(過去記事1)に関連して.

 

Rファインマンは若いころから,権威ある大物学者でも,間違えていると思う事には,手厳しく批判してきた.

それは科学の議論だから,地位の上下は関係ないのである.

 

科学的真実性は,討論している人物同士のメンツとか人間関係などとは全く関係ない.

 

 

そこで私は思うんですよ.

 

 教育に関して.

 

 子供に対して親としてどうあるべきか.子供の進路についてどうサポートしてやるべきだろうか.

 

 これって広い意味で科学だと思うんです.

 

 従来の社会的基準ではどうなっているとか,そういったこととは関係が無い.

 

 親の時代観からすれば,子供は学校に行くことが当然であり,正解だ,と思いがちだ.

 

 しかし,子供の特性によって,あるいは現場の学校の教員や生徒らの特性によっても大きく変わってくるだろう.

 

 それらについては,深く考察すべきだと思うんだよね.偶然性が大きいので意図した方向へいかないかもしれない.

 だから少なくとも大きなリスクを負わない方向へ向けてやるか,なにか無理な強制をしないこと.それが重要だと思う.

 

 

 どんな特性の子供に対し,どんな教育をしたら,成人後,老後どのような人生になるであろうか

 

 そんなことはよくわからない.

 

ファインマンの付録Fの結びで言う所の,

 

supposedly the proven standard

に従う事の危険性,が私の心にズシンとくる.

 

世間的に定評があるとされている基準

に盲目的に頼ることは大変危険だ.

 

 例えば,癌になったときに癌の標準治療を受けるというのは一つの妥当な選択だろう.一患者として,一臨床医としては.

 しかし研究医としては別だ.個々のケースに対して深い思考で研究していくべきなのだ.失敗が許されない場合にはヒトでなくラットなど動物実験からはじめたりもする.

 

 自分の子供を,支援学校・支援級・通級・普通級のどれに就学させるか,中学受験させるかさせないか,そんな事を考える際には,自分の子供の特性や,その学校の個別の事情や,社会変化などを考えて判断すべきなのだ.

 

 世の中に流布している標準的方法にたよると結果が悪くなっても誰も責任はとってくれない.

 これだけ世の中に虐めや人権侵害が学校内で行われていても,ほとんどの場合,誰もたいして罰せられない.

 

 学校に教育効果があるというエビデンスは無い.

 識字率が5割未満だった150年前は学校がほとんど唯一の教育の手段だったろう.

 

 学校は評価機関としての役目しか現在は果たしていない.

 

 1980年早大商学部入試不正事件で,卒業生が何人も卒業をはく奪された.

 まあ,入試時に不正を働いたのだから大学としてはまっとうな判断だろう.

 世間は彼らをどう評価するか?入試で不正したのは事実としても,早大で教育を受け卒業試験も合格して卒業したのも事実だ.

 では,彼らを正規の卒業生らと同等と扱うか?扱わないだろう.世間は早大の卒業試験を通った人としてではなく,入試を突破した人としてほとんど見ているのだ.

 

 どこの大学だろうが,学部レベルなんてどこも一緒なのである.

 

 学部レベルの学問なんて,大学行かなくても図書館だけでいくらでも学べるのが実態だ.

 

  学歴社会ってなんだろう?

 

 人が人を評価する時に,自分の眼力を信用せずに,18才時点の共通テストでどの大学レベルだったか,の方を信用するのっておかしいだろう.

 

 supposedly the proven standard

 

が最終学歴なのだろうか.

 

 実力勝負の業界であれば,学歴はほとんど関係はない.

 

 実力の無いものが学歴つけて,それでなんとか世間をだましてくっていこうっていう寸法か?

それってずるくないか?

 

 私生活を過度に切り売りせず,自分の才覚の範囲内で社会貢献し,実際にした社会貢献の度合いで社会から評価されれば,それで十分じゃないだろうか?

 

 自分の実際にした社会貢献を超えた評価を社会から受けようなんて私は思っていないし,子供にも望んでいない.

 

 私は東大教授が書いた論文だというだけで内容を信じた入りしないし(過去記事2),

 

 相手が心理士だとか言語聴覚士だとか特別支援学校の教員免許をもっているだとか精神科医だとか,そういうことだけでもやみくもに信じたりはしない.

 それら資格を取得するのに必要な知識の程度を専門書や資格試験過去問を見ることで,自分が知りたいテーマについてどれだけ知っているのか経験があるのかも探ることが出来る(過去記事3,4,5).

 

 組織の大きさに惑わされてはならない.結局は現場の人間なのである.資格や肩書は適切な人物と出会うための確率をあげるために使っても良いオプションにすぎない.行政では役人はこの肩書をもった人に丸投げしてしまい,責任はだれもとらない体制を組織的に作り上げる.だから質(たち)が悪い.

 

(過去記事1)

 『組織論2・チャレンジャー号爆発事故(1986.1)』(過去記事1)の続き 手段として設立されたはずの組織が、大きくなると、組織を維持することそのものが目的化してくる。 学校も省庁もNASAもみな同じである。チャ…リンクameblo.jp


(過去記事2)

 

 

(過去記事3)

 

 

(過去記事4)

 

 

(過去記事5)