今までたどってきた道より、これから先の道が短くなった今日日、いろいろ頭や心をよぎるものを聞いてください。
またまた私が通っている温泉での話です。多分デー会員のおじさんだと思います。10時頃来て午後に帰る(私の予想です。)方ですが、施設にいる間中チューインガムをかんでいます。トレーニング中はもちろん、休憩中も入浴中もチューインガムをかんでいます。これはすごいと思います。あんなに一日中ガムをかんでいると食欲がなくなってしまうのではないかと他人事ながら心配になってしまいます。そして、またまた温泉施設で毎日見かけるおじさんですが、温泉に入るのに水中めがねをつけて入ります。たまに潜水なんかをしたりして、何がしたいのでしょうか。この施設にはプールも併設されていますから、そちらでやればいいのではないかと思いますが?まあ、世の中いろいろな人がいるもんです。観察していると面白ですよね。
またまた温泉施設での話です。駐車場での出来事です。いつになく混んでいて駐車場が満車に近い状態でスペースを見つけるのも大変でした。駐車場内をスペースを探しながらゆっくりと進んでいると、私の前を走っていたお年寄りの男性が運転する軽自動車が、曲がり角の黄色いペンキで駐車禁止エリアに車を入れて駐車しようとしました。その場に駐車をされると車が曲がるのに支障を来すような場所です。私は思わず「そこ駐車禁止ですよ。」というと、「かまわねえんだよ。そんなこと。」といって、車を止めてしまいました。まあ、自分さえよければ他の人の迷惑は考えないのでしょう。また、駐車場には係員がいません。係員が巡回をして、駐車禁止エリアに駐車している場合は放送して車の移動をお願いするということも必要ではないかと思いますが、そんなこともやりません。ルールを守らず駐車するのもどうかと思いますが、もう少し管理を安全性を考えた方が事故を防げるのではないかとおもいますが、どう思いますか?
私がメンバーになっているフィットネスジムは、温泉施設に併設されています。レギュラーメンバーで月8,000円ぐらいの会費です。ジムのマシンはもちろんフィットネスプログラムやプール施設、温泉施設は使い放題です。一度温泉に入浴するだけで600円ぐらいの値段なのでかなりリーズナブルです。もちろん温泉施設なのでたくさんの人が利用します。畳敷きの大広間(旅館の宴会場のようなもの)があり、食事をしたりステージに上がってカラオケ(有料)を歌ったりできます。そんな大広間の壁の数カ所に、横にならないでくださいという貼り紙があります。しかし、たくさんの人は横になっています。中にはしっかりと昼寝をしている人もいれば、持ち込みなのでしょうかタオルケットをかけてしっかりと寝る体勢をとっている人もいます。そんな人がいても、係の人は全く注意をすることがかりません。何のための注意書きの貼り紙なのでしょうか?別に横になってもよいのであれば貼り紙は剥がした方が気持ちがよいのではないかと思います。ここの温泉施設にはたくさんの注意書きの貼り紙があります。でも、何一つ守られず注意する係員もいない状態です。「シャンプーやリンスを詰め替えるな」「毛染め厳禁」「ドライヤーは頭髪専用です。それ以外に使用しないでください。」等々、不思議な施設です。
2月12日に手術したのに、未だに退院ができないどころか、点滴もお腹のドレーンもとれない。前立腺のロボット支援手術を受けたのが2月12日でしたが、7年前に胃がんのため胃の全摘手術を受けている。そのために、腸の癒着が激しく、ロボットが前立腺に届くまでに腸の癒着を剥がしながら進んでいったそうですが、癒着のために腸管に穴があいて縫合したらしい。前立腺の全摘手術は無事終わったのですが、お腹の痛みが全然取れず、傷口から腸液らしいものも流出しているということで、消化器外科の先生に診てもらい、CT検査を受けたところお腹の中に腸液が漏れ出し腹膜炎を起こしていることが判明し、急遽緊急手術となってしまいました。1回目の手術が12日日で、緊急手術が17日、1週間の間に全身麻酔での手術を2回も受けることになりました。しかも今度は開腹手術です。結果として、腸に2か所穴が開いていたのを切り取ってつなぎ合わせ、今までの癒着を剥がしお腹の中をきれいに洗浄する手術をしたそうです。(他人事のようですが、実際には麻酔が効いているので何もわかりません。)2回にわたる手術の結果、血液中に血栓を作る因子が上昇してしまい、血栓を溶かす薬を投与しつつCTで血栓があるかどうかを確認したりもしました。結果としては血栓はできていませんでしたが、しばらくの間点滴が続いていて今の腕に刺さったままです。腹部のドレーンも少しずつ引き抜いていく作業なので、未だに管がわき腹から出ています。病院の医師や看護師たちはそれでもずいぶんと良くなったといってはくれていますが、当初1週間の入院予定が2週間を過ぎて半月になろうとしています。自分より後に入院手術した人が先にどんどんと退院していくのは、寂しい限りです。1度お腹を開けた人の宿命である癒着、甘く考えていました。あまり病院に長くいると通常の感覚がマヒしていますようで怖いです。早く退院しいつもの日常に戻りたいです。
病気で気が弱くなっているのか、それとも病気のために先のことを考えることができなくて後ろ向きになっているのか、最近昔のことをよく思い出します。 それも小学生ぐらいのこと 家の前の道路(まだ砂利道)でキャッチボールをしたこと、車はほとんど通らないので道路は子供たちの格好の遊び場。 小学校の水道。足洗い場の排水溝をぞうきんでせき止めて、水遊びをした。水道には鎖でアルミのコップが括り付けてあった。 家の手伝いで、鍋をもって豆腐屋さんに豆腐を買いに行った。肉屋さんに豚小間を買いに行くと、お駄賃で一切れのチャーシューを口に入れてくれた。 昭和の思い出はこころによみがえる今日この頃です。
前立腺がんの手術のために今日入院です。 結局、前の病院で検査し前立腺がんが見つかったけれど、その病院では開腹手術以外は放射線治療しか選べないので、大学病院を紹介してもらい、そちらでロボット支援手術をすることになった。 胃の全摘から7年目です。胃の全摘で食欲という思う存分食べる満足を失いました。 今度はひょっとすると性欲を満たすという機能を失うかもしれません。何か体の機能を失いながら命を伸ばしていくということがどういうことなのかよくわからなくなってきました。 全身麻酔での手術は2回目ですが、やっぱり恐怖心はあります。手術中私の体がどうなっているのか本人はまったくわからないという恐怖。 手術が終わって気が付いた後の痛みや不自由さとの闘いの恐怖。 今は、全力で駆け足することも、思う存分ゴルフをすることも、どこへでも旅行することもできるのに、体の中では癌細胞が居座っている、このままほっておけば、いつかは体全体が蝕まれてしまう。 仕方がないのかもしれないが、やっぱり何で俺がと思ってします。
胃の手術の後は経過観察を5年間行います。3か月ごとの血液検査と1年ごとの内視鏡検査とCT検査です。3か月ごとの検査では、腫瘍マーカーと貧血の検査と肝臓やその他の機能検査が主でした。胃の手術を受けると貧血気味になるそうです。実際貧血は薬を飲むか飲まないかのぎりぎりの数値だったそうです。それ以外は、ずっと正常値でした。もちろん腫瘍マーカーも正常値でした。これが落とし穴でした。腫瘍マーカーとは癌それぞれの数値なんだそうです。胃がんの腫瘍マーカーは胃がんだけのもので、数値が上がるということは転移があるかどうかだそうで、他の原発がんの数値は関係ないそうです。これが無知の大きな勘違いでした。3か月に1度のマーカー数値が正常値だからと言って、他にがんがあるかどうかはわからないということを知らなかった。主治医が何でも見てくれているのではなく、胃がんの術後の経過のみを見ていたということで、他のことについては人間ドックとか生活習慣病の集団検視をしっかりと受けなければだめだということです。もちろん、人間ドックや生活習慣病検診も受 けていました。そのたびに要精検の通知を頂いていました。でも、癌についてのオプションは付けずに一般検査のみで過ごしていた。この無知が・・・・・癌って予防できるのでしょうか?できるならどうすればいいのでしょうか?
結局術後は順調でした。でも、何かが違いました。胃の全摘をした人は中々食べられないという話でしたが、私の場合は少しずつ慣れてきて半年ぐらいでお蕎麦やうどんなら一人前ぐらいは平気で食べられるようになりました。でも、満腹感がないのです。いくらでも食べられるというのではありません。食べ進めていくと、ある程度のところで一口でも入らなくなるのです。苦しくなるのです。ゲップが出ないのです。つまり、腸を胃の代わりにつないであるので、腸は細いし広がらないので食べ物が腸に重なってその食べ物と食べ物の間に空気が挟まってしまい、食べ物が下に落ちないのです。胃ならば広がりますのでその空気はゲップとなって出ていきますが、そうならないのです。さらに、一口でも入らなくなるというのは、その一口が食道にとどまってしまう。これこそ苦しいのです。苦しいので横になります。そうすると逆流して食べたものが口の方に戻ってきます。でもその戻ってくる食べ物には腸液が混じってそれはそれは苦いのです。胃液なら酸っぱいのですが、腸液が戻るのでこの苦さはいつまでも口に残るだけでなく、喉がやられて苦しいのです。この一口も入らなくなる兼ね合いが難しいのです。このことは、外食していると通説に感じてしまいます。せっかく注文した料理です、残らず食べたいし食べないと失礼に当たると思います。でも、食べられないことは、作り手に失礼に感じてしまう。そうするとついつい無理をしてその一口の限界を超えてしまい、後でしばらくの間苦しい思いをすることになってしまいます。金を払うのだから残しても構わないと思うのですが、ついつい食い意地のせいもあるのか食べてしまうのです。そして、満足感、満腹感は感じなくなってしまいました。さらに、胃の働きは食べ物を少しずつ腸に送り出す役目もしています。しかし、胃の代替の腸はただの管ですから胃のように食べ物をためておけません。どんどん送り出して今うので、すぐにお腹がすいてしまうのです。さらに食べたものと一緒に間に挟んだ空気も腸に送るので、しばらくガスが出てしょうがない現象も起きます。これも、大変です。全部腸に送ってしまうと、満腹感はないくせに空腹感はすぐにくるのです。食欲という人の楽しみを半分以上失った感じがします。昔の「あ~食った食った」というあの食欲の楽しみが懐かしいです。それでも、こうして健康を取り戻したのですからありがたいものです。そんな私が二度目のがん宣告をうけました。
あんまりがんの話ばかりしていると、自分の心が沈んでしまいます。がんを告知されるということは、否が応でも自分の寿命を考えるということにつながります。でも、そんなことばかりネガティブに考えていても仕方がないと思います。時には本気になって考えることも必要かと思いますが、それで、年の瀬になって無性に子供のころのことを思い出します。人に聞かせるほどすごい話ではないのですが・・・私はまだ幼かったころ私の家の前はまだ舗装されていない砂利道でした。でも、家の隣は八百屋さんその先はお豆腐屋さん反対側には洋服の仕立て屋さんと新聞屋さんがあり、朝は納豆屋さんが来て、夕方にはおでん屋さんが屋台を引いて売りに来るそんな場所でした。そういえば、お豆腐屋さんに豆腐を買いに行くときは鍋をもってその中にお豆腐を入れてもらっていました。お肉屋さんに豚小間を買いに行くと、お駄賃に焼き豚を一切れ口の中に入れてくれた。そんなことがうれしくて家の手伝いをしたものでした。そういえば、隣の八百屋さんが初めてオート三輪車を買った時のこともよく覚えています。確か「ダイハツミゼット」という車だったと思います。今のようなハンドルではなくて、オートバイのような棒のハンドル、エンジンをかけるときはセルではなくてキックでかけていたように記憶しています。ワイパーは手で動かものだったような記憶もあります。ドアもあってないようなものでした。家の前は砂利道でしたので、八百屋のおじさんが運転中に運転席から投げ出されてしまったことがありました。ミゼットどんどん進んでいきましたが、おじさんはダッシュで追いつき飛び乗って運転を続けたのを見た記憶もあります。それだけおおらかだったのだと思います。道で子供たちはキャッチボールをしたり、バドミントンをしていました。たまにしか車が通らないので格好の遊び場だったようです。何でもないことですが、ふと思い出してしましました。
紆余曲折がありましたが、胃の全摘手術をしたのが今から7年前です。手術のために入院したのはよかったのですが、前日に発熱し検査をしたらインフルエンザにかかっているとのことで強制退院させられ、2月手術が先延ばしになり、結局3月10日に手術を受けた。胃の上部にできた腫瘍なので胃を残すよりも全適した方が治りも早いとのことでした。手術前にはいろいろな承諾書にサインをしました。麻酔の承諾、もしもの時の輸血の承諾、内容によっては脾臓の摘出や胆のうの摘出の承諾などたくさんありました。また、手術後は抗がん剤を服用しなくてはならないとの話でした。手術は5時間ぐらいかかったそうですが、私は全身麻酔のためにもちろんわかりません。手術室には自分の足で入り、手術台に乗って気が付いたら集中治療室で目が覚めたということです。全身がすごく痛く身動きが取れないのが目覚めた時の印象でした。何か体にたくさんの管がついているということを思いました。24時間集中治療室で術後管理をしてもらった後、病室に向かいました。背中には痛み止めの薬の管が、腕には点滴が、おしっこのカテーテルとお腹には何かわからない管が入っていました。病室に戻った午後にはすでに歩行の訓練があった。痛み止めを背中から入れながらも歩かないと治りが遅いということで歩かされた。最初にベッドから立ち上がった時に、全身麻酔の威力を感じた。体が重く自分の足で立つことがこんなに大変だということが分かった。また、私には背中から入れた痛み止め(麻酔)が合わずに全身に発心とかゆみが生じたために、早めに麻酔を外し点滴から痛み止めを入れて対処してもらった。しかし、順調に回復し5日ぐらいで水を飲むことができるようになり、1週間で少しずつ食事がとれるようになりました。最初は1口2口でしたが、少しずつ食べられるようになりました。退院の日も決まった2~3日前だったと思います。夕方突然に主治医が私の病室に入ってきました。主治医の先生は「すごく不思議なんですよね。全適した胃の組織検査をしたら、摘出したリンパの中にがん細胞が1個もなかったんですよね。」「手術前にステージ2と言いましたが、ステージ1でした。これって、いい意味の奇跡ですよ。」結局退院時には、傷口に痛み止めの薬を頂いただけで、今後の抗がん剤の治療などは一切ありませんでした。その後は、3か月ごとの定期検査と1年に一度の精密検査を5年間続けることになりました。でも、そんな私が2度目のがんの告知を受けました。
今から考えるともうすぐ7年目になります。」 人間ドックで胃の再検査の通知を受けた。実は、その1年前にも同じように胃の再検査の通知を受け、胃の内視鏡検査を受けたときに胃の粘膜が荒れているという診断で薬をもらった。 今度も同じだろうと実は1年近く放置していた。 また、人間ドックの期日が近づいて胃の再検査を思い出して慌ててかかりつけの医者に内視鏡検査をしてもらった。 今までならすぐに終わるのに、何やら様子が違っていた。胃の組織を何度も何度も採取している。何か違う? 検査が終わって医師からいわれた言葉は「間違いなく胃がんです。今から専門医に紹介状を書きますので、一刻も早く受診してください。」とのことでした。これって?なんで俺が?これで終わりなのかと思った。「もし不安で眠れないなら睡眠薬を処方します。」とまで言ってくれた。その日は一睡もできなかった。これが、今から約7年前の1月の出来事でした。がんの 告知を受けるということは、今まで考えたことがなかった自分の命、寿命について否が応でも考えてしまう出来事でした。そんな私が、今回2度目のがんの告知を受けました。今まで生きてきた時間よりこれから先の時間の方がずっと短くなった自分ですが、思いつくままに今までのこと、これから先のことをつづっていきたいと思います。自分の気持ちの整理のために・・
毎年11月9日・10日は地元の氏神様、大前神社の秋の例大祭です。今年は本殿と拝殿が国の重要文化財に指定されたこともあり例年になく盛り上がりを見せている。このお祭りは子供のころのことを思い出させてくれる。毎年楽しみにしているお祭りでした。今ではあり得ないことかもしれませんが、私が小学校の時はお祭りのときは午前中で学校が早じまいになった記憶があります。いったん家に帰り、親から小遣いをもらい自転車で神社に向かいます。露天商も楽しみで、焼きそば・煮イカ、そしてくじ引きと何を買うか悩んだものです。そんな中で、神楽殿で行われる代々神楽が楽しみでした。いろいろな面をかぶった人が笛と太鼓に合わせて踊る姿に胸が躍りました。中でも狐がユーモラスな踊りをおどり、最後にお餅やお菓子を撒いてくれる。紅白のお餅を拾うのに必死になった覚えがある。狐のお面をかぶった人は、子供にお餅を拾わせるために子供に向かって投げてくれる優しさも見せてくれて、いくつかお餅を拾うことができます。家に持ち帰って、お雑煮にして食べるときの嬉しさは格別でした。そんなことを思い出した例大祭、神楽殿も修復されきれいになった場所での神楽に懐かしさをおぼえた。素敵に胸が躍りました。
今まで歩いてきた人生よりも、これから先の人生の方が短くなってきた私ですが、最近ふと小さかったときのことを思い出す。この時期になると夏休みのことである。夏休みと言う言葉を聞くと今でも心がときめく。別に自分に夏休みがあるわけではないし、毎日が夏休みのようなのであるが・・・そろそろセミの鳴き声が聞こえてくるようですが、セミというと昆虫採集を思い出す。夏休みの宿題に昆虫採集をして、お菓子の箱にセミやクワガタやコガネムシなどを虫ピンで指して学校に持っていった記憶がある。そう言えば、当時の文房具屋さんに昆虫採集セットが売っていた。中には、注射器と薬品が2本(昆虫を殺す薬と腐敗を防ぐ薬)そして、虫ピンや三角に折り畳んだパラフィン紙などが何枚か入った箱で、紐がついて肩からぶら下げられるようになっていたような記憶がある。捕まえた昆虫に注射器で薬を注入し、毒殺し、その後防腐剤を注入すると言う、今考えてみるとものすごく残酷な行為を当たり前にしていたという、懺悔に近い行為を何も考えずにやっていた。普通の文房具やにこんな危ない薬品の入った昆虫採集セットを売っていたことも、今考えるとものすごいことだと思う。今はどこを探してもこんな昆虫採集セットを売っているところはないし、あの頃は当たり前に売っていた小刀(肥後の上)もない。子供達は当たり前に買っていた危険きわまりないこれらの道具、今だったらどうなるのだろうと思ってしまう。今は家の近くで虫取網をもってセミやチョウやトンボをとっている子供を見たことがない。昆虫採集が良い悪いは別として、自然と遊ぶ子供がいなくなってきたということは、自然が少なくなったのかそれとも子供がいなくなってしまったのか、ご時世なのだろうか?
車を運転していた時、カーラジオから野口五郎の「私鉄沿線」がかかった。そう言えば、今の駅には伝言板なんてものはなくなってしまった。学生時代私は京王線沿線にすんでいた。野口五郎の私鉄沿線の舞台は京王線ではないのでしょうが、どこの駅にも小さな伝言板があった。携帯電話もない時代、待ち合わせは大変だったと思う。電話も固定電話と公衆電話なので、急用で時間通りに待ち合わせ場所につけない場合でも連絡のしようがない。伝言板には、そんな伝言が書き込まれている事が多い。「30分以上待った。先に行く。」など恋人との待ち合わせはⅠ時間以上待つなんてことも当たり前だったかもしれない。でも、伝言板にも素敵な伝言がかかれていることもあった。伝言ではないかもしれないが、相合い傘に二人の名前が書いてあったり、私は昨日○○ちゃんと結婚しました。など、その後には「おめでとう」と書き込まれていたり、いったい誰に伝言しているのか…で も、こんな伝言を見ると他人事ながら素敵な不特定多数に対する伝言で幸せのおすそわけのようで楽しくなった。すれ違いだけでなく、素敵な伝言もあった私鉄沿線の伝言板が懐かしく思い出してしまいました。
京都旅行を企画してから毎日のようにホテルの情報をPCやタブレットで見ている。同じホテルでも当初予約した値段よりも安くなっている場合がある。そんなときにはためらわず予約をし直し少しでも安く宿泊しようと確認は怠らないようにしている。そんなサイトを見ていると口コミというコンテンツがある。やっぱり気になるもので、自分が宿泊しようとしている口コミサイトは思わず見てしまう。人によって同じホテルでも評価が違うと思ってしまう。そんな中、5段階評価の最低評価1をつけている口コミを読んでみた。ユニットバスの中に髪の毛が1本落ちていた。とか、浴室に黒かびがあったとか、フロントの対応が悪かったとか、あげくの果てには二度と泊まら ないと書き込んであるものもあった。これってどうなのかなと思う。確かに言い出したらキリがないこともあるが、フロントの対応については、客側の対応にも問題があるからだと思ってしまうこともある。客だから何でもホテル側は下でに出るのが当たり前だとか、言葉遣いだとか客側の言葉遣いはどうなのかと思ってしまう面もある。泊まる客側も相手の気持ちを考えた物言いをすれば、もっとよりよいサービスを受けることができるような気がする。私は、どんな場合でもコミュニケーションが大切だと思う。そうすれば、よほどの事がない限り口コミ評価1はつけないと思う。評価1をつけた客は、客評価1だと自分を評価しているような気がする。人の振り見て我が振りを直そうと思いました。
今、日本水泳選手権が行われている。先程100メートルバタフライで池江さんが日本新記録で優勝した。おめでとうございます。水から上がった池江さんが、左耳に水が入ったのか耳の穴に指 を入れたり、ケンケンをしたりしていた。水がとれたのだろうか?私は子供のころ泳げなかった。いわゆるかなづちでした。私が泳げるようになったきっかけは中学1年生の時に海で溺れかかったことです。この話をすると長くなるので省略しますが、それをきっかけに泳ぐことが楽しくなり、毎日のように夏休みは学校のプールに通った。特に平泳ぎが好きでした。と、いうより一番楽な泳ぎだったからかも知れない。毎日のように泳いでいると当然耳に水が入ることがある。一度水が入ると何となく気持ちが悪く、音の聞こえも悪くなる。指を入れたり、ケンケンをしたりと色々やっても水が取れないこともある。でも、水がとれる瞬間がすごく快感であった。もわっとした感覚で水の膜が破れたような感じになり耳の水が温かく感じる。これがすごい快感でした。不快な感じがこの瞬間に耳の水が温かくなるもわが最高である。変なことを思い出してしまった。今は水に入ることは面倒なのでプールに入ることはありませんが、時たま温泉でもこんなことがある。たまに、ごくたまにこの快感を味わうことができる。変なことに変な思い出がありました。
半年に1度は京都を訪れています。現役時代の仕事柄、京都へは何度も訪れていますが、退職してからは自分の心のままに一人で京都を訪ねるのがこの上ない楽しみとなっている。今月末にも京都を訪れる予定です。桜も終わりゴールデンウイークには少し早い時期に設定しました。新幹線で京都駅が近づいてくると、思わず車窓を見てしまいます。ホームに列車が入ると「京都タワー」が見えてきます。これが私の中で京都旅行の始まりの合図です。さあ、今日はどこに行こうか!何を見ようかと、心が弾みます。そして、京都からの帰りは東寺の五重塔です。五重塔が私の後ろ髪を引きます。何度となく京都を訪れていますが、毎回この気持ちは変わりません。私の京都は、京都タワーで始まり東寺の五重塔で終わる。そんな気がします。今回はどんな京都のなるのか楽しみです。
最近時代小説をよく読む。特に宮部みゆきさんの時代小説が好きだ。そんな時、ふと子供時代を思い出す。子供時代と行っても江戸時代ではない。昭和30年代である。あのころは、行商の人がたくさんいやような気がする。朝は納豆やさんが「なっとう」と大きな声で朝の空気を震わせる。当時の納豆は確か5円だったような気がする。今のような発砲スチロールの容器ではなく、木を薄く削った経木で納豆を三角に包んだものだった。アルミの弁当箱からスプーンでカラシを経木に塗りつけてくれた。環境に優しいと思う。夕方になるとおでんやさんが屋台を引いて鐘をならしてやってくる。串に竹輪とこんにゃくとゲソを刺したおでんをこれまた5円で売っていたような気がする。子供達は小遣いから1本買う。お母さんたちは晩ご飯のおかずに買うこともある。そして、夏になると金魚やさんや風鈴やさん。座ぼうき売りに物干し竿売りなどたくさんの行商人が来た。私たちの遊び場は道路でもある。車など滅多にとおらないので道路は格好の遊び場でもあった。そんなところに来る行商人たちは、私たちの素敵なお客様だったような気がする。懐かしい思いでです。
ついこの間の話ですが、鎌倉からの帰り宇都宮線小山駅に電車が到着すると、反対側のホーム(上りホーム)に「生蕎麦」というのれんとともにホームの立ち食いソバの店が見えた。 最近の街のお蕎麦屋さんののれんは、手打ちそばというのはよく見かけるが、生蕎麦というのれんはとんと見かけなくなったような気がする。 学生時代、朝食代わりに駅のホームの立ち食いソバにはよくお世話になった。 昔はそばよりもうどんの方が好きだったが、歳とともに蕎麦の方がうまいと感じるようになった。 今でも、上野駅のホームにある立ち食いソバにはお世話になっている。入口の自販機で食券を買うタイプですが、街中の立ち食いソバ(富士そば等)も今はそれが主流になっているようです。 昔は、大概かけそばかかけうどんでした。でも、たまぁ~に贅沢がしたくなったときには「天玉そば」を注文した。かき揚げのてんぷらと生卵をおとした温かいそばです。 私の食べ方は、かき揚げをつゆによく浸してやわらかくなったのを崩しておそばと一緒にいただきます。卵は黄身をつぶさないように白身と黄身を分けて、白身はかき揚げに絡ませていただきます。おそばとかき揚げを食べ終わった後、最後まで残しておいた黄身をそばつゆと一緒に飲むのがおいしいのです。今でもこのやり方は変わ りません。駅のホームの「生蕎麦」ののれんは、今でも私を誘惑する素敵なのれんです。