矢田坐久志玉比古神社と御朱印(大和郡山市) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

二月も半ばを過ぎましたが、ブログの上では、1月2日の記事です。
 
元旦は産土の神さんのみお詣りしましたので、翌二日に役行者霊蹟寺院に向かいました。
 
もちろん道中に立ち寄るとこもしっかり決めてですが。
 
まずが、矢田坐久玉比古神社です。

二度目の参拝ですが、前回はほんと駆け足すぎたので、今回はじっくり観察しましたよ。
 
手水舎
 
版画調の手水の女の子
 
楼門
 
狛犬
 
楼門にはプロペラ
 
氏子さんたちでしょうか、注連縄を編まれてたので、しばらく見学させてもらいました。
 
神馬
 
いざお詣り
 
拝殿
 
本殿
 
磐座
 
二之矢塚
御祭神である饒速日が上空から放った三本の矢のうちの二本目が落ちた場所とされています。
 
なので別名、矢落明神です。
 
縄で巻かれてる中に磐座があるようです。
 
御由緒に書かれている内容を見ると、饒速日のものというより天火明のものであるように思えてきます。
 
天火明と饒速日を同一とする見方も、先代旧事本紀を重視する方の中では多いようですが、個人的には天火明と饒速日は別神と思っています。
 
このあたりちょっと複雑なのですが、同一とする意見に、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という名を根拠にされることがあります。
 
これを饒速日の本名だと言うのですが、この名が付けられたのって、もっと後世なので、称えた名、すなわち戒名みたいなもんだと思うんです。
 
それと饒速日を天忍穂耳の長男である天火明と同一としてしまうと、神武天皇との世代が合わなくなります。
 
原田常治氏の古代日本正史にはじまり、小椋一葉氏などが確立された神社伝承学という考え方では、この世代差を埋めるために、日向三代を三兄弟としてしまってるんですが、根拠が乏しいように思います。
 
一応フォローしておきますと、神社伝承学自体は秀逸な切り口もあり、ロマンがあるので面白いですよ。
 
一時期ハマリましたけど、だんだん矛盾が気持ち悪くなって距離を置くようになったんですけどね。
 
いろいろ見解ありますけど、やはりここは饒速日は天忍穂耳の曾孫である見方に一票入れたいです。
 
むしろ天火明と同一とされているのは、火照のほうじゃないかと思ったりするわけです。
 
このブログを始める二年ぐらい前までは、饒速日大好きでしたから、饒速日関係の神社ばっかり行ってたんですよ。
 
ただ、回れば回るほど、調べれば調べるほど、なんか違うように思えてきて、一度目線を変えてみたんです。
 
饒速日中心で見るのではなく、天火明を中心にして見てみようと。
 
そしたら、疑問が少しずつですが晴れてきたように思えます。
 
よく饒速日は歴史から抹消された神とか言われることあるでしょ?
 
むしろ消されたというか、排除されたのって天火明のほうじゃないかって思うようになったんです。
 
本来は天君を継ぐのは天火明だったはずが、弟の瓊瓊杵の血統が本筋になったので、中央の伝承から外れるのは至極当然のことです。
 
天皇家に繋がらない人のことを詳しく書き残す必要ありませんもの。
 
このあたりの話はかなり長くなるので、これ以上は本日は語りませんが、いずれまた。
 
とはいえ明日もちょっと尼津彦ワールドやりますけどね。
 
 
御朱印はかなり前に戴いてます。