上の記事書いてて、さらに思い出したのだけど、
例えば、
小学校6年生の冬になって、中学受験のために小学校休んで受験勉強する子を非難する親とか教師とかいるみたいだけど、
私は休んで良い派。
 掃除当番とか係を休むのをずるいとか言うらしいけど、あれって他の子の親が言うんだよね、それで子供もそう思うようになって虐めみたいになる。

 学校っていうのはさ、個人個人が個としての能力を高めるために、その目的のために集まってるわけだよね。集まってるのは手段であって目的ではない。
 集団として何か慈善活動とか社会プロジェクトとかを実現させるために、同士たちが集まったわけじゃ無い。
 たんに地域にすんでる子たちが強制的に集められて、生徒の意思関係なくクラス分けされただけ。個々人の能力を上げるのが目的で、集団としての目標はない。運動会とかクラスとしての目標をでっち上げるけど、誰の助けにもならない。
 卒業したら大抵もう会わない。大人になっても付き合いのある関係とか、地域で自営業やってる後継同士とかぐらいなもの。
 都会の賃貸マンション暮らしのうちなんか、特にそう。その時代その時代、暮らしやすい土地へばらけて行く。私の子孫が皆んないま住んでる街に住み続けるとか気持ち悪い。天災とかで絶滅する。タンポポの種だって風に乗って遠くへバラける。

 小学校6年生の冬に学校へ通うかどうかは、それがその個人にとって、どっちが個人の能力の向上に繋がるか、将来的にどちらが良い影響か、を考えて、その子が考えれば良い。親と。
 同級生や担任教員に気を遣わなければならないとか、それ、学校の目的外でしょ。
 掃除当番なんて、そんなことも含めて担任が考えて係決めすりゃいいだけ。

 義務教育って、子が行きたいと強く願うのに親が行かせないのはまずいと思うのよ。実際、そういう親は100年以上前はよくいたし。でも私はその時代の学校に子供を行かせることに抵抗した親たちを悪いとは思わない。時代の思想の流行にあっていなかったというだけ。何が正しくて何が間違えているかは、一概には言えない。強いて言えば、その手の親とそうでない親のどちらがより多く現在の我々の祖先か。

 富国強兵を願う国の指導者たちの哲学として、義務教育は兵士や工場労働者を養成する為に必要だった。ネットもないし本屋もない。校舎に集まる必要があった。さらには、家禄制度を廃止して無職になった元武士たちに暴動起こさせないために、再就職する先が必要だった。それで教員という職を増やしたかった。
 明治時代に政府が富国強兵策をとり民衆も支持したからこそ、アジアでは産業革命を最も早く起こすことができた。

 家長制度でも魔女狩りでも男女差別でも何でも、ある時代に広く行われたことは、私はすぐに馬鹿げたことだ、とは切り捨てない。どの時代にも頭の良い人は沢山いたはずだ。おそらくその時代にはそれが成り立つ前提条件があって、成立していた。
 あたまから馬鹿げたことと切り捨てることは、その本質を理解してない。批判するなら、本質を理解した上で批判すべきだ。
 ある時代にそれが成立してたのなら、それが成立するための前提があったはずだ。そして、その前提は今でも存在しているのかを考えるべき。
 その前提が成り立たなくなっても尚且つその伝統を続けるのは意味がない。
 前も書いたけど、現在の暴力団は全て戦後に始まっている。戦前からルーツのある暴力団は無い。しかし、暴力団は、とても伝統を大切にする。祝儀とか法事とか儀式とか。現代ではもう廃れつつあるそういう伝統を守る。実はそれには集団を結束して集団上位層に金が流れる仕組みがある。

 今や明治時代と違って、ネットもあれば本も安く売ってるし図書館も充実してる。学校に集まらなくちゃならない必要性は無い。集まりたいやつは集まれば良い。集まりたくない生徒を無理に集めて集団生活させても、集団生活が嫌になるだけだ。エビデンスベーストな訓練法なんてない。

 小中学校は、みんな仲間とか、へんな幻想を植え付けすぎる。

 たまたま電車の同じ車両に乗り合わせただけの関係と一緒。

 支援級とか支援学校だって、本当にエビデンスベーストな教育法があるのかは怪しい。歴史的に言えば、普通の子たちから隔離するためのもの。普通の子たちにとって迷惑にならないように。

 ドイツ直輸入の日本の精神医学界はもともとそんなもの。