一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く その1「浄閑寺・永久寺」 | jinjinのブログ

jinjinのブログ

大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

一葉「たけくらべ」ゆかりの地を歩く

=三ノ輪・千束(𠮷原跡)・竜泉・入谷=

その1:浄閑寺・永久寺(目黄不動)

 

<樋口一葉像 下村為山画>

 

樋口一葉は幼少の頃、明治9年から明治14年までを本郷法真寺の隣「桜木の宿」で過ごし、一時期下谷の御徒町近辺に転居しましたが、明治23年に本郷菊坂町に戻り明治26年まで「本郷・菊坂」に住みました。本郷・菊坂町の一葉旧居跡として知られる場所です。

 

<本郷菊坂 一葉旧居跡>

井戸のある家として知られている

 

一葉は、明治25年~明治26年、短編小説8作を発表しましたが、心の中で「自分の書きたい小説」について葛藤が起こりスランプに陥ってしまいます。

筆をおいて実業につくことを決意した一葉は、明治26年~明治27年にかけての約10か月を下谷龍泉寺町で暮らしました。

 

(一葉記念館HPより 竜泉寺町茶屋通り模型:一葉の店)

 

龍泉寺町に開いた実業・雑貨店の経営はうまくはいきませんでしたが、この10か月の体験はやがて「たけくらべ」の子供たちの生き生きとした描写にいかされることとなりました。

本郷周辺については「本郷・一葉ゆかりの地を歩く」にてレポートしましたが、

今回は名作「たけくらべ」を片手に、三ノ輪~𠮷原跡~竜泉~下谷と、「たけくらべゆかりの地」を歩いてきましたので記事投稿します。

 

<探訪ルート>

 

ⓢ日比谷線三ノ輪駅~①浄閑寺~②永久寺(目黄不動)~③𠮷原大門~④𠮷原神社~

⑤𠮷原弁財天~➅鷲神社~⑦大音寺~⑧飛不動~⑨一葉記念館~⑩千束神社~⑪朝日弁財天~

⑫太郎稲荷神社~⑬小野照崎神社~Ⓖゴール:日比谷線下谷駅

 

今回の記事はその1:

①浄閑寺 =𠮷原遊女の眠るお寺=

②永久寺 =江戸五色不動 「目黄不動」= のレポートです。

この2つのお寺は「たけくらべ」そのものには登場しないのですが、たけくらべの舞台の中心は新𠮷原、先ずはその遊郭・𠮷原に縁の深い、遊女の投げ込み寺とも言われた「浄閑寺」を訪れました。

スタートは東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」、浄閑寺まで歩いて1~2分です。

 

◉日比谷線三ノ輪駅3番地上出口

駅前の交差点は「大関横丁」と呼ばれます。

日光街道(昭和通り)と王子千住夢の島線(都道306号、明治通り)とが交差しています。

 

 

この交差点を少し北方向に行き、すぐ右折すると「浄閑寺」

 

<浄閑寺山門>

 

永井荷風の「断腸亭日乗」によれば、『昔この門は赤く塗られたるなり』なのだそうですが、今は落ち着いた色の山門です。

 

山門前に小さなお地蔵さんがいます。 

小夜衣(供養)地蔵さんといいます。(さよぎぬ地蔵)

 

 

<小夜衣地蔵>

 

小夜衣さんにも哀しい伝承があります。

小夜衣は𠮷原・四つ目屋の遊女でしたが、女主人に放火の罪をきせられ火あぶりの刑に処されました。以来、一周忌・三周忌・七周忌には廓内に火災が起こり、四ツ目屋はいつも全焼、とうとう潰れてしまいました。

人々が小夜衣を憐み、霊を慰める地蔵さんを建てたところ、火災は起こらなくなったという。

 

■浄閑寺   =浄土宗「多くの遊女たちが眠るお寺」=

山号は栄法山。新𠮷原遊郭から歩いて20分弱程度とごく近くにあり、遊女の投げ込み寺として知られていますが、遊女のみならず、身元不明の行き倒れなども供養していたようで、そのことも含めて「投げ込み寺」と呼ばれたようです。

●創建は明暦元年(1655)、開山上人は、天蓮社晴誉順波和尚。

 

<浄閑寺本堂>

 

<ご本尊 阿弥陀如来> (HPよりお借りしました)

 

ー浄閑寺には𠮷原に身を沈めた多くの遊女たちが葬られているー

◉新𠮷原総霊塔

遊郭𠮷原は、元々は日本橋葺屋町(現在の人形町)にありましたが、幕府により浅草への移転を命じられ、暫くは移転が嫌でグズグズとしていましたが、明暦3年(1657)、「明暦の大火」が起こって江戸中が焼け野原となり、否応なし、強制的に移転させられています。浄閑寺が建立されて3年後、近くに遊郭がやってきたことになります。(新𠮷原)

 

寺伝によれば、安政2年(1855)、江戸で安政の大地震(MG7程度の直下型大地震)が起こり、新吉原も大被害を受け大勢の人々が亡くなりました。その際たくさんの新吉原の遊女が投げ込まれ、後に新吉原総霊塔が建立されました。

(現本堂の裏手にあります)

 

 

総霊塔の右下に、花又花酔作の川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石碑があります。

 

 

 

 

◉永井荷風詩碑

傍らに、永井荷風の「今の世のわかき人々」にはじまる詩碑が建てられています。荷風は遊女の暗く哀しい生涯に思いを馳せながら浄閑寺を訪れたようです。

 

 

荷風は昭和12年6月22日、浄閑寺を訪れたことを日記・断腸亭日常に書いています。

『余死するの時、後人もしくは余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の蛍城娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さは五尺を超ゆべからず。名は「荷風散人墓」の五字を以て足れりとすべし』とも書き残しています。

荷風のこの願いはかなわず、雑司が谷霊園の、父親永井久一郎の隣に葬むられましたが、谷崎潤一郎・友人有志が故人を偲びここに詩碑を建てました。

 

またその傍に荷風の筆塚があります。

永井荷風の死後、知人有志によって荷風を偲び建立された記念碑。中には荷風の2枚の歯と常用していた平安堂製の小筆が1本納められているということです。

 

<永井荷風筆塚>

 

<永井荷風>

 

<その他の浄閑寺史跡>

浄閑寺には他にも多くの史跡が残されています。

 

●若紫の墓:姓は勝田、名はのぶ子、浪華の人。

永井荷風は断腸亭日乗に「若紫塚記文」を紹介しています。

「本堂砌(みぎり)の左方に角海老(かどえび)若紫墓あり。碑背の文に曰く」・・・『楼一番の遊妓(ゆうぎ)にてその心も人も優しく全盛並びなかりしが、不幸にして今年(明治36年)8月14日思わぬ狂客の刃にかかり21歳を一期にして非業の死を遂げたるは哀れにもまた悼ましし・・・中略…噫(ああ)。(佐竹永陵誌)』

 

 

●新比翼塚と萩原秋巌先生の墓

新比翼塚
明治十二、十三年のころ品川楼で情死した遊女 盛絲(せいし)と内務省の小使 谷豊栄(とよなが)二人の追善に建てられたのである。(「里の今昔』より。)永井荷風を浄閑寺へ誘ったのは、新比翼塚であった。

◈萩原秋巌(はぎわらしゅうごん)先生の墓
1803〜1877年 江戸時代後期の書家。享和3年生まれ。巻菱湖(まき りょうこ)の高弟で、一派をなす。宋(そう)(中国)の徽宗(きそう)の書体痩金書を好んだ。明治10年2月19日死去。享年75歳。  (以上、浄閑寺HPを引用)

 

 

●豕塚(いのこづか)

通称豚塚(ぶたづか)と言われる。この碑は天保年間に災厄除けのため白い豕(猪ならん)を、吉原大門の側に飼育したのを死んだのち葬ったものである。この豕塚には猪の絵が彫ってあり「火伏せの豕」と伝承されて、浄閑寺が安政、関東、二度の震災のほか、東京空襲の猛火をも免れたのは、この豕のお蔭だと信ずる人もある。(『浄閑寺と永井荷風』より)

 

 

●ひまわり地蔵

昭和57年建立されました。創作者は倉田辰彦氏。

傍らの説明板によれば、『山谷には労働に生き労働に老いてひとり寂しく人生を終る人が数多くいます。山谷老友会は、孤独の壁をこえて連帯し、はげましあい、またささえあってきましたが、死後の安心なくしては安らぎがないところから、ひまわり地蔵を建立しました。

ヒマワリの花は太陽の下で一生を働き抜いてきた日雇い労働者のシンボルといえます』とのこと。

 

 

●三遊亭歌笑塚

三代目三遊亭歌笑、1916年生まれ、戦後の人気噺家で元祖「爆笑王」と言われた。人気絶頂時の1950年、夕暮れの銀座松坂屋前の路上を横断中、アメリカ軍のジープに轢かれて事故死。先天性弱視が災いしたといわれる。享年は32。歌笑自身は檀家ではなかったそうですが、妻の実家が檀家である関係からここに葬られたとのことです。

 

 

●本庄兄弟、助七・助八の墓

◈本庄兄弟の仇討ち:鳥取藩士の平井権八は、父の同僚である本庄助太夫を些細な遺恨から殺し逐電。遺児の助七・助八兄弟は江戸の三ノ輪に住んで権八の行方を追うが、逆に居所を知られ、助七は吉原田圃で斬られ、兄の首を井戸で洗っていた助八もその場で斬られ、仇討ちは成就しなかった。この平井権八は歌舞伎の「白井権八」のモデルとして有名。

 

 

<余談>

平井権八:新𠮷原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりやがて困窮、辻斬りを犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在は廃寺)に隠れて虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れましたが、すでに父母が死去していたことから自首したとされる。権八は延宝7年(1679)、鈴ヶ森刑場で刑死、小紫は権八刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされます。同寺に「比翼塚」が造られましたが、この比翼塚は、現在は目黒不動の門前に現存しています。

 

四世鶴屋南北作『浮世柄比翼稲妻』で、大勢の雲助相手に立ちまわる権八とそこに来合わせた侠客の幡随院長兵衛との出会いの「鈴ヶ森」の場、「お若いの、お待ちなせいやし」の1コマが有名。平井権八は白井権八となっています。

 

<白井権八 歌川豊国>

 

続いて「明治通り」沿いの永久寺を訪れました。

■養光山永久寺 =天台宗 江戸五色不動・目黄不動=

◉創建:南北朝時代に建立されたと伝わる古寺です。当初は真言宗の寺院でしたが、その後禅宗や日蓮宗へと転宗を繰り返し、寺号もたびたび改称されましたが、寛文年間(1661~1673)に現在の「永久寺」に改称し、定着したとのことです。

 

 

 

山田浅右衛門家に先立って死刑執行人をつとめた試刀家の山野永久が刑死者の供養のためにこの寺を再建、寺号の「永久寺」は彼の名に由来するとのことです。寺宝は山野永久が使ったという刀槍。

当時この寺の僧侶だった「月窓」が4代将軍家綱の生母「宝樹院」の弟にあたり、初代輪王寺宮の弟子となったため「圭海」と名を改め、天台宗に改宗されたとのことです。

※圭海については、父が宝樹院の異父の叔父だったという異説もあり。天台宗東京教区のHPによれば、羽黒山の行者「圭海」とあります。

 

◉永久寺は、江戸五色不動のうち、「目黄不動」を奉安しています。

山門を入った左手に不動堂があります。

 

 

 

江戸五色不動とは、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指す総称

*伝承:徳川家光が、天海大僧正の献言により、江戸府内から、各主要街道筋に五カ所の不動尊を選び、天下泰平を祈願したといいます。

日光街道(昭和通り)沿いでは「永久寺」が選ばれました。

*色はあくまでも仏教上の方角を示すもので、目に色があるわけではない…という。

 

<永久寺目黄不動>

 

 

◈江戸五色不動:

目黒不動(瀧泉寺):2012-01-10 東京都目黒区下目黒3-20-26  03-3712-7549

目青不動(教学院):2012-01-10 東京都世田谷区太子堂 4-15-1  03-3419-0108

目白不動(金乗院):2011-11-18 東京都豊島区高田 2-12-39     03-3971-1654

目赤不動(南谷寺):2011-12-28 東京都文京区本駒込 1-20-20  03-3942-0706

●目黄不動(永久寺):2012-03-12 東京都台東区三ノ輪 2-14-5  ☎03-3801-6328

目黄不動(最勝寺):2012-03-12 東京都江戸川区平井 1-25-32   03-3681-7857

 

目黄不動と言われるお寺は2か所あり、もう一つの目黄不動・最勝寺は、「関東36不動霊場19番札所」でもあります。

 

●目黄不動と言っても、目が黄色いわけではないですね。

 

 

◉永久寺の板碑

永久寺には2基の古い板碑があります。

永久寺の創建は14世紀南北朝騒乱の頃で、当時は真言宗のお寺で名称も唯識院と呼ばれていたようです。

このことが當山の板碑に書かれているとのことですが、残念ながら傷みが酷く、現状ではそれ以上は判別できない状態とのことです

 

 

明治通りは、東(東南)へ進むと土手通り(日本堤)に分岐します。

土手通りを進み「𠮷原大門(信号)」へと向かいます。

次回に・・・

 

続きますでござる