ほんだながわり -4ページ目

ほんだながわり

「読んだり、観たり、行ったり」だけは、何だかやりっぱなしじゃいけないような気がしたもので…。

遠い山なみの光は、カズオ・イシグロのデビュー作である。語り手の悦子は、決して露骨な嘘をつくわけではない。むしろ落ち着いた語り口で、淡々と過去を振り返る。しかし読んでいるうちに、語られていないこと、避けられている感情の輪郭が、少しずつ浮かび上がってくる。悦子の回想のなかに登場する佐知子は、自由で、どこか不安定さを抱えた人物として描かれる。二人の関係は親密ではあるものの、はっきりと定義されることはない…。文章は静かで、感情を強く揺さぶるような場面も多くはない。それでも、読み終えたあとには言葉にされなかった後悔や選ばれなかった人生の重さが余韻として残った。この物語が贖罪の物語なのか、それとも希望の物語なのか、はっきりとはわからないができれば希望の側に少し傾いているといいなと感じた。

 

 

本作は、カズオイシグロにとって二作目にあたる初期作品である。のちに『日の名残り』などで確立されていく、記憶の曖昧さや自己認識の不確かさといったテーマが、すでにこの段階で芽吹いていることがわかる。戦後日本を舞台に、老いた画家が自身の過去を振り返る。それだけ聞くと、回顧的で落ち着いた物語のようだが、読み進めるほどに、語りのあちこちに小さなズレや曖昧さが見えてくる。主人公は、自分がかつて果たした役割や影響力を高く評価しているが、その自己像は、周囲の反応や沈黙によって、少しずつ揺さぶられていく。印象に残るのは、自己評価と他者からの評価の乖離が、はっきりと断罪されることなく描かれている点だ。主人公は決定的な嘘をつくわけでも、明確に反省するわけでもない。ただ、自分にとって都合のよい語り方を選び続ける。その姿が、どこか他人事に思えず、時折、冷たい脇汗をかいた。人はどこまで自分を正しく評価できるのか。他者の視線と向き合うとき、どのように過去を語り替えてしまうのか。そんな、なんともいえぬ不安を覚えた一冊だった。

 

 

作中で描かれるバターたっぷりの料理や、身体の変化は、日本では自己管理の欠如や逸脱として見られやすい。しかし欧米の文脈では、それらが女性の欲望を取り戻す行為として肯定的に解釈されたようだ。この読みの違いは、社会が女性の身体をどう管理し、どう評価しているかの差そのものだと感じる。本作がイギリスで文学賞を受賞したことをきっかけに、日本で再評価の動きが起きたこともとても興味深い。

 

 

物語の中心にいるのは、傷ついた環境のなかで育つ少年だ。境遇も時代も自分とはまったく違うし、「似ている」と言える要素はほとんど見当たらない。それでも、読んでいるあいだ何度も、理由のはっきりしない共感が立ち上がってくる。この共感は、出来事そのものへの理解というより、少年の感情の揺れ方や、世界との距離の取り方に触れてしまうから生まれるのだと思う。説明しすぎないからこそ、読者は自分の記憶や感覚を差し込む余地を与えられる。この物語は決して軽い話ではない。むしろ暴力や喪失といった、大きな傷が描かれている。それにもかかわらず、読後に残るのは重苦しさだけではなく、どこか奇妙な心地よさだ。ブローティガンの文体は、悲惨さを誇張も救済もしないまま、淡々と差し出す。その距離感がすごくいい。ちなみに本書は、ブローティガン『ハンバーガー殺人事件』の同一訳者による改題改訳版。