江戸城周辺外濠跡を歩く =その3鹿鳴館跡~山下御門跡=
冒頭の絵:鹿鳴館での舞踏会。鹿鳴館は欧化主義風潮のシンボルとなり、あだ花とも言われましたが、皆さん楽しそうに踊っていますね。
鹿鳴館、当時総工費18万円だったそうですが、現在価値でいくらくらいでしょうか? 5億円くらい?
◉新橋周辺図・・・外濠跡を中心としています。
◉新橋~山下御門跡地図
1.新橋跡 2.土橋跡 3.幸橋・幸橋御門跡
4.松平甲斐守(柳沢家)邸➡初代東京府庁舎跡
5.薩摩藩邸(中屋敷)➡鹿鳴館跡 6.山下御門跡 7.数寄屋橋御門跡
8.日比谷御門跡 9.比丘尼橋跡
■薩摩藩島津家中屋敷跡(鹿鳴館跡)(現みずほ銀行内幸町本部ビル)
松平甲斐守(柳沢家)邸跡を抜けると、内幸町ホールの前が「国会通り」。
向かい側は薩摩藩中屋敷と佐賀鍋島藩邸が並んでいたところです。
薩摩藩中屋敷跡:明治16年「鹿鳴館」が立てられ、昭和16年に取り壊された後、日本勧業銀行本店となりました。
更に2代目勧銀ビルが建てられましたが、現在は「みずほ銀行内幸町本部ビル」が建っています。 32階だて、高さ104m、延べ床面積は136,000平米によぶ巨大なビルです。 昭和56年(1981)に竣工しています。
この巨大ビル、みずほ銀行東京営業部も移転してしまい、現在は誰も入居していません。
<みずほ銀行内幸町本部ビル>
日経新聞によれば、三井不動産とNTT都市開発、東京電力ホールディングスらが周辺のビルも含め段階的に再開発、2036年にも完了させることとなっているそうです。
立派なビル・・・壊してしまうんでしょうか? なんかもったいないですね。
ちなみに・・・この地にあった初代勧銀本店ビル
<初代勧銀ビル・・・明治32年竣工>
■鹿鳴館跡
明治16年(1883)、当時の外務卿井上馨が、欧化政策の一環として「鹿鳴館」を建設しました。
<鹿鳴館>
<鹿鳴館模型 江戸東京博物館> 現在は休館中です。
鹿鳴館は国賓や外国の外交官を接待するため、外国人との社交場として使用されました。
鹿鳴館を中心にした外交政策は「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半は「鹿鳴館時代」と呼ばれています。
鹿鳴館は、欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いもありましたが、
明治20年(1887)、条約改正の失敗で井上が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、明治23年(1890)からは華族会館として使用されるようになり、
昭和16年(1941)に取り壊されました。
鹿鳴館の正門としては、薩摩藩邸の御門「黒門」がそのまま使われました。
この黒門は旧国宝に指定されましたが、昭和20年の空襲で焼失してしまいました。
立派な「唐破風」の出番所屋根です。
<薩摩藩邸黒門>
◉鹿鳴館:設計はジョサイア・コンドル。 明治政府が招聘した技術者で、三井倶楽部・島津邸(清泉女子大)・古河庭園・ニコライ堂など多くの作品が残ります。
また辰野金吾など多くの弟子を育てました。
◉ダンスの日:日本ポールルームダンス連盟により、鹿鳴館の開館日にあたる11月29日は「ダンスの日」として制定されているのだとか。
◉明治時代日比谷周辺公園周辺地図より
明治時代の、現日比谷公園周辺地図を見てみますと、あれだけ並んでいた大名屋敷が跡かたもなく取り払われて「陸軍練兵場」となっています。
薩州屋敷は「鹿鳴館」へとかわりました。 黒門は現国会通りに面していました。
また鹿鳴館がどういう向きで建てられていたのかなど、この地図によりよくわかります。
<明治時代日比谷周辺地図>
<現日比谷公園付近 江戸切絵図>
鹿鳴館がここにあったことを記す「鹿鳴館」の跡碑が日比谷通り沿い、NTT日比谷ビルと帝国ホテルの境目附近に建てられていますが、黒門があったのは「国会通り」側です。
この碑は、願わくは、黒門のあった国会通り側にたてて欲しいものです。
この碑のあるところが黒門のあった場所だと思っている人が結構多い。
<鹿鳴館跡碑>
「ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であって
その黒門は戦前まで国宝であった
この中に明治十六年鹿鳴館が建てられ
いわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった」
と彫られています。
国会通り・内幸町交差点付近から「日比谷公会堂」「国会」を望む
■新幸橋跡
鹿鳴館跡から国会通りをJR高架の方へ戻ります。
外濠が埋め立てられるまで(昭和31年)、ここには「新幸橋」が架かっていました。
江戸時代・明治時代年間までは、新橋から山下橋間には橋はなかったのですが、大正12年の関東大震災で、銀座側から日比谷公園方面に逃げようとして逃げることができず、被害を大きくしてしまったことを反省し、昭和4年に橋が架けられたとのこと。
JR架道橋を潜った銀座側に「新幸橋」の跡碑が立てられています。
■日比谷オクロジ
このガード下に、日比谷オクロジの入り口があります。
新たな商業空間としてJR東日本が開発、2020年9月ににオープンしました。
JR東日本都市開発によれば、『コンセプトとして、⽇⽐⾕の奥にひそむ、通な⼤⼈の通り道。そこは、明治⽣まれの煉⽡アーチを活かした、深いこだわりが集う、300mの⾼架下空間』・・・なのだそうです。 この煉瓦アーチは明治43年(1910)より使用が開始され、100年以上経った今もなお、現役の高架橋として健在だということです。
現時点、ホームページによれば、約40店舗ほどが開業しているとのことです。
所々にむき出しの高架の煉瓦の壁が見え、、、高架下の空間であり、その横を外濠川が流れていたことを実感・想像しながら歩きました。
<日比谷オクロジの一角>
オクロジを抜けると「山下橋跡・山下御門跡」です。
■山下御門跡
山下御門付近で外濠は分岐していました。 西は日比谷御門へと続き、東~北方向は日本橋川へと続いていました。 現在は「ガード」があるだけで、その遺構を伺わせるものはありませんが、ガード下に「山下門跡」の説明板が立てられています。
山下御門は、寛永13年(1636)高松藩主・生駒高俊が築きました。
この門はまっすぐ抜ける桝形門で、江戸城の見附の中では最も小さい門でした。 明治33年(1900)、外濠が埋め立てられた際、山下橋も姿を消しました。
「山下門」の名前の由来は、京橋側の町名が山下町であったことに由来しています。このガードには「山下橋架道橋」の名前がみえます。
◉天下祭りといわれた「山王祭」の祭礼行列のスタートは「山下御門」でした。
山下御門から江戸城外郭へと入り、山王権現の横を通り、半蔵門から江戸城へと入りました。将軍が上覧したので天下祭りと言われました。
◉山下御門を通り抜ける山王祭の行列の様子が、江戸時代の「東都歳事記」に描かれています。 他の御門の渡櫓門とはちょっと雰囲気が違いますね。
<東都歳事記>
◉山下御門を入ってまっすぐお堀端を行きますが、正面突き当たりが佐賀藩鍋島家・松平肥前守邸でした。
この御屋敷は赤門で知られており、また正月には稲わらで鼓の銅の形を作った松飾を建てることでも有名でした。
赤門の両脇には「「唐破風」」の番所が有り、格式の高さを知ることができます。
鍋島10代・直(斉)正が11代将軍家斉の十八女・盛姫を正室に迎えています。
広重が名所江戸百景にお正月の風景を描いていますが、遠景に鍋島家の赤門が描かれています。
<広重名所江戸百景:山下町日比谷外さくら田>
<山下橋方面から新橋方向を望む>
この山下門跡(高架)を抜けて銀座へ向かう通りが「みゆき通り」、泰明小学校の前を通ります。 明治天皇が御幸の時この道を通ったので御幸(みゆき)通りとなったと伝わります。
この絵ハガキを見ながら山下橋の畔だったであろう付近に立ってコリドー通りを眺めると・・・
今は外濠はないけれど、けっこう想像をたくましくできますw。
この度もご覧いただきありがたく・・・
続きますでござる