(過去記事1)の続き

 

基礎は大事という教師の誤解2回目である.

 

基礎が大事とは限らないという例として,一つ目は予備校数学教師・安田亨氏の数学の話をあげた.

今回は(過去記事2)でも取り上げたカタカナの話.

 

(2)カタカナを読めない国立大学生の話.

 

こういう話がある.

日本での話.何年か前,心理士のもとへ女子高校生が現れたそうである.

カタカナを教えてください,

と泣いて頼んできた

彼女は平仮名も漢字も読める.高校レベルの他の教科も理解できる.

日本史は得意なのだが,世界史や化学が苦手だそうだ.

理由はカタカナが読めないからだそうだ.

カタカナを読むには読めることもあるが平仮名や漢字ほどのスピードでは読めない.

読字障害と言える.

一文字は読めても複数文字をつなげて読むことが出来なかったり時間がかかったりすることはありえる.
 世界史や化学では長いカタカナが頻繁に出てくるのでそれらが読めないか又は読むのに多大な時間や疲労感が必要になる.

 

 カタカナだけ読めない読字障害はよくあるらしい.Yahoo!知恵袋でもあった.

4文字程度のまとまりならまだ読めるのですがそれ以上の量のカタカナが並ぶと指で追いながらでないと読めなくなります。特に、ヲ、ヌ、ツ、シが読めないことが多いです。また、読めても区切り目がよくわからないのでいつもたどたどしい読み方になってしまいます。意味のある言葉を読む場合でもそうなります。漢字やひらがな、アルファベットなどは難なく読むことができます。


 先の女子高生の話に戻る.

 

 心理士は考えた.今まで小中高と12年間近く学んできていまだにカタカナ読めないのなら,今から大学入試までの間にカタカナ練習しても読めるようにはならないだろう.

 

 試しに心理士は高校の先生にお願いして,定期テストでカタカナに平仮名のルビをふってくれるようにお願いした.そうしたらなんと高得点を実現したのだ.

 それでその心理士は大学にも話を持ち掛けた.

 大学入試問題で,カタカナに平仮名のルビをふることや試験時間の延長など.

 

 その女子高校生は入試で合格することが出来,国立大学生になった.

 

 人間の脳の構造は不思議だ.こういうことがあるのだ.

 

 ただ,ここで一つ私が注目したことがある.

 この彼女の問題に真剣に取り組んだのは,相談先の心理士だったということだ.

 小中高と12年間,親も教師も見てきたはずだ.塾に行ったこともあったかもしれない.しかし彼らの誰も,彼女の問題に対して合理的な解決策を思いつかなかったという事だ.

 上のヤフー知恵袋の相談者も自分がカタカナに弱い事に築いたのは中学生のころだったという.

 遅い.もっと早く身近な大人が気が付いてやれなかったのだろうか.

 

 親や教員は子供に一番近く,一番長く接しているはずだ.教員はいろんなタイプの子供たちと大量に会ってきたはずだ.

しかし,彼らの誰も彼女に向き合ってこなかったのだ.

 

 高校生になってカタカナ読めなければ,入試までに読めるようにならないことは,冷静に考えれば分かるはずだ.

 親や学校や塾の教員は何を見ていたのか?

 

 それを救ったのは心理士である.これを救うには,経験だけでない,論理的な知性と法律知識が必要である.

心理士が知っていたのは読字障害は訓練では治らない事と,合理的配慮の法律的知識だ.

 

 学校や塾の教師たちはたくさんの読字障害,書字障害,筆算障害,算数障害者を見てきたはずである.しかしながら,彼らを駄目な奴として切り捨ててきた.日常の仕事をまわすので精一杯なのである.

 定型発達者向けの運動会や文化祭,営業,大学合格実績,

 そんなことより,子供に対して観察眼を生かして社会へ提言することはとても重要である.

 しかし,教員出身の教育評論家ふくめ,発達障害について発見し研究してきたのは医師や心理士だった.

 

 現場の教員らが悪いのか,その仕組みが悪いのか.

 虐めや盗難も学校内で起こっているが,学校では防げない.発達障害も発見できずそれについての知見も溜まらない.

 

 教育は教員に任せていてはダメで,外部の観察者を多く入れるべきである.

 

 ”基礎は大事”などという,聞こえの良い持論に酔いしれている教員の脇で,教育虐待に苦しむ子どもは後を絶たない.

 

 教育論など,後付けでいろいろ言えるのだ.

 例えば中高一貫校は数学の先取り学習ができるので有利だとかよく言うが,授業で先取り学習しなくたって出来る子は勝手に自習してるし,大量に落ちこぼれを生んでいるのだ(過去記事3).その理屈なら現役生は浪人生に勝てないはずだ.

 むしろ,”地元の公立中高の方が通学時間が短くなるので,その分勉強時間確保でき,(平均的に言えば遠い)中高一貫校に通うより,有利である”とだって言えるわけである.

 どの学校に行けばどうなるかなんて複雑系であって簡単に言い切れる話ではない.ところが塾経営者などは自分の利益になるような言説だけ集めて客のファスト思考(スロー思考でなく)に訴えて営業活動するわけである.

 

 

 まとめ.


  基礎は大事,とは限らない.


 応用問題やっていれば重要な基礎には頻出して学習機会はできる.

 あるいは,その基礎の部分を回避して応用問題を解く術を磨くべきである.

セリグマンの犬の実験(過去記事4)でも分かるように,出来ないことを何度も繰り返すと,新しいことにチャレンジしなくなるのだ.

 もし上の彼女がカタカナを読めるようになったとすれば,それは脳の成長が追い付いた場合である.意図的な大人による訓練ではない.(やる気になった当人が自分を訓練する場合は別)

 

 成功のルートは人それぞれである.

 筆算が得意だった人,文字が難なく気持ちよくすらすら読める人,そういう人はそういった強みを生かしてさらなる目標へたどり着いたろう.しかし,成功への道はそれだけではないのだ.

 筆算が遅い人,カタカナが読めない人,そういう人はそれなりに別のやり方で成功への道があるのだ.

 

 何かの分野で,自分と同じ人たちに揉まれながら成功をつかんだ人は,その成功体験を他人にも押し付けることがあってはならない.人間理解が必要だ.

 

 法曹界が試験アスリートだけに染まるのは,常識の点で問題があるとされ,司法改革も行われた.


 ここで言いたかったのは、ほとんどの人に当てはまる画一的方法論はないということだ。誤解してほしくないのは、単純に知能検査で知的障害という診断が出たからといって、必ず例外なく勉強をあらゆる意味で諦めるべきだというわけではない。


(過去記事5)で紹介した作文賞をとった重度知的障害小学生のように、口や手が細かくコントロール出来ない子は現在の田中ビネーやWiscなどの知能検査だと知能の数値が比較で過ぎてしまうのだ。


ここまで読んできたら誤解されないと思うが、単に世界史の点数が悪いから世界史を諦めるのではなく、カタカナが読めないという原因を突き止めルビをふる合理的配慮義務を夭逝するなどだ。


 


(過去記事1)

 『基礎は大事という教師の誤解1』(過去記事1)で取り上げた地頭論反論の反論の続き. 地頭論反論のときによく言われるのが,試験で点が取れない人って,基礎が出来ていないのに応用問題に取り組んでし…リンクameblo.jp


(過去記事2)

 

 

(過去記事3)

 

 

(過去記事4)

 

 

(過去記事5)