生まれ育った土地に住んでますと、家業を継いでる小学校の頃の友達がいて、ほんと久しぶりに会うと本人かわからんくらい顔が変わってしまってるので、確認してやっと面影が残ってるのに気づくことがあります。
お互い様なんですけどね。
何年ぶりやろうと考えたら40年ぶりとかで、ゾッとしますわ。
そりゃ老けるわけです。
ふと、古今亭寿輔師の老人天国という落語を思い出しました。
化粧品会社のCMで『美しく老いる』なんてフレーズがあるけれど、そういう『オイル』があるのかと思いましたよ。
美しく老いる訳ないでしょう。
人間誰しも老いるのは自然の流れなんです。
年なりに老いる。
それが正しいんてす。
久々にお江戸の寄席に行きたくなりました。
さて、吉備津彦神社から背後の吉備の中山に登っていきます。
ただひたすら登ります。
黙々と。
元宮磐座まで300mの案内出ました。
八大竜王も祀られてるのね。
ここまでに三人すれ違いましたが、山での挨拶の後、念の為全員に山頂の磐座への道はこれでいいのか聞きました。
一人は山頂経由せずに吉備津神社から来られてたようでしたが、あとの二人は磐座がよくわかってなくて、山頂って言葉から、『龍神さまならこの道で』って。
八大龍王のほうが有名なのか。
もうひと頑張り。
なんで撮ったのかわからん写真も多いですが、一応載せておきます。
見えてきました。
授与所で聞いたところ、磐座まで初めてだと40分ぐらいってことでしたが、もうちょい早くつきました。
吉備津彦神社元宮の磐座
近くで。
吉備の国は、製鉄産業において当時は日本一だったと思われます。
当然、優れた武具は鉄製ですから、吉備の国が力を持つのは大和国にとっては危険なわけです。
なのでなんとか理由をつけて制圧したかったはず。
さりに、備前、備中、備後さらには美作に分国させて力を分散されたわけです。
このとき備前と備中は、祭祀をする上で大切な吉備の中山を仲良く二つに分ける形で、この山の真ん中に国境を定めまたそうです。
となると、吉備津彦神社の元宮と言われてますが、備中国一宮の吉備津神社の元宮でもあったのかも知れません。
磐座に近づきます。
磐座の上部にも石が続いてます。
あくまでも僕の磐座感ですけど、これは磐境ではないです。
磐境であるならば、下部にもっとあるぺきです。
現在無くなってるだけかも知れませんし、そもそも磐座や磐境の考え方が大和国のものであるとするならば、吉備国には当てはまらないのかも知れませんけど。
どちらにせよ、山にある磐座って山頂にないことが多いですけど、これは磐座があくまても祭祀のためのもので、いわば祭壇であったんじゃないかってことです。
常々言ってることですが、磐座を信仰していたわけではなく、信仰に必要だったから磐座、そして磐境を形成したってことなんだと思います。
磐座を信仰してたなら山頂に築いたはずです。
頂上に向かっていきます。
なんかありますね。
これが龍神社のようです。
説明
勝手に賽銭箱が設置されていたようですね。
虎の威を借る狐ならぬ、信仰の威を借る詐欺師ですか。
祭祀場のようなスペース
磐座の方に下りて行って気づきましたけど、元宮磐座の背後のこれって陰陽石ちゃうかな。
磐座から改めて見ますと、陰陽石の間から小型の石が見えますよ。
まさしく男女子配列です。
もうフリガナつけませんけど、男女子です。
吉備の中山には、鏡岩、夫婦岩遺跡、古墳、石仏など多くあるようですが、時間の都合で下山します。
吉備津神社方面ではなく、途中のこの岩に寄っていきます。
天柱岩と名付けられています。
岩の下に降りてきました。
この岩は『ヌスト(盗人)岩』とも呼ばれていたそうですが、、昭和9年に中山通幽が『天柱』の文字を刻んだことから、『天柱岩』と呼ばれるようになったそうです。
吉備津彦神社の絵図には、この岩に『権現岩』の名が記されているようです。
古代の人々から信仰のシンボルとして祭祀されていたのでしょう。
中山通幽という人については、次回書きますけど、そのゆかりの場所に寄っていくことにしました。
足元気を付けて山を下ります。