アバンギャルディのダンスを初めてみた.

今回は率直な感想.

気持ち悪い.

岩崎宏美のシンデレラハネムーン

なんだけど,

(ものまねの)コロッケのシンデレラハネムーン

にしか聞こえない.

 

ネットで調べたら,本物の高校生ではなくて,というか高校生徒とは限らなくて(?)安心した.

登美丘高校のバブリーダンスの振付師(女性,1992年8月生まれ,31歳)が高校顧問を辞めて仕掛けたダンスチームのようだ.

登美丘高校のバブリーダンスも気持ち悪かった.あっちのほうがもっと酷かった.

ダンス自体は気持ち悪いのを狙ってやってるんだけど,それとはまた違った意味で気持ち悪いと思ったんだよね.

 

 で,私が幸福だと思うのは,お互い示し合わせていないのに,夫婦そろって同じ感想だという事.気の合う夫婦で良かった.

 ネットとかでも絶賛ばかりなんだよね.批判してるのはあんまりないみたい.

 

 でも,私はバブリーダンスみたとき,(悪い意味で)嫌な気持ちになったんだよね.この気持ちは万人には伝わらないかもしれない.

 

 一言で言うと,女子高校生が玩具になってるところ.振付師は楽しいかもしれないよ.その時は.まあ,女子高校生も楽しいのでしょ,その時は,でもどこを目指してるのか?それって将来なんのためになるの?

 まあ,他人がやっているだけなので,私が審査員でも,お世辞述べてたかもしれない.

 

 もうちょっと美しいダンスだったらまだ感触良かったかもしれない.それがきっかけで彼氏や結婚相手見つけられるかもしれないし.

 男子の甲子園目指してる高校野球だって,まあ活躍してれば女子にモテるかもしれないから,まあそれはそれでよいのかもね.

 

 でも,それでも実は心の底で,大人の玩具になって動いている若者たちを見ると,気持ち悪いと,感じている.勉強頑張っている分には,それで職業的に社会へのし上がってやろうという野心があるなら良いと思う.ほとんどの人は金持ちの親の自営業継ぐような地位はなく,サラリーマンの息子なら,親の職位は継げない.自分で一からのし上がっていく,それで妻子養うとかいう意思があるならいいんだけどね.

 

 子供連れて外で,日曜とかにユニフォーム来てる野球少年とか見かけると,息子に”野球チームはいってみるか?”と聞くことがある.”やらない”と即答されるんだけど,内心ほっとしてる.やっぱり私の子だ,と思う.

 たまに休みの時に友達同士で野球やるとかなら分かるんだよね.大人の指導する野球チームに入って練習とか,私には分からん.なに,どこ目指して何を狙って大人の玩具になって時間つぶしてんねん?って思う.

 あるいは,金持ちボンボンの道楽,ってな感じに思うんだよね.まあ,これは私の偏見かもしれないけど.

 まったく屈折することなく,のほほーん,と生きてるのもありかとは思うけど,それを大人が集めて,大人が楽しんじゃってるのが気持ち悪い.まだ,親なら分かるのよ.自分の子でも無いのに,定期的に集めて,自分の好きなように動かして,なにか自分が有意義なことしてるつもりになってる.そんなコーチや素直に動く子供らが,気持ち悪い.

 商売として金目当てでやってるんだとしたら,それはそれで気持ち悪いし.

 

 だったら,まだ,少年らだけでグループつくってつるんでるほうが好感が持てる.それで不良化するのも問題だけど,それはベクトルの方向が間違っているだけであって,ベクトルの向きを変えて良い目的に向かいさえすれば,大成功すると思うのよね.まあ,私や私の子らはグループつくらずに個人で動くタイプだろうけど.

 

 大人が決めたルールに,その通りに動く子供らも,そのルールを仕切って,子供の世界にしか目が行っていない大人(コーチ)も気持ち悪い.

 

 何か刹那的なものを感じるんだよね.

 

 歴史とともにルールや価値観は変わる.ルールとか価値観ってある時代の人が決めたことだけど,そんなに深く考えたうえで決めたことじゃないんだよね,たいていは.むしろ、前代未聞のこんな新しいこと初めちゃって良いんだろうか?葛藤と不安の中、若さゆえの勢いとかあってスタートしてたりする。歴史的には。(プロ野球だってプロ将棋だって、そもそもはテレビのない時代の娯楽の中心たる新聞社の企画に過ぎなかった。新聞の部数売るためのね。)でも,人は生まれたときからそこにあったというだけでそれを不変なものと信じてしまう.鳥が卵から生まれて初めて見た大きな動くものを親と思うみたいな本能.

 でも不変じゃないんだよね.

 

 登美丘高校を卒業して10年もたてば,振付師の当時の年齢を超えてしまう.そのとき彼女らが,何を感じるか?自分より若い独身女性が,自分らの指導をしてた.あの時は大きい存在に見えたけど.

 

 ディズニーのミッキーマウスには中に人が入ってた.時給・日給いくらで雇われていた20代のx町生まれの低身長のダンサーだった.その後,引退して普通の暮らししてる,って大人になってから気づくんだよね.後から考えれば,まあそうだよね.子供の時は気が付いていなかったけど,本物のミッキーなんかいないよね.それが分かるのが大人になったという事なんだよね.そして今度は自分がミッキーの中に入ったとき,何を思うか.

 これはミッキーじゃなくて学校の先生とか会社の上司とか医師や政治家で置き換えても同じこと.

 しょせんはヌイグルミ.中に人が入っている.価値あるヌイグルミにはいるか否か.

 

 

 

 

 

 かもめのジョナサンというベストセラー小説がある.仲間グループに馴染めないカモメが,特異なカモメに憧れて,そこに教えを乞う.そのうちに後輩たちが自分を師として仰ぐ.確か作者は自己啓発セミナーの卒業生。ヒッピーの愛読書とか、オウム真理教ナンバー2の村井秀夫(大阪大学理学部物理学科主席卒、修士修了し、神戸製鋼で職場結婚した後、夫婦で出家)の愛読書。かもめのジョナサンの飛行訓練とオウムの修行が重なる。

 

 

 

 

 

 映画ではファイトクラブ(1999).喧嘩倶楽部を創設するんだけど,メンバーが集まってきて,自分をリーダーとして崇拝する.しかし喧嘩倶楽部という反社会的思想が膨らんできて暴走していくメンバーらを自分ではコントロールできなくなる.

 

 バブリーダンスも,振付師ひとりじゃできない.メンバーひとりでもやらないだろう.でも,ある程度数が多くなり,それを披露する舞台ができて,観客もあつまって絶賛されると,そのバブリーダンスという仕組み自体が生き物のように成長していく.そしてそれは,その生き物の存在意義を至上命題として生き,個々人の幸福を必ずしも実現しない.

 人々のためと称してできた組織(学校,省庁)が,巨大化してくると,個々人(生徒)の幸福よりも,組織の利益,組織拡大・維持を優先しだしていく.

 

 組織は伝統的だから安心とか,大きいから安心とか,そんなことはない.組織が続くというのは,人と金が回ることだけが必要十分条件.社会的貢献とは必ずしもつながらない.

 

 DSM4の開発責任医師が著書まで書いて言っているように、単なるガイドラインのはずだったDSMが聖書のように扱われるようになってしまった。開発者の意図を無視して販売宣伝部が立ち回りしすぎた。

 

 なんでも基本や原点に立ち戻って考えたい。

 

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