上野のお山から初音の道を歩く その5初音の道 | jinjinのブログ

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上野のお山から初音の道を歩く

その5 大円寺(瘡守稲荷)~初音の道へ

 

歌川広重の「名所江戸百景」と斎藤月岑の「江戸名所図会」を小脇に、「上野のお山から初音の道を歩く」のその5です。

 

◈その1:御徒町駅~上野広小路~上野山下(寛永寺黒門跡)~西郷隆盛像前まで歩きました。

◈その2:彰義隊のお墓~清水観音堂~五條神社~穴神社(花園神社)~文殊堂跡まで。

◈その3:荷担堂(にない堂)跡~五重の塔・上野東照宮~両大師堂、国際子ども図書館へ。

◈その4:現寛永寺~養寿院(笠森稲荷)~徳川慶喜墓所~全生庵までをレポートしました。

◈その5:大円寺(瘡守稲荷)~初音の道~笠森稲荷~御殿坂までをレポートします。

 

 

全生庵を出て少し西に進むと「大円寺」です。

 

◉大円寺 =日蓮宗=

創建は古く天正年間(1532~1555)、上野清水門脇に創建され、元禄16年(1703)現在地に移転したとか。

明和5年(1768)の火災により焼失、現在の本堂は昭和9年(1934)に再建されたもの。

境内には「錦絵開祖鈴木春信碑」と「笠森阿仙の碑」(永井荷風撰文)があります。

笠森お仙は江戸時代、谷中・笠森稲荷前の水茶屋の看板娘で、江戸(明和)三美人の1人として知られ、浮世絵師鈴木春信が錦絵にその姿を描きました。

大円寺の「カサモリイナリ」は漢字で書くと「瘡守稲荷」。同じ谷中に「笠森稲荷」があったため、結構混同されているようで、永井荷風も大円寺の方をお仙の笠森稲荷としてみなしてこの碑を建てたとのこと(Wikipedia)

 

<大円寺山門>

 

 

本堂の形も少し変わっています。建屋は一つ、御堂は2つのようです。

「唐破風」が2つ並んでいます。

 

向かって左側が「本堂」、右側には「薬王殿」の額がかかっています。

 

<本堂と薬王殿>

 

 

 

この薬王殿内に「瘡守稲荷」が祀られています。 

境内に所謂「稲荷社」みたいなものは建っていません。

 

<瘡守稲荷>

 

もともとは「瘡守稲荷」を祀っていたのですが、明治維新の「神仏分離」で「瘡守薬王菩薩」として祀る事に改めたということです。

「稲荷」として神様だったのが、神仏分離令以後「菩薩」になったというのも珍しい事例と思います・・・。

 

境内に「鈴木春信碑」と「笠森お仙」の碑があります。

 

<笠森おせんの碑>

 

<錦絵開祖鈴木春信碑>

 

大円寺から初音の道の入り口へと戻り、「初音の道」を北上。

 

◉散ポタカフェ のんびり屋

大正期の町屋を改造したカフェの人気店。ここのイカ墨オムライスは絶品とか。

 

 

◉スペース小倉屋

享保2年創業の「小倉質屋」の大正時代の土蔵を改造して平成5年(1993)ギャラリーとして営業開始。令和2年に閉店したとか・・・。

 

 

◉笠森稲荷・功徳林寺

 

◈門前に笠森お仙の説明板があります。

 

◈「笠森お仙」:「笠森お仙」こと「お仙」さんは、宝暦元年〜文政十年(1751〜1827)江戸時代後期、当時を代表する絶世の美女と言われた実在であった女性。

江戸谷中の笠森稲荷境内にあった水茶屋「鍵屋」の鍵屋五兵衛の娘で、鍵屋の看板娘として「鍵屋」を支えていた。絵師の鈴木春信が「お仙」を錦絵で描いたところ、その錦絵が大評判となり、お仙さん見たさに水茶屋「鍵屋」には多くの人で溢れかえったとのこと。笠森お仙は、錦絵、絵草紙、芝居のモデルになっただけでなく、手拭いや人形などのお仙グッズも販売されるほどだったようです。

 

<笠森おせん>

◈明和3美人:

浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘 柳屋柳屋お藤(やなぎや おふじ)

二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘 蔦屋およし(つたや およし)

笠森稲荷茶屋の看板娘 鍵屋おせん(かぎや おせん)

 

<功徳林寺・笠森稲荷>

 

◈笠森稲荷ご祭神:

仏教系のお稲荷様である「吒枳尼天」です。

 

 

◈江戸時代、笠森稲荷はこの地にあり、別当は「福泉院」というお寺でした。明治維新後、福泉院は谷中霊園の整備に伴って廃寺、笠森稲荷は同じ谷中の「養寿院」境内に遷座しました。

その後、明治26年、伯爵島津忠寛発起人となって、谷中霊園に葬られた被葬者の供養をする寺院として「功徳林寺」が創建されました。

功徳林寺が「笠森稲荷」をこの地に勧請。「養寿院」と「功徳林寺」と、谷中に2つの笠森稲荷が存在することとなりました。

功徳林寺は、台東区谷中では唯一の浄土宗の寺院となっています。

 

 

<功徳林寺>

 

◉観音寺築地塀(ついじべい)

功徳林寺のちょっと先、左に少し入ると観音寺の「築地塀」があります。

観音寺の築地塀は幕末の頃に築かれたもので、境内の東面と南面を囲っていましたが、現在は南面のみ現存。大正13年(1923)の関東大震災で一部倒壊しましたが、できうる限り元の資材を使用して組み直され、江戸時代往時の姿を今日に残しているとのことです。

江戸時代から続く有数の寺町である谷中の当時の面影を伝え、歴史的景観に寄与するということから、平成12年、国指定の有形文化財に登録されているとのことです。

 

 

◉観音寺  =真言宗豊山派=

創建は慶長16年(1611)、神田の北寺町に開山、その後江戸城整備の区画整理で谷中清水坂に移転、更に延宝8年(1680)現在地に移転しました。

元々は長福寺と号していたそうですが、徳川吉宗が将軍になると世子の名が「長福丸(9代家重)」であったため観音寺と改称したそうです。

現本堂は昭和18年の再興、その際ご本尊も「如意輪観音菩薩」から「大日如来」「阿弥陀如来」に替えられたとのことです。 総本山は奈良の「長谷寺」。奈良長谷寺は鎌倉長谷寺とともに「大きな十一面観音像」で著名ですね。

 

 

観音寺からさらに初音の道を行くと右側に「朝倉彫塑館」があります。

 

◉朝倉彫塑館

彫刻家朝倉文雄の自ら設計したアトリエ兼住宅。コンクリート造のアトリエ棟と木造の和風住宅を組み合わせた建物。池を配置した中庭と屋上庭園などが見どころ。

朝倉文雄の作品も展示されています。

 

<朝倉彫塑館>

 

<朝倉彫塑館 屋上庭園>

 

 

「お~~~い、危ないぜぃ~~~」

 

<朝倉文雄の代表作「墓守」 (国立近代美術館)>

 

<猫ちゃん好きの方へ>

<ワンちゃん好きの方へ>

 

朝倉彫塑館のちょい先に未来定番研究所なるギャラリーがあります。

 

 

◉未来定番研究所

3代にわたって銅細工を手掛けてきた職人の家。暫く空き家となっていた建物を大丸松坂屋が借り受けてリノベーションしたのだそうです。「5年先の未来の定番となることや物」を発掘することがテーマだそうですが・・・なんだか・・・古そうなものが並んでいる感じではあります。

 

 

◉初音の道の・・・レトロな裏小路。

 

 

 

◉御殿坂・夕焼けだんだん

日暮里駅前を通る道(坂)は御殿坂といいます。

御殿坂の交差点を左折すると「夕焼けだんだん」の坂、降り切ると谷中銀座です。

 

<ちょっとだけ夕焼け風な夕焼けだんだん>

 

御殿坂を渡ったところに2つお寺があります。

 

◉大黒山経王寺 =日蓮宗=

本堂の隣に大黒堂があり、日蓮聖人作大黒天が鎮守として祀られているとか。

慶応4年(1868)の上野戦争にて敗走した彰義隊士をかくまったため新政府軍の攻撃を受け、山門にあちこち銃弾の痕が残っています。

 

 

 

 

◉延命院 =日蓮宗=

身延山から勧請した「七面天女」を祀ります。このお寺の前の坂は「七面坂」といいます。というくらい、江戸時代、延命寺の七面天女はその名を知られていたようです。

江戸名所図会にも「七面大明神社」として紹介されています。

曰く『ある人云ふ、慶安元年(1648)三沢の局(徳川家綱の乳母)、甲斐の七面山に千日の間参篭し、夢中に鱗一枚を感得す。よって当社を建立し、厳命によって延命院と号くるとぞ』

 

<江戸名所図会 日暮里(ひぐらしのさと)>

 

<延命院山門>

 

また延命院は大きな椎の木があったことで有名で、江戸名所図会にも描かれていますが、今も現存しています。

盛時には樹高16.2m、幹回りは5.5mもあったそうですが、平成14年一部の大枝が崩落し、安全のための手入れにより、現在の姿を保っているとのことです。

 

<延命院の大椎木>

 

<七面堂>

 

このお寺にはもう一つ歴史的に有名なエピソード(事件)があります。

 

◈延命院事件 (奥女中達と僧侶のスキャンダル)

享和年間、家斉の時代、大奥女中が延命院の日蓮僧「日潤(日道ともいう)」と深い関係を持ち、寺社奉行脇坂淡路守に摘発され、日潤は死罪に処せられたという事件。

 

この事件は河竹黙阿弥が歌舞伎演題『日月星享和政談』として書き、明治11年、五代目尾上菊五郎主演にて「新富座」で公演されています。

境内に「日潤」の墓(追善碑)があります。墓石は第五世尾上菊五郎と十二世守田勘弥がたてたものだそうで、「日潤聖人」と彫られています。

 

<日潤聖人の供養塔>

 

これにて「上野のお山から初音の道を歩く」は完結です。

その1~その5までお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

(完)でござります。