なので諦めました。

諦めたとして、何か代わりになるようなものはないかと、行ってきたのが、こちら。

宮津市教育委員会による説明
この磯を涙ヶ磯といい、正面の牛の背のような石を身投げ石とよぶ。

丹後の近世地誌類は二つの伝承を伝えている。

一つは謡曲『丹後物狂」の関連の伝承である。
岩井殿はこのあたりの長者で、文殊大士に祈って男子花松をもうけた。花松は、成相寺で修行のころ、ふと吐かれた父の叱責のことばに、この磯から身を投げて死のうとする。
それを筑紫の船頭にとりあげられて九州彦山で修行し大成、そして忘れられぬ父を尋ねて再びこの地に来た。いっぽう、子を失った父は悔いて狂乱、わが子を尋ねて果たさず、再びこの地に帰ってきた。
その二人が文殊堂で再会するという筋である。

この『丹後物狂』は室町時代、世阿弥が改作した能で、人気曲であったが、江戸時代に廃曲の道をたどったとされる。

もう一つは、江戸時代後期の『丹哥府志(たんかふし)』に記された伝承で、源平合戦の時、屋島に敗れた平忠房の白拍子花松が、あるじに向けられる源氏の捜索の目をくらますために、ここで身を投げて死んでしまったという悲話である。
伝承が伝承を呼ぶ。

もしかしたら自殺の名所だったのかも知れませんね。

石仏

そして、これが身投げ石です。
ここからジャンプして海まで届く距離ではありませんが、昔はこのあたりまで海岸線だったのでしょうかね。

とはいえ遠浅なので身投げしても。。。以下自粛。

牛の背のような石と説明されてましたが、どう見てもこれは。。。

男根ですよ。

先端部から見たらカリがよくわかります。
そんなわけで、身投げ石のこと調べてましたら、陰陽石であるという情報を見つけました。

身投げ石が陽石であるのは、見たまんまでわかりますが、陰石はどこにあるのだろうか。

あった。

紛うことなき陰石ですね。

これは陽石か?

これもどっちだ?

これは陰石ですね。

いわゆる割れ石がいくつかあります。
元々ここにあったというより、意図的にここに集められたのでしょうかね。

案内もあるし、伝承もありますが、ここをわざわざ訪れる人はいるのだろうか?
この空間独り占めして、次へ向かいます。

これはリンクだな。