フィッツジェラルドやヘミングウェイを引き合いに、「時代を超える小説」と「そうではない小説」の話をよくしていた村上春樹。けれど『国境の南、太陽の西』を久しぶりに読むと、女性への眼差しの古さが、どうしても気になってしまった。時代を超えることをあれほど考えていた作家が、時代を超えられない側に立ってしまったように見えるのが、なんともやるせない…というのは少し大げさか。まあ、面白く読めたんだから、文句を言うのはやっぱりやめよう。
面白かったのは、自分というものが、思っているほど確かな存在ではないのだと考えさせられたことだ。自分の欲望も、自分の考えも、当然自分自身のものだと思っている。けれど実際には、他人の視線や社会の価値観、使っている言葉にまで、かなり影響されている。では、そうしたものをすべて取り除いた先に、純粋な「自分」がいるのか。どうやら、話はそこまで単純ではないらしい。
もう一つ印象に残ったのは、この世のどこかに「本当の正解を知っている人」がいるわけではない、という考え方だ。私たちはつい、社会のどこかには正しい答えが用意されていて、自分だけがそれを知らないような気になってしまう。でも実際には、誰もすべてをわかっているわけではない。これは、もっと多くの人に知られてもいいことだと思った。正解を知っている誰かを探し続けなくてもいい。そう思えるだけで、世界の見え方は少し変わる。
最後に引用されるベケットの『名づけえぬもの』の一節も、強く残った。「できない。それでも続けよう」。決して前向きな言葉ではない。希望を約束してくれるわけでも、「人生は素晴らしい」と励ましてくれるわけでもない。それなのに、不思議と少しだけ背中を押される。生きづらいとか、うまくいかないとか、そういうことも、まあ、そこまで大ごとにしなくてもいいのではないか。ただ続いていくなら、それでいい。そんなふうに思わせてくれる言葉だった。