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ほんだながわり

「読んだり、観たり、行ったり」だけは、何だかやりっぱなしじゃいけないような気がしたもので…。

斎藤幸平の『ゼロからの資本論』は、NHK Eテレの『100分de名著』テキストをもとにした増補版だという。いま、『資本論』というと、「思想的に強い」という感想を持つ人も多そうだ。本書は、そうした誤解をひとつずつほどいていく。マルクスが見つめていたのは、革命のスローガンよりもまず、私たちの日常を支える経済の仕組みそのものだったのだと教えてくれる。商品や労働、価値という言葉が、暮らしの手触りと結びついて立ち上がってくる感じ。読んでいると、いま世界で起きている出来事の多くが、どこか地続きに感じられた。
 

 

本書は、2020年3月に日経BPから刊行された、MaaS(Mobility as a Service)をテーマにした一冊で、シリーズの第2弾にあたる。前作も、MaaSとは何かという基本概念から各国の取り組みまでを幅広く紹介し、ベストセラーとなっていたらしい(未読)。本書はその続編として、MaaSをさらに深化させる「Deep MaaS」と、交通の枠を超えて異業種との連携で新たな価値を創出する「Beyond MaaS」という2つのコンセプトを新たに提唱している。フィンランド・ヘルシンキ発のMaaSスタートアップ、インドネシア発で東南アジアに普及した「スーパーアプリ」GOJEK、シンガポールのモビリティXなど、現地の担当者へのインタビューを交えながら紹介される事例は読んでいて飽きない。なかでも第8章で詳述されるカナダ・トロントにおけるGoogleの関連会社「サイドウォーク・ラボ」によるスマートシティ構想の話は興味深かった。しかし、読後にあらためて調べて少し複雑な気持ちになった。このトロントのプロジェクトは、本書刊行のわずか数か月後にあたる2020年5月、サイドウォーク・ラボ自身の手によって撤退が発表されている。表向きの理由はコロナ禍による経済的不確実性とされたが、プライバシーへの懸念や市民・行政との合意形成の難しさなど、複合的な問題が背景にあったとも報じられた。本書で「未来都市の具体像」として輝いていた事例が、すでにもう幕を閉じていたのだ。もちろんこれをもって、本書の価値が低いなどというつもりは毛頭ないけれど、未来への期待と現実の変化のスピードの落差に、少し目眩がするような感覚を覚えた。

 

 

本書は、哲学者の斎藤幸平さんによるエッセイ集だ。タイトル通りだが、ウーバーイーツの配達員として働き捻挫し、山でシカと向き合い、水俣を訪れて涙する。その一つひとつが、資本主義や環境破壊といった大きなテーマへ静かにつながっていく。近年、「リベラル」という言葉は空虚さを帯びがちだ。理念は立派でも、生活の実感から遠いではないかと思われているフシがある。けれど斎藤さんは、理論を携えながら現場に身を置く。思想が現実と摩擦を起こす瞬間を引き受けようとする姿勢に、失われつつある信頼を回復する可能性を見る。リベラル最後の希望かもしれない。また印象的だったのは、福島で活動する小松理虔さんが語る「共事者」という言葉への言及だ。問題を外から批評するのではなく、事を共にする人として関わること。斎藤さんの実践もまた、その方向を示しているように思う。社会変革とは巨大な理想の実現ではなく、関係の編み直しなのだろう。

 

『庭の話』は、インターネット以降の社会において、自分たちはどのように世界と関わることができるのかを問い直す評論である。巨大な物語が失効し、SNS的な小さな共感圏が増殖する時代に、筆者は「庭」という比喩を提示する。宇野の言う「庭」は、インターネット的な「無限に開かれた空間」とは対照的だ。SNSは、世界を無限に拡張するように見えて、実際にはアルゴリズムによって囲い込まれた快適な内輪へと収束していく。その構造に対し、宇野は「自分の手で耕し、手入れし、責任を負う場」としての庭を対置する。それは、小さいが現実的な公共性であり、匿名的な炎上や消費のサイクルとは異なる回路である。本書が興味深いのは、「庭」という提案が唐突に現れるわけではなく、思想史的な文脈に丁寧に接続されている点だ。特に、吉本隆明の幻想論への言及が印象的だった。さらに面白いのは、吉本の「後継者」とも言われる糸井重里へのまなざしだ。宇野は、糸井的な語り口…親密で、否定を避け、読者を包摂するスタイルが持つ強さと同時に、その限界も指摘する。それは対立を回避し、痛みを減らす代わりに、構造へのラディカルな批評を弱めてしまう可能性をはらんでいると、なかなか率直だ。もっとも、宇野自身が『ほぼ日』の20年来の読者だという。だからこその目線なのかもしれない。ハンナ・アーレントの『人間の条件』へと連なる議論も、軽やかで読みやすい。難解な理論を扱いながら、文章はどこか柔らかい。そのリズム自体が、ある種の「糸井的」な身振りなのだろうか…そんなことを考えながら、本を読み終えた。

 

本書は、自己肯定感を高めようとか、理想の自分を目指そうといった、よくある自己啓発の文脈とは逆に、「そもそも自分にそこまで意味を持たせなくていい」という立場が一貫して語られる。仏教の考え方をベースにしながらも、難解な概念説明はほとんどなく、日常の悩みや思考のクセをほどくように話が進むのが特徴だ。印象的なのは、「自分を信じられない」といった状態を、無理にポジティブに転換しようとしない点である。むしろ本書は、自信がなく、信じる価値観も見失いがちな中年期の感覚に対して、「それで普通」「そもそも探さなくていい」と肩の力を抜かせてくる。仕事や家庭、社会的役割を一通り経験したあとに訪れる、微妙な空白感や手応えのなさ…。何者かになろうとしてきたはずなのに、今さら、なりたい自分も見当たらない。そうした状態にある読者にとって、本書は「立ち止まってもいい理由」を与えてくれる本だと言えるかもしれない。