ほんだながわり -2ページ目

ほんだながわり

「読んだり、観たり、行ったり」だけは、何だかやりっぱなしじゃいけないような気がしたもので…。

『エクソフォニー』を読んでいて、次第に奇妙に思えてきたのは、私たちがなぜこれほど無邪気に自分の言葉という表現を使えるのか、ということだった。普通、母語はもっとも自然で、もっとも自分に近い言語だと考えられている。外国語を話すときには言葉を探すが、母語なら考えるより先に言葉が出てくる。だから私たちは、母語を透明な道具のように感じている。しかし多和田葉子の文章を読んでいると、その「自然さ」のほうが、むしろ少し不気味に見えてくるから面白い。

 

 

 

映画を観たとき、濱口竜介すげー、と思った。それで原作を手に取ったら、今度は原作がものすごく面白い。映画ではそこまで触れられていなかった哲学や文化人類学の話が、思いもしなかった方向へどんどん広がっていく。夢中になって読んだ。そして読み終えて、結局また思った。やっぱり濱口竜介、すげーな、と。原作と映画は、かなり違う。舞台も違うし、語り方も違う。それなのに、原作の大事なところが少しも損なわれていない。むしろ、ここまで大胆に別のものにしたからこそ、原作にあったものが別の形でくっきりと見えてくる。映画を観て震えて、原作に夢中になって、読み終えたらまた映画に震える。久しぶりに、そんな体験をした。

 

 

この物語は、小学生のころ、図書館で借りて読んだ本である。そして、読書というものに、ずぶずぶとはまっていくきっかけになった本のうちの一冊でもある。数十年ぶりに読み返してみたが、やはり好きな物語であった。ただし、物語の肝であるはずの第二部については、驚くほど記憶が抜け落ちていた。好きだったことだけは覚えているのに、肝心の中身はかなり忘れている。記憶というのは、なかなか都合よくできている。そのおかげで、「こんな話だったのか」と、ほとんど初めて読むような気持ちになる場面も多かった。それでも、元の世界に戻ったバスティアンが、自分の身に起きたことを父親に話して聞かせる場面には、心を動かされた。本屋のおじさんが、本好きの仲間としてファンタージエンの話をしてくれる場面もいい。物語を信じている者同士が、いちいち説明しなくても、どこかでわかり合ってしまう。あの、なんともいえない感じである。ちなみに、映画の影響で、幸せの龍の名前はすっかり「ファルコン」だと記憶していた。ちなみに原作では「フッフール」である。

 

 

文芸にビジネス書っぽさを取り込んだ結果、幅広い人が読みやすいエンタメ作品に仕上がったのかもしれない。普段あまり小説を読まない人でも、比較的すんなり入っていけそうだ。ストーリーも軽快で、ほとんど引っかかることなく、すぐに読み終わった。移動中やちょっとした空き時間に読むにはちょうどいいし、売れている理由もなんとなくわかる気がする。

 

 

伊坂幸太郎の比較的新しい作品『さよならジャバウォック』を読んだ。相変わらず、場面が映像として浮かんでくるような小説で、そのあたりのうまさはさすがだと思う。人物の動きや会話のテンポがよく、物語が次々に転がっていく。スピード感も素晴らしい。一方で、SFっぽさを出した表現には、少しだけおじさん感が出てきたようにも感じた。とはいえ、読者を最後まで引っ張っていく力は健在。頭の中で映画を一本観たような一冊だった。