上野のお山から初音の道を歩く
その1 御徒町駅~下谷広小路~三橋~上野山下
歌川広重の「名所江戸百景」と斎藤月岑の「江戸名所図会」をたよりに、御徒町駅をスタート、上野広小路(下谷広小路)から上野のお山をぬけ、谷中から初音の道を歩きました。
◈今回はその1:御徒町駅~上野広小路~三橋~上野山下までをレポートです。
■御徒町駅前広場
スタートは御徒町駅南口。駅前広場ではパンダ君がお出迎え。
御徒町駅前から中央通り・黒門小学校入り口交差点へ
現在はここに三角スペースがあったりして、なんとなく上野広小路(下谷広小路)の入り口だったのかななんて思ってしまいますが、ここは江戸時代には道ではなかったところ。上野黒門町(叡山領)と井上筑後守の上屋敷との境目あたりです。
右手に見えるのは「上野フロンティアタワー」。
ここから中央通りを上野方向へ・・・次の交差点が「上野広小路」の入り口。
ここには・・・江戸時代も今も「松坂屋(いとう松坂屋)」。
この横道は、今は「学問通り」というらしい。
ここが下谷広小路の入り口でした。
この辺りで、広重は「名所江戸百景」に「下谷広小路」という画を描いています。
「上野広小路」って言ってみたり、「下谷広小路」って言ったりしますが、「上野広小路」とは「下谷広小路」のことです。
昔は寛永寺があった「上野のお山」に対して、町屋や武家屋敷が並んでいた周辺の一帯を「下谷」とも呼んだそうです。中央通り右の大きなビルが現在の松坂屋です。
■広重名所江戸百景「下谷広小路」
この絵の中心は「いとう松坂屋」ですが、当時の江戸の風俗をいろいろ教えてくれます。
まずは「いとう松坂屋」の先にある白壁の建物。この建物は「店蔵(たなぐら)」で、大店はこのような蔵をもっていました。
蔵の先で道に出っ張っているのは「髪結床」です。
当時、髪型は階級・身分を表していたので重要な店でした。
同じ柄の傘をさして歩く女性の行列が描かれています。広重が好んで描く構図ですが、三味線か常盤津か浄瑠璃か・・・御師匠さんに連れられたお弟子さん達の一行だろうとのことです。
その一行を見ている武士をよく見ると、当時流行りだった?ズボンをはいています。
<歌川国芳 松坂屋>
◉いとう松坂屋のこと:
・松坂屋の創業:宝永4年(1707)、伊勢松坂の商人、太田利兵衛が創業しました。
・伊藤屋の創業:慶長16年(1611)、織田信長の小姓だった伊藤蘭丸祐広の子、祐道が創業。
・祐道は名古屋で呉服小間物を商を始めましたが、大阪夏の陣で豊臣方について参戦、あえなく
討ち死に。
・伊藤祐道の遺児、伊藤祐基が名古屋茶屋町で呉服商を再興しました。
・織田信長の小姓で蘭丸と言うのは何人かいたらしい。一番有名なのは「森蘭丸」。森蘭丸自身
は子孫を残しませんでしたが、江戸時代には森一族から大名が出ています。
◈伊藤屋の江戸進出
・元文5年(1740)、伊藤屋は尾張徳川家の呉服御用となり、明和5年(1768)江戸に進出
しました。
・明和5年、江戸進出にあたり松坂屋を買収、「いとう松坂屋」としました。(松坂屋の名を残
したところがさすが)
幕末、土方歳三が若い頃、ここで丁稚奉公をしましたが、番頭さんと大喧嘩をして実家へ帰ってしまったそうです。
<明治40年頃の松坂屋>・・・ショーウインドウができています
<大正7年>
中央通りを歩いて行くと「鈴本演芸場」があります。
◉鈴本演芸場
創業は江戸時代の安政4年(1857)、3代目本牧屋仙之助が軍談亭「本牧亭」として開設しました。明治維新で苗字が許されるようになると「鈴木」を名乗り、後「本牧亭」の名も改め、鈴木の「鈴」と本牧の「本」をとって「鈴本亭」としたとか。
関東大震災の後現在地に移転しています。
◉三橋
江戸時代、鈴本演芸場の直ぐ先に「三橋」という橋が架かっていました。
三橋とは何ぞや・・・。
江戸時代、現在の上野4丁目交差点の地には「忍川」という小さな川があり、東西に流れていました。この忍川は不忍池から流れ出て、広小路を横切り隅田川に流れ出ていた川ですが、左・中央・右と3つの橋が架けられ「三橋」と呼ばれていました。
真ん中の橋は「御橋」とも呼ばれ、将軍が寛永寺を参拝する時はこの橋を通りました。
この三橋は江戸時代にはなかなかの名所で、多くの画に描かれていますが、江戸名所図会にも描かれています。
<東叡山黒門町 忍川・三橋>
そもそもこの不忍池・・・縄文海進時は東京湾の入り江で、その後、海岸線の後退とともに取り残され、紀元数世紀頃に池になったと考えられる・・・のだそうです。
旧石神井川が武蔵野台地の東端を割って谷を作り、海ぞいの低地へと注ぎ出ていた開口部に位置するということです。(Wikipedia)
台東区のYouTube「よみがえる三橋」をちょっとお借りしました。
<古代の地形>
<江戸時代>
明治時代にこの忍川は埋め立てられ、三橋も失われていましたが、平成17年、中央通りに地下駐車場を建設する際その遺構が発見され、令和5年1月、近くの下町風俗資料館のお隣にその一部が復元され、一般公開されました。
一般公開されたと思ったらまた工事中になって、今日現在は残念ながら復元された展示は見ることが出来ませんでした。
(下町風俗資料館:令和5年4月から休館中)
◆余談:忍川はどこまで流れていたのか?
忍川は下谷附近をぬけ、立花飛騨守の屋敷へ到達、更に鳥越三味線堀を経由し、奥州(日光)道中鳥越橋を潜り、浅草御蔵のあたりで隅田川へ流れ出ていました。明治年間に暗渠となってしまったそうです。
<忍川・三橋の場所>
地図をご覧ください。
「仁王門前町」とあるのが確認できます。江戸時代中期まで、ここには仁王門がありました。
安永元年(1772)に焼失してしまって、以降再建されませんでしたのであまり知られていません。
歌川豊春の画「江戸名所上野仁王門」にその姿が確認できます。
江戸名所図会には「仁王門跡」と小さく描かれています。
◈歌川豊春(享保20年~文化11年)
門人に歌川豊国、歌川豊春。この2門からは多くの絵師が育っている。歌川広重もその一人。
「江戸名所図会 三橋」もよくよく見ると大変興味深い絵で、江戸好き「ホーリーさん」の解説によれば・・・
風車のように見えるのは「傘」で、傘店といって小間物や玩具などを売る露天商。怪しげな線のように描かれているのは烏凧をあげているところなのだとか。
挿絵師「長谷川雪丹」、さすがになかなか描写が細かい。
◈上野4丁目交差点
写真・横断歩道の横を忍川が流れていました。
江戸時代初め、家光の頃には橋も一つしかなかったのですが、5代将軍綱吉の時寛永寺が全面的に再整備され、その時に橋も3つ掛けられるようになったのだそうです。
幾つか「三橋」の画が残されている中で、最も好きな絵。
<鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)画>
清長の画と間違わんばかりです。
この時代には「仁王門」は焼失していて描かれていません。
◈鳥文斎栄之:姓は細田 名は時富
細田家は500石の直参旗本で栄之の祖父は勘定奉行を務め、自身は10代将軍家治の小納戸役を務め、布衣を許されている。
初めは狩野派に学んだが、美人画を描き始めて破門されている。画風としては天明期の美人画界の巨匠鳥居清長の影響が強く、清長風の美人画を多く描いている。喜多川歌麿・鳥居清長とともにに美人画の三傑とも言われる。
寛政元年に家督を譲り、以降は絵に専念、栄之独自の静穏な美人画の画風を打ち立て、晩年は肉筆画を多く描いた。
三橋を渡り?・・・先へ進みます。「上野恩賜公園」。
◉広重「上野山した」
このあたり一帯は上野山下と呼ばれていました。
下谷広小路は上野の山にぶつかって右に迂回、その先は「日光道中」へと繋がっていきます。
広重はこの辺りから「上野山した」という画を描いています。
◉広重名所江戸百景「上野山した」
この絵の中心はしそ飯屋「伊勢屋」。1階が魚屋で、2階は料理屋でした。2階の客は料理に舌鼓をうち、上野の山の桜を楽しんでいるようです。窓は開け放たれています。
この店は後に「雁鍋(がんなべ)」と名乗って大繁昌しました。
この絵でも同じ傘をさした女性の一群が寛永寺方面へと歩いています。
幕末、彰義隊と新政府軍の上野戦争で、新政府軍はこの2階に陣取り、ここから大砲や鉄砲を撃っていたようです。
西郷隆盛はこの時松坂屋に陣取っていたとか。
<上野山下 明治24年~25年> 右から2件目が「雁鍋」とか。
しそ飯「伊勢屋」の先に鳥居が見えます。
当時、この地にあった「五條天神社」の鳥居です。
◈五條天神社跡:
五條天神社は日本武尊が東征の折上野のお山・忍岡に創建したと伝わる古社です。何度かの遷座の後、現在のアメ横の入り口にあった蓮歌師「瀬川屋敷」に鎮まりました。
昭和3年、創建の地に近い上野の山中に再び遷座しました。
現在は上野のお山に現存しています。
またまた脱線しますが・・・、
アメ横入り口に「五條天神社跡碑」があります。
まぁ、普通にアメ横を歩いていると、まず気が付かないでしょう。 ちょいご紹介。
アメ横を歩かれることがあったらちょっと注意してみてください。
さて・・・ここから上野恩賜公園にはいり、先ずは寛永寺の正門であった黒門跡へと進みます。
<この先辺りに黒門があった>
◉黒門跡
現在は正面の石段を登って上野のお山に登る人が多いですが、江戸時代にはここに石段はありませんでした。左手の山裾に黒門があり、こちらが寛永寺の正門でした。
ここに黒門の説明板が置かれています。
説明板によると
『幕末の上野戦争でもっとも烈しい戦闘があったのはこの黒門付近で、戦いは主に銃撃戦でした。その為黒門にも多くの銃弾があたり、黒門には無数の弾痕の痕があります』のだそうです。
この黒門は、現存しており三ノ輪円通寺に置かれています。
お隣にある「壁泉」は黒門をイメージしているのだそうです。
この説明板にも広重お得意の構図、黒門に向かって歩く、同じ傘をさした女性の一行列が描かれています。
<三ノ輪円通寺 寛永寺黒門>
かつては上野の山に登ると「山王社」がありました。
今の西郷隆盛像・彰義隊の墓のあたりです。
続きます。