上野のお山から初音の道を歩く
その4 寛永寺~慶喜公墓所~全生庵
歌川広重の「名所江戸百景」と斎藤月岑の「江戸名所図会」を小脇に、「上野のお山から初音の道を歩く」のその4です。
◈その1:御徒町駅~上野広小路~上野山下(寛永寺黒門跡)~西郷隆盛像前まで歩きました。
◈その2:彰義隊のお墓~清水観音堂~五條神社~穴神社(花園神社)~文殊堂跡まで。
◈その3:荷担堂(にない堂)跡~旧寛永寺五重の塔の横を通り「上野東照宮」へ。そして大噴水の横をぬけて両大師堂、こども図書館までをレポートしました。
◈その4:現寛永寺~養寿院(笠森稲荷)~徳川慶喜公墓所~山岡鉄舟墓所・全生庵までをレポートします。
◉寛永寺 =天台宗=
江戸時代、現上野公園内にあった寛永寺根本中堂は上野戦争で焼失、寛永寺寺領も接収されましたが、明治12年(1879)、ようやく復興が認められ、塔頭であった旧大慈寺の地に、川越喜多院の本地堂を移築し根本中堂としました。
ここが現在の寛永寺です。この根本中堂は寛永15年(1638)の建造とのことです。
歴代徳川将軍の墓もすぐ傍らにあります。
<寛永寺 根本中堂>
<寛永寺 将軍墓地 江戸時代)>
◈徳川将軍の墓地:徳川将軍の墓地は「増上寺」と「寛永寺」にあります。初代家康と三代家光の墓は日光に、15代将軍徳川慶喜の墓所は、没時将軍ではなくなっていたため谷中霊園内にあります。
寛永寺には、第4代家綱、第5代綱吉、第8代吉宗、第10代家治、第11代家斉、第13代家定の墓があります。他に家治の世子・家基の墓も寛永寺にあります。
これらの墓所は、特別公開の時以外は非公開となっています。
家基は次期将軍と認められながら18歳で亡くなったためか特別の扱いとなっているようです。(名前に「家」がついている・・・これも稀有)
※増上寺:2代徳川秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂
◈上野戦争の碑記
境内に上野戦争の碑があります。
明治維新のとき、現在の上野公園の一帯で、幕臣たちが結成した彰義隊と明治新政府軍との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる阿部弘蔵(弘臧とも)が、上野戦争の経緯を記したものだということです。
彰義隊の命名から戦争の様子、総大将と仰いだ輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)との惜別・・・等々が漢文で書かれているということです。
この碑文は明治7年に書かれたそうですが、「不穏な文章がある」という理由で石碑を建てることは許されませんでした。 ようやく明治44年、碑文の一部を削り、建立が許されたのだそうです。
◈境内の六地蔵
幾度となく寛永寺には来ていますが、この六地蔵さんが何とも好きで、必ず寄ってご挨拶しています。
◈葵の間:
大政奉還後の慶喜公が、慶応4年2月~慶応4年4月迄謹慎していたという「葵の間」も残されています。もともとは東叡山寛永寺に36あった子院の一つ「大慈院」の一室でした。
大慈院は五代将軍徳川綱吉が寛永寺に埋葬された際に、綱吉供養のために新たに建立された寺院です。「葵の間」は普段は非公開で、特別公開の時だけ一般に公開されます。
<葵の間 ネットから借用しました>
<ネットから借用しました>
◈寛永寺本坊
◉養寿院(笠森稲荷) ちょっと寄り道して、笠森稲荷へ。
◈笠森稲荷とは:浮世絵師・鈴木春信が描いた「明和の3美人」で著名な「笠森お仙さんの水茶屋」が傍らにあったという稲荷社です。
谷中には3か所に笠森稲荷があって、ちょっと紛らわしいですが・・・。
お仙さんの水茶屋「鍵屋」があったという場所はこの地ではありませんが、明治維新の時、当時の「笠森稲荷」の別当であった「福泉院」というお寺が谷中霊園造成のため廃寺となったことから、養寿院が別当を引き継ぎ、笠森稲荷はこの地へ遷座しました。
もともと笠森稲荷があった地にはその後「功徳林寺」という寺院が作られ、その地にも「笠森稲荷」が勧請されました。
別当として正当に受け継いだのはこの「養寿院」といってよさそうですが、「場所」でいうと功徳林寺の笠森稲荷に軍配があがります・・・のようです。
仏教系お稲荷さん「吒枳尼天」がご祭神です。
<養寿院 笠森稲荷>
<鈴木春信 笠森おせん>
◈笠森おせん:笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘で鍵屋五兵衛の娘。浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の1人としてもてはやされた。
お仙見たさに笠森稲荷に多くの男性が参拝したと言いますが、明和7年(1770)ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消します。
お仙が姿を消したのは幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもあった倉地政之助に嫁いだためで、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたといいます。
お仙の墓は中野区上高田の正見寺にあり、その墓石は中野区の登録有形文化財に登録されているそうです。
ここから谷中霊園に入り、15代将軍徳川慶喜公の墓所を訪れます。
◉徳川慶喜公墓所
慶喜公のお墓は、神式の円墳状の墓で、美賀子夫人の墓と並んでいます。
慶喜公は、江戸城開城の後水戸で謹慎、その後駿府で謹慎しました
明治2年(1869)に謹慎を解かれましたが、引き続き駿府に居住、政治的野心は持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲などの趣味に没頭する生活を送りました。
晩年、公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就きました。
明治41年、大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されています。
大正2年(1913)11月急性肺炎で死去(享年77)。葬儀では渋沢栄一が葬儀委員長を務めました。
◉全生庵 =臨済宗= <山岡鉄舟翁開基、三遊亭圓朝師匠も共に眠るお寺>
明治16年(1883)、明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うため、山岡鉄舟翁が、富山国泰寺より「越叟禅師」を迎えて開山したお寺です。
寺伝によれば、「全生庵」という寺名は、山岡鉄舟翁が、鎌倉建長寺を創建された蘭渓道隆禅師自筆の「全生庵」という額を人からもらい、それを自邸にかけていたことに由来するとか。
図らずもこの地は、700年ほど前、鎌倉時代、道隆禅師が中国から渡ってた時、暫く住した土地であったという。
これを奇縁と感じた鉄舟翁は、この地に寺を建て「全生庵」と命名したという。ご本尊には、かつて江戸城の守り本尊だった「葵正観音」の霊像を遷したとか。
<山岡鉄舟の墓>
<三遊亭圓朝の墓>
◈山岡鉄舟:
剣客で、「神陰流」や千葉周作の「北辰一刀流」を修行。更に、試合で負けた中西派一刀流を学び、維新後は、小野派一刀流小野業雄の教えも受け、「一刀正伝無刀流」なる流派を編み出し開祖となりました。
禅は…17歳の頃から修行をはじめたとかで、三遊亭圓朝師匠も弟子の一人でした。 僧籍をもたない一般人の禅の勉強会なども創始したとか。書は頼まれれば断らず書いたので、100万枚書したとか…すごいですね。
江戸城の無血開城で西郷隆盛とも面談していますが、その西郷をして、
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わせしめたという逸話が残っています。
◈三遊亭圓朝
歴代の名人の中でも筆頭に巧い落語家だったといいます。また、多くの落語演目を創作した。
滑稽噺より人情噺や怪談など、いわば講談に近い分野で独自の世界を築いたという。人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として、圓朝まつりで毎年公開されています。(毎年8月開催)
全生庵所蔵の圓朝幽霊画コレクションは、圓朝没後その名跡を護られてきた藤浦家より寄贈されたものだそうです。
<山岡鉄舟>
<三遊亭圓朝>
続きますでござる