アメブロで地頭論の記事を読んだ。
面白かった。
それに対して
地頭論の反対論者のブログ記事も読んだ。
私ははっきり地頭論賛成論者である。
プレイヤー自身が自分のモチベのために地頭否定論を自分の持論として密かに持っていて、目標に向かっている分には構わない。
しかし親やコーチが時と場合をわきまえず地頭否定論を公言するのは害の方が多いと思っている。
商売上そうした方が儲かるのだろうが、そこには後ろめたさを感じていて欲しい。
受験勉強にしろスポーツ競技にしろ楽器演奏にしろ囲碁将棋にしろ、競技というもののコーチは、
多くの場合、
小中時代とか若い時から才能に恵まれていてその上その狭い世界で努力し続けてきて目に見える実績を残した人である。そこに成功体験と存在価値を置いてしまっている。
ボディビルや重量挙げや格闘技などは成人してからど素人から初めてチャンピオンになる輪島功一のようなタイプも少なくないが、
受験を初め大抵の競技では、若い時から自分と同じ才能をもつ人たちの中で生活してきた。知的障害者とか身体障害者などとはほとんど関わらない人生を送ってきている。
だからある意味、人間理解という点で偏っていたりする。
自分はその競技を極めてきて、合格なり賞なりを目指してきて、それが取れるのが成功で、それなくして自分の人生成功はあり得ないという、ある意味間違えた歪んだ能力主義の価値観で生きてきた。ある意味お馬鹿さんなのだが、目標実現のためには客観的視野が邪魔になる。
将棋の棋士では局面の形勢判断が不利でも自分有利と思い込む方が有利という説がある。冷静に形勢判断できることは勝負事という意味では必ずしも良い面ばかりではない。
そしてそうやって少年期の日常の大部分を目標以外は犠牲にして育ってきて実績を残して、指導者、コーチとして崇められたりする。
一流大学卒業して塾講師などやっているタイプだ。
そういったコーチの実績とはあくまで自分というハードウェアを目標にチューニングすることであった。
他人と自分ではハードウェアが異なるという事に関し、想像力が足りない。
自分より相当違うハードウェアをどう使うかに関しては全くの素人なのだ。
たかが中学受験に地頭は必要ない
とか平気で言うようになる。
たかがと言うことは地頭が必要な分野があるのだろう。例えば
大学受験、しかも東大医学部受験に地頭が必要だが、たかがマーチや中学受験に地頭は必要ない、
とか真顔で言ったりする。
いや、それはあなたの地頭がたまたまマーチや中学受験以上東大医学部未満だっただけの話である。
成人になっても発語がない知的障害者が存在するなどとは頭にないのだろう。言われてハッと気がつくかも知れぬが、それは相当特殊な例だと言うだろう。
いや、重度知的障害者から軽度、境界知能、平均、優秀層まで、地続きなのだ。
どこかではっきりとした境界線があるわけではない。
算数数学では筆算が基礎だ、百ます計算を徹底しろとか言うが、筆算障害はあるのだ。しかし電卓使えば微積分も理解できたりする。
あるいは、カタカナだけ読めない国立大学生もいる。平仮名漢字英語も読めるし、カタカナに平仮名さえふってくれれば微積分も日本史世界史も全部出来るのだ。
あるいは発語ない、字も書くことが出来ない、常にジャンプしている重度の自閉症青年だが、特殊な装置でアシストすればテキストベースで会話もできるし、本も書けたりもする。それでベストセラー本を書いた人もいる。
人間の能力は不思議なのだ。
発達障害の分野では、個人を訓練させるのではなく、社会が変わるべきだというようになってきている。
医学モデルから社会モデルへ
と言われる。
唯一効果があると言われているのはABAだが、これも万人に効果があるわけではなく、長期的効果についてはエビデンスが弱い。
むしろ発達障害者に対する訓練や指導は鬱やPTSDなど二次障害をうむので避けるべきとされる。
インクルーシブ教育はむしろ定型発達児のためのもので、発達障害児は無理をさせないことが重要とされている。
で、先ほど書いたように発達障害と定型発達の間にはっきりとした境界はない。地続きなのだ。
生活に困っていて特別な支援を周囲に要請することが必要だと判断した時に医師は発達障害と診断する。
発達障害について研究と理解を進ませたのは医師と心理士である。
教員が一番理解が遅れている。公立教員は一番マシだが、私立校や塾の教員が一番古い。
厳しい師匠とついていく弟子。その美学が描かれた文学や映画は多い。コーチはこういった美学に憧れていることがある。
それで厳しい指導に耐えられない弟子はコーチの現役時代の価値観ではっきりダメなやつなわけである。
百万人の体力の平均を上げることより、2人目の大谷翔平を作ることにコーチは興味があったりする。
親は教育虐待にならないように注意すべきであり、古いタイプの教員に安易に子供を預けるべきではない。
一世紀半前学制発布の頃、識字率は半分以下であった時代、スパルタ教員が識字率をあげるのに効果的だったかもしれない。しかしもうそんな時代ではない。
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