ほんだながわり -11ページ目

ほんだながわり

「読んだり、観たり、行ったり」だけは、何だかやりっぱなしじゃいけないような気がしたもので…。

批評家、安藤礼二氏による、熊楠研究…ではなく熊楠論。あとがきで著者は、「現在の自分自身から限りなく離れていくために人は本を読む」というフーコーの言葉を引いているが、まさにその通りだと思える読書体験だった。最近、近代美術館で観たばかりのヒルマ・アフ・クリントとの繋がりも感じられて、また新しい熊楠と出会えた気がする。

 

 

穂村弘と最果タヒによる帯文が目に飛び込んできて思わず手にした、永井玲衣さんという若手哲学研究者の哲学エッセイ。本人による朗読で楽しめるのでオーディブルがおすすめだと思う。水中深く潜って考えるという哲学対話を少し疑似体験した気分。世界は常にボケ続けていて哲学はツッコミという話もじわじわ来る。

 

 

コロナ禍に連載されていた、川上未映子さんによる新聞小説。多くの人たちが、「職なくなる?」「家賃払える?」みたいな実感のある恐怖に包まれていた時期。あなたが今、読んでいるこの話は他人事じゃないからね? と突きつけてくる感じがもっとあったのだろうと想像する。安全圏から批評することへのアンチテーゼ。新聞小説って、こんなヒリヒリするもんだったんだ。
 

 

歴史学者の網野善彦さんによる、宮本常一さんの『忘れられた日本人』の解説本。網野先生は、短大のゼミで毎年、この名著を学生たちと一緒に購読していたのだそう。短大のゼミで? と一瞬、驚いたが、これも偏見の一つなのかも…と、すぐに反省した。『忘れられた日本人』はもともと誰が読んでも面白い類の本だと思うのだけれど、その魅力を、ただ持ち上げるだけではないやり方で教えてくれる良書だと思う。ちなみに網野さんは、『アースダイバー』などの著作で知られる文化人類学者の中沢新一さんの叔父さん。

 

 

これはいったい何を読まされているのだろう。呪詛のような言葉が延々と続き、終わる気配がない。故郷マンチェスターへの憎悪。マイク・ジョイスとの裁判の話は、ほぼ苦行のような気分で読んだ。自分はライブにも行ったことがあるし、今でもスミスの曲を聴きながら散歩したりするし、まあ、言ってみればモリッシーのファンだ。それなのにこの辛さ。一体、誰がこんな本を最後まで読むんだと、いい加減、うんざりしかけていた…はずなのに、なぜか気がつくと、モリッシーが紡ぎ出す言葉の海に溺れていた。なんだか悔しい(笑)