ほんだながわり

ほんだながわり

「読んだり、観たり、行ったり」だけは、何だかやりっぱなしじゃいけないような気がしたもので…。

いつの日か富裕層になって世界中をフラフラすることを夢見ながら、いまも相変わらずゆらゆらと浮遊草のような生活を送る、28歳、男。と思っていたらいつのまにやらもう29歳…。も遂に終わり、花の30代に突入。といっていたのが、あれよあれよという間に40代に。

フィッツジェラルドやヘミングウェイを引き合いに、「時代を超える小説」と「そうではない小説」の話をよくしていた村上春樹。けれど『国境の南、太陽の西』を久しぶりに読むと、女性への眼差しの古さが、どうしても気になってしまった。時代を超えることをあれほど考えていた作家が、時代を超えられない側に立ってしまったように見えるのが、なんともやるせない…というのは少し大げさか。まあ、面白く読めたんだから、文句を言うのはやっぱりやめよう。

 

読み終えてしばらくすると、「何が起きた話だったっけ」と、記憶が曖昧になっていた。けれど、知らない街を歩いていたことや、誰かの記憶をたどっていたこと、もう戻れない場所の気配みたいなものは、なんとなくイメージとして残っている。事件じゃなくて、失われたものの輪郭を追いかける小説なのかも。

 

 

 

長年ずっと父性と向き合ってきた村上春樹が、高齢になってそこをひとつ越えたような作品を書き、その次に母性と向き合う女性を描いた、ということがまず面白かった。とはいえ、年齢も性別も違う人物を主人公にするとは、これまでフェミニズム方面からいろいろ批判もされてきたのに、そこにわざわざ突っ込んでいくの? という驚きもある。

でも、主人公が絵本作家なのはよかった。物語好きの読者にはすっと入ってきやすいし、「好きな春樹作品」になりやすそうだと思う。自分もそのあたりは楽しく読めた。ただ作家が、この物語で書きたかった人物(人ならざるものも含む)が本当は誰なのか、最後まであまりよくわからなかったかも。

 

 

 

面白かったのは、自分というものが、思っているほど確かな存在ではないのだと考えさせられたことだ。自分の欲望も、自分の考えも、当然自分自身のものだと思っている。けれど実際には、他人の視線や社会の価値観、使っている言葉にまで、かなり影響されている。では、そうしたものをすべて取り除いた先に、純粋な「自分」がいるのか。どうやら、話はそこまで単純ではないらしい。
もう一つ印象に残ったのは、この世のどこかに「本当の正解を知っている人」がいるわけではない、という考え方だ。私たちはつい、社会のどこかには正しい答えが用意されていて、自分だけがそれを知らないような気になってしまう。でも実際には、誰もすべてをわかっているわけではない。これは、もっと多くの人に知られてもいいことだと思った。正解を知っている誰かを探し続けなくてもいい。そう思えるだけで、世界の見え方は少し変わる。
最後に引用されるベケットの『名づけえぬもの』の一節も、強く残った。「できない。それでも続けよう」。決して前向きな言葉ではない。希望を約束してくれるわけでも、「人生は素晴らしい」と励ましてくれるわけでもない。それなのに、不思議と少しだけ背中を押される。生きづらいとか、うまくいかないとか、そういうことも、まあ、そこまで大ごとにしなくてもいいのではないか。ただ続いていくなら、それでいい。そんなふうに思わせてくれる言葉だった。

 

幼馴染の二人とミヤビのあいだにあるものは、友情や恋愛といった言葉だけでは捉えきれない。ミヤビとの出会いをきっかけに、二人にはそれぞれ、それまでとは異なる変化が訪れる。そして、その先に待ち受ける出来事も、何かの報いや必然として描かれているわけではない。安易な因果関係や意味づけを拒むような筆致が、かえって作品に生々しさを与えているように感じた。