上野のお山から初音の道を歩く その2「文殊楼跡」 | jinjinのブログ

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上野のお山から初音の道を歩く

その2 山王社跡(彰義隊戦士の墓)~文殊楼跡~花園稲荷神社

 

歌川広重の「名所江戸百景」と斎藤月岑の「江戸名所図会」を小脇に、「上野のお山から初音の道を歩く」の「その2」です。

 

上野のお山=上野恩賜公園=旧寛永寺ですが、旧寛永寺にはどんな建物が建っていたのか?

根本中堂(お山の中心の建物=本堂)をはじめ、知っているようで知らない・・・ので、

広重の「名所江戸百景」や「江戸名所図会」などを見ながら想像をたくましくして歩いてみますと、なかなか楽しい散歩になります。

 

今回のシリーズ:

◈その1:御徒町駅~上野広小路~上野山下(寛永寺黒門跡)~西郷隆盛像前まで歩きました。

◈その2:山王社跡(彰義隊戦士の墓)~清水観音堂~文殊楼跡~穴神社(花園稲荷神社)~五條天神社まで歩きます。

 

<江戸切絵図(旧寛永寺周辺)>

 

図中・・・

①不忍池

②三橋

③上野山下

④旧寛永寺黒門跡

⑤山王社跡~⑩文殊楼跡 が今回レポートの範囲です。


 

 

「上野山下」で旧寛永寺黒門跡(今は寛永寺黒門をイメージしたモニュメント:壁泉)を見て、石段を登ると広場、江戸時代にはここに「山王社」がありました。 

今は西郷隆盛の銅像やら彰義隊戦士の墓があります。

「彰義隊戦士の墓」とその傍らに置かれた説明板の絵が、江戸時代幕末、彰義隊と新政府軍が戦った「上野戦争」の激戦を物語ります。

 

◉山王社跡(山王権現)のこと (江戸切絵図⑤)

江戸名所図会に曰く

『清水堂の南にあり。内殿、拝殿、階下に至るまでことごとく彫り物ありて、輪奐玲瓏(りんかんれいろう)人の眼を射る。この地を「桜が峯」といふ。湯島聖堂の旧地にして、昔はことに桜多かりしといへり』

 

<江戸名所図会 東叡山寛永寺 桜の峯・山王社>

 

今は無き山王社、見事な社であったようです。

 

◈桜の峯:上野のお山全山が桜で有名だったわけですが、江戸名所図会によれば、この辺りは特に「桜の峯」と呼ばれていた・・・とのこと。

 

江戸名所図会の注釈に曰く・・・

『山内桜樹多き中にもこの辺りを「桜の峯」と号し、その昔羅山先生(林羅山)栽うるところなるよし「鵞峯(がほう)文集」にいへり。

 

南都 東叡山 下花び背きて帰る  終日酣歌(かんか)の処を回看(かいかん)すれば 風起きて晩来雪となってとぶ』   ※酣歌:気持ちよく心行くまで飲むこと

 

◈山王権現は天台宗の守り神

寛永14年(1637)、江戸城の紅葉山東照宮旧殿を用いて、塔頭本覚院内に祀ったといいます(東叡山之記)。本家・比叡山には山王権現の総本社・日吉神社があります。

元禄11年(1698)年、勅額火事で本覚院は焼失しましたが、山王社は被災を免れ、その後の安永元年(1772)の「明和の大火」でも門は焼けましたが社殿は無事だったとのこと。

ですが・・・幕末、彰義隊と新政府軍との戦い(上野戦争)で、全焼失はしませんでしたが銃撃戦によって悲惨な姿となり、明治初年の神仏分離で廃絶となりました。

 

◉上野戦争:山王台焼失

新政府軍は三橋の前線を突破、このまま圧勝かと思いきや、黒門付近の戦いでは彰義隊が押し返し善戦しました。

効果を発揮したのは山王台に置かれた七門の大砲でした。 

しかし・・・本郷台におかれた佐賀藩のアームストロング砲が上野の山の文殊楼(吉祥閣:後述)を直撃、以後あえなく彰義隊は殲滅されてしまいました。

 

◉彰義隊戦士の墓

彰義隊は、もともとは徳川慶喜の助命と復権を目指して結成されたグループで、初代の頭取は渋沢栄一の従兄弟の渋沢成一郎(後の渋沢喜助)、副頭取は天野八郎でした。

 

慶喜が助命され江戸を離れたことで、渋沢成一郎は彰義隊も江戸を離れるべきだと主張しましたが、あくまで江戸で戦うべきだと主張する天野八郎と意見が対立、渋沢成一郎は彰義隊を去って一橋家の所領であった飯能(現在の埼玉県)に向かいます。この中で結成されたのが「振武軍」でした。

 

彰義隊とは袂を分かつことになった振武軍・渋沢成一郎ですが、「新政府軍の味方にはならない」「降伏しない」という2つの約束を彼らと交わしました。

彰義隊と新政府軍の戦が始まり、振武軍も加勢に向かうとしたのですが、彰義隊の敗北を知り、断念したとのことです。

この傍らに置かれた「上野戦争の図」が戦いの激しさを物語ります。

 

 

戦いの後、上野の山には200名を超える彰義隊士の遺体が散乱、増上寺や親戚筋が遺体の収容を新政府軍に申し入れましたが、新政府軍はこれを拒否、遺体は放置されました。 

 

見るに見かねた商人の三河屋幸三郎と三ノ輪円通寺の住職が遺体を回収、上野の山で火葬しました。後に墓が建てられましたが、新政府への手前「彰義隊戦士の墓」とは描かれていません。

墓には「戦死の墓」とのみ彫られていますが、山岡鉄舟の筆になるとのことです。

 

★余談:徳川色を払拭したい新政府はここに西郷隆盛の銅像を建てました。

 

三ノ輪の円通寺にも彰義隊の墓(追悼碑)があり、この縁があって、後に寛永寺の黒門は円通寺に移され現存しています。

 

<旧寛永寺黒門・・・三ノ輪円通寺>

 

<彰義隊戦士の墓>

 

<「戦死の墓」とだけ彫られている>

 

彰義隊戦士の墓で手を合わせ、更に進むと「清水観音堂」があります。

清水観音堂の裏手に「秋色桜」というしだれ桜が植えられており、その横に「井戸」があります。

 

 

江戸時代、上野のお山での桜見物

上野のお山は、寛永寺開基の天海大僧正が大和の吉野山と同様に桜見物ができる場所にしようと、咲く時期の異なる吉野桜、山桜、八重桜などを工夫しながら植えたので、初春から春の終わりまで桜の花の絶えることがなかったといわれています。

寛永寺は、桜の時期だけは黒門を開き、庶民の入山を許しました。

しかし、山内は規則が厳しく、お酒を飲むことは許されましたが、魚を食べたり、太鼓や三味線などの鳴り物は禁止、また暮れ六つ以降は閉山されました。

こうした堅苦しさがあったので、若者たちは向島や飛鳥山を好み、上野は女性が多かったそうです。

 

◈秋色桜

観音堂の裏手に井戸があり、秋色桜と呼ばれる桜があります。井戸の傍らに「秋色桜の碑」があります。

 

江戸時代、元禄の頃、お秋という日本橋の菓子屋の娘が、花見客でにぎわう井戸端の句を詠んだ、  「井戸端の さくらあぶなし 酒の酔い」 という俳句があります。

 

この句が輪王寺宮の目に留まって称賛され、この句は一躍江戸中の評判となりました。お秋は9歳で宝井其角の門に入り、この句を作った時は13歳だったといいます。

この碑は昭和15年に建てられたものだそうで、傍らに桜がありますが、この桜は昭和53年に植え接いだ桜とのことです。 秋色桜は「江戸名所図会」でも紹介されています。

 

 

<秋色桜の碑>

 

 

◉上野清水観音堂・・・朱色彩かな「舞台造りの御堂」(江戸図➅)

不忍池に浮かぶ弁天堂を眼下真正面に望む…朱色彩かな「懸け造り・舞台造り」の御堂…清水観音堂。平家の武将「平盛久」の護持仏であった「盛久受難の身代わり観音」をご本尊とし、古くから「子授け・子育て」の霊験があらたかとして信仰を集める「子育て観音…人形供養の観音様」も奉安しています

 

<懸け造りの御堂、清水観音堂>

 

◉東の比叡山「東叡山寛永寺」…不忍池、弁天堂、清水観音堂

比叡山延暦寺が京都御所の鬼門(艮・東北)を護っていることにならい、江戸城の鬼門を守護すべく、上野忍ケ岡に「寛永寺」が建てられました。寛永2年(1625)のことです。開山は天海大僧正。

京都清水寺に祀られていた、「平主馬判官盛久」の護持仏であった「盛久受難の身代わり観音」として知られる…霊験あらたかな観音様・・・をご本尊とし、京都清水寺を模して、「懸け造り・舞台造り」の御堂として建立されました。

不忍池は「琵琶湖」に見立てられ、琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺をなぞって弁天堂も建立されました。

「懸け造り」「舞台造り」のお寺は日本全国ではかなりの例がありますが、江戸東京では極めて珍しく、ほんの数例しかありません。 舞台に立つと、目の前に「月の松」、遠景に不忍池・弁天堂を望むことができます。

 

◈幕末の争乱に巻き込まれながらもその姿をとどめた美しい御堂

徳川将軍家の庇護を受け、上野のお山ほぼ全域を寺領として保持していた寛永寺でしたが、幕末、彰義隊と新政府軍が激突した「上野戦争」の際に主要な堂宇の多くを焼失してしまいました。

 

 

 

清水観音堂は幸いにも戦火をさけて焼け残り、その姿をとどめることができました。安政の大地震・関東大震災・戦災にも耐えた観音堂、今では上野で最も古い貴重な建物となっており、昭和21年には重要文化財に指定されました。

 

◈「江戸33観音霊場6番札所」・・・奇瑞の観音様と言われる千手観音がご本尊です。

この「平盛久の受難を救った、稀なる奇瑞の観音様」が…幕末の争乱や関東大震災、第2次世界大戦の戦火からも清水観音堂を護ってくれたのかもしれません。

 

ご本尊「盛久受難の身代わり観音」は、平安時代の天台高僧「恵心僧都」作と伝わる千手観音様。

 

寺伝によれば、この観音様には次の奇瑞が伝承されています…『平家滅亡後、京に隠れていたれ「平盛久」でしたが、ついに鎌倉方に捕らえられてしまいます。由比ヶ浜で斬られることとなり、刀が振り下ろされた刹那、その刀は粉々に砕け散った。北条政子の夢にも清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、頼朝は大いに驚き盛久を赦しました。

 

清水寺では、盛久が討たれようとする瞬間、観音様がいきなり倒れ腕が損傷しましたそうです。京都に戻って参詣した盛久は、観音様が身代わりになってくださったことを知り、その奇瑞と霊験のあらたかさに感涙にむせんだ』というものです。

御堂内陣に「盛久救難の図(1800)」という大きな絵馬が架けられており、その歴史を語っています。

 

 

ご本尊は「秘仏」、普段は拝観できませんが、この奇瑞が起こったのが、午の歳、午の日、午の刻であったので、初午の日(2月初めの午の日)に年一度ご開帳されます。 ご縁日は毎月17日です。

 

<夕刻の清水堂>

 

<夕刻の弁天堂>

 

広重は、桜の花に覆われた美しい架け造りの「清水観音堂」の舞台と奇妙な丸い輪の形をした枝ぶりの「月の松」と2枚の絵を描いています。

「月の松」では、不忍池の向こう側に町屋が並び、3基の火の見櫓描かれています。丸い輪の枝に眼鏡の役割を持たせていますが、輪の中に見える火の見櫓は本郷加賀屋敷の火の見櫓でしょうか

 

<上野清水堂 不忍池>

 

<上野 月の松>

 

◈現在の月の松

月の松は、明治時代初期、台風によって倒れてしまったのですが、江戸時代の風景を復活させるため、平成24年(2012)に復元されました。

広重時代の月の松とはちょい違い、月の松の輪の真ん中には真正面に不忍池弁天堂が見えます。

 

月の松は、江戸時代の植木職人の技の粋を凝らして作り上げた造形と見られていますが、新たに復元された月の松も、現代の造園技術を駆使して造形されたとのことです

 

 

◉弁天堂

不忍池は「その1」にも書きましたが、人工の池ではなく、元々は東京湾の河口であったところが、縄文時代の海の後退によって取り残されてできた天然の池です。天海大僧正はこの池を「琵琶湖」に見立て、竹生島になぞらえ小さな島を作り、弁財天を竹生島から勧請しました。

 

 

<弁天堂>

 

<八臂の弁天様>

 

弁財天は秘仏ですが、お前立の弁天様がおられます。八臂の弁天様です。

弁天堂は戦災で被災、昭和33年に再建されたお堂とのことですが、八角形の美しい御堂です。

 

清水観音堂の先に、江戸時代には寛永寺の山門(楼門)である「文殊楼」がありました。

彰義隊と新政府軍の戦い=上野戦争の時に焼失してしまいました。

 

 

◉文殊楼(旧寛永寺山門) (江戸地図⑨)

 

江戸時代の文殊楼は上野戦争で本郷からのアームストロング砲の直撃を受け、焼失しました。

2017年に上野の文化の社「数寄フェスタ」で、「文殊楼から着想したアートインスタレーション作品」が展示されたことがあったそうです。

 

素晴らしい作品で、骨組みだけではありますが、正に美しかったであろう「文殊楼」がイメージアップされます。(写真はネットからお借りしました)

 

 

文殊楼・・・江戸名所図会によれば、

「楼上に文殊菩薩を安置す。この霊像は奥州会津の法蔵寺より移させらるるとぞ」とありますが、文殊像は天海大僧正の生誕地という会津清龍寺からの請来という別説もあります。(安藤希章著『神殿大観』)

 

旧寛永寺(この絵に描かれている文殊楼から先の建物は全て上野戦争で焼失した)

 

文殊楼の先には、荷担堂そして寛永寺の本堂である根本中堂があり、

文殊楼の横には、大仏堂・忍が岡稲荷神社(現花園神社)と時の鐘がありました。

現在は、文殊楼は失われましたが、時の鐘は現存しており、大仏は顔面だけとはなりましたが残っています。

忍が岡稲荷神社は再建されて花園神社となり、また五條神社が上野山下からこの地に遷座しています。

 

◉時の鐘 (江戸地図⑦)

時の鐘は日本橋本石町に置かれて以来9カ所に作られました。現存する上野の「時の鐘」は天明7年(1787)に制作されたもの。谷中感応寺で製造され、正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」と彫られているそうです。

◈時の鐘が鳴る順番:上野・市ヶ谷・赤坂田町・円通寺・円通寺、芝という順番で鐘が鳴ったという。

今でも時の鐘は午前・午後6時と正午に撞かれているとか。

芭蕉翁が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだ「時の鐘」です。

 

 

◉上野大仏 (江戸地図⑩)

元々は江戸時代初期に建立された像高6メートルの釈迦如来。 火災や地震に度々遭い、大正12年(1923)の関東大震災で頭部が落下しました。震災後、頭部と胴体は再建に備えて寛永寺に保管されていましたが、顔面部を除いて第2次世界大戦で供出させられ持ち去られました。

胴体を失った顔面は「これ以上は落ちない」という意味で受験生らが祈願するようになり、「合格大仏」と呼ばれています。

 

 

◉花園稲荷神社 (江戸地図⑧)

江戸時代には「忍ヶ岡稲荷社」と呼ばれました。別名「窟屋の上」に祠があったため、「穴稲荷」とも呼ばれました。

 

江戸名所図会にも説明があります。

曰く『忍岡稲荷祠(文殊堂の左にあり)、窟屋の上に祠あるゆゑに、世俗穴の稲荷と号く。当山開創の時、開山慈眼大師これを勧請ありしといへり』

 

 

◈幕末、彰義隊の戦いに於いては、最後の激戦地(穴稲荷門の戦)であったことが知られています。 明治6年に再興され、「花園稲荷稲荷」と改名、昭和3年、五條天神社が現地に御遷座の時、社殿も南面して造営され神苑も一新されました。

花園稲荷の「2の鳥居」の傍らに「お穴様」、穴稲荷の祠があります。

 

 

 

ここは稲荷坂という坂で結構急坂です。

降りられることがあったらご注意ください。

 

 

<花園稲荷神社>

 

稲荷坂を降りると、右手に「花園稲荷神社」、左手に「穴稲荷」があります。

 

 

扉があるので一見閉まっているかのようですが。鍵はかかっていません。入れます。

 

 

 

ここを左に入ると神域・・・写真は遠慮しました。

 

◉五條天神社

 

 

社伝によれば、

『第12代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝なされて、此の地に両神をおまつりされましたのが当社の御創祀であります。(約1900年前)

 

相殿におまつりしてあります菅原道真公は、寛永18年(約350年前)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われました。
社地は御創祀以来、天神山(今の摺鉢山)~瀬川屋敷(アメヤ横丁入口)他、幾度か変遷を重ね、昭和3年9月に御創祀の地に最も近い現地に御遷座になりました』とのこと。

 

 

ここから「荷担堂跡」「根本中堂跡」へと向かいます。  

次回に・・・

 

続きますでござる・・・です。