『エクソフォニー』を読んでいて、次第に奇妙に思えてきたのは、私たちがなぜこれほど無邪気に自分の言葉という表現を使えるのか、ということだった。普通、母語はもっとも自然で、もっとも自分に近い言語だと考えられている。外国語を話すときには言葉を探すが、母語なら考えるより先に言葉が出てくる。だから私たちは、母語を透明な道具のように感じている。しかし多和田葉子の文章を読んでいると、その「自然さ」のほうが、むしろ少し不気味に見えてくるから面白い。
この物語は、小学生のころ、図書館で借りて読んだ本である。そして、読書というものに、ずぶずぶとはまっていくきっかけになった本のうちの一冊でもある。数十年ぶりに読み返してみたが、やはり好きな物語であった。ただし、物語の肝であるはずの第二部については、驚くほど記憶が抜け落ちていた。好きだったことだけは覚えているのに、肝心の中身はかなり忘れている。記憶というのは、なかなか都合よくできている。そのおかげで、「こんな話だったのか」と、ほとんど初めて読むような気持ちになる場面も多かった。それでも、元の世界に戻ったバスティアンが、自分の身に起きたことを父親に話して聞かせる場面には、心を動かされた。本屋のおじさんが、本好きの仲間としてファンタージエンの話をしてくれる場面もいい。物語を信じている者同士が、いちいち説明しなくても、どこかでわかり合ってしまう。あの、なんともいえない感じである。ちなみに、映画の影響で、幸せの龍の名前はすっかり「ファルコン」だと記憶していた。ちなみに原作では「フッフール」である。