江戸城周辺外濠跡を歩く その4 数寄屋橋御門跡~東京国際フォーラム | jinjinのブログ

jinjinのブログ

大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

■江戸城周辺外濠跡を歩く その4 <数寄屋橋御門跡~東京国際フォーラム>

 

山下橋跡から少しだけみゆき通りを歩き、泰明小学校前を通って数寄屋橋跡へと向かいます。

 

 

■泰明小学校

 

古い小学校です。 明治11年創立

 

 

かつてエリートたちが、泰明小学校から麻布中学~日比谷高校~東京大学へと進学していったことで知られています。今でも学区外からも入学でき、毎年抽選となるという人気の小学校です。 島崎藤村や北村透谷らも卒業生で、門前に記念碑が建てられています。

 

制服にアルマーニを採用して話題を呼びました。 校門はフランス門と呼ばれるおしゃれな門です。

 

戦時中、銀座空襲で大きな被害を受けましたが、建物などは建設時そのままの姿を保っており、「経済産業省近代産業遺産」に指定されています。

関東大震災で被害を受け、それに懲りて厚手のコンクリート造り(15㎝➡22㎝)にしたのだとかです。

校舎は蔦で覆われていて・・・歴史を感じますね。

 

 

■数寄屋橋(跡)

頭上をKK線(東京高速道路)が通ります。このKK線の下を外濠が流れていたわけで、2連アーチの数寄屋橋がここに架かっていました。

 

 

◉数寄屋橋(石造り2連アーチ)

大正12年(1923)の関東大震災の復興事業により、昭和4年(1929)、石造り二連のアーチ橋に架けかえられました。 その景観は東京の代表的な景観の一つとなり、昭和27年に放送されたラジオ番組「君の名は」の主人公、春樹と真知子の待ち合わせ場所として有名になりました。 放送時間になると銭湯の女湯から人が消えると言われたほどだったそうです。 昭和33年(1958)、外濠が埋められ、高速道路が建設されるにあたり取り壊されています。

 

 

 

<君の名は>

 

今は「数寄屋橋跡碑」だけが残されています。

 

 

◉数寄屋橋御門

慶長7年(1602)に門が築かれ、寛永6年(1629)仙台藩主・伊達政宗により、石垣と桝形門が築かれました。 

左折れの桝形門を出ると「南町奉行所」、その奥が大名小路と呼ばれる屋敷群でした。 江戸城内と町人地の境界線となる橋と門でした。 橋の手前に「数寄屋町」があったので、橋は数寄屋橋と呼ばれ、門は数寄屋橋御門と呼ばれました。

「数寄屋橋」の名は、織田信長の弟織田有楽斎の建てた数寄屋造りの屋敷が近くにあったことに由来すると言われています。 江戸切絵図にも、数寄屋橋御門の前辺りに「有楽原」と書かれています。

 

 

◉「数寄屋」の名前の由来

江戸城本丸と西丸の表中御殿は、女人禁制であり、その代わりに剃髪・僧衣姿の御坊主衆がいました。将軍の諸用を務める「奥坊主」、老中・若年寄の諸用を務める「御用部屋坊主」、登城した大名や出仕した役人に茶を出す「表坊主」などなどです。

 

◈「御数寄屋坊主」は、茶礼や茶器を司る坊主で、参勤する大名や高禄の武士にお茶を出しました。数寄屋坊主は、宗教的な意味での坊主ではなく、京都などの名流派筋の茶道の世襲坊主でした。

彼らは拝領された町人地に、書院造に茶室を設けて虚飾を廃し、数寄屋造りの屋敷を構えました。

この数寄屋坊主衆に由来して、「数寄屋町」から「数寄屋橋」に「数寄屋橋御門」と名付けられたとのことです。明暦の大火後に数寄屋坊主衆は移転してしまい、この周辺は元数寄屋町と呼ばれるようになりました。

 

 

◉「有楽町」の名前の由来:数寄屋坊主衆とも関係の深かったという、織田信長の弟「織田有楽斎(うらくさい)」からきています。

*織田有楽斎(ながます):安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。織田信秀の十一男で、有楽・如庵(うらく・じょあん)と号した。 千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。後には自ら茶道有楽流を創始した。京都建仁寺に建てた茶室如庵は国宝に指定されている。

 

江戸時代、数寄屋橋は現数寄屋橋交差点から南町奉行所の方向(有楽町駅の方向)に架けられていました。  数寄屋橋交差点から現在のマリオン・ルミネの方向に向いていたんですね。

しかし、晴海通りは自動車をスムーズに通すため、日比谷公園方向にまっすぐ向かうように建設されました。

 

 

数寄屋橋が架けられたのが昭和4年。 その横に朝日新聞ビルが建てられ、更に昭和8年(1933)日劇が開業、その景観は東京の新名所となったわけです。

 

 

 

朝日新聞本社は昭和55年築地に移転、一世を風靡した日劇も昭和56年に解体され、跡地に有楽町センタービル(有楽町マリオン)が建てられました。

 

数寄屋橋交差点から少しだけ外堀通り沿いを有楽町駅へと歩きます。

外堀通り沿いに「銀座の恋の物語碑」などがありますね。

北村西望作という「燈臺(とうだい)という銅像もあります。 

長崎の「平和記念像」も北村西望の作品です。

 

 

 

■南町奉行所跡(有楽町駅前)

江戸時代、有楽町駅前付近に「南町奉行所」がありました。

享保2年に南町奉行となった大岡越前守忠相は「大岡裁き」の名奉行として有名ですね。 

8代将軍吉宗の抜てきを受け、江戸の市政改革に大きな成果を上げたことでも知られています。 有楽町駅前の再開発事業のために行われた2005年の本格的な発掘調査で、この地にあった南町奉行所跡が発掘され、屋敷内での生活を彷彿させる多くの遺構・遺物が発見されました。石組みの井戸・土蔵の跡なども発見され、書物所の穴倉から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など、貴重な資料も出土しています。 大岡越前守の他にも、17年に渡って南町奉行を勤めた根岸鎮衛(しずもり)も耳袋()奉行として有名です。

駅前に「南町奉行所跡」碑がありますね。

 

 

 

◉有楽町駅前

 

有楽町駅銀座口に立って周囲を見渡すと…まず目につくのは「東京交通会館」と目の前の大きな高いビル。丸井が中心となって建設した「ITOCiA(いとしあ)」。

 

 

 

現在交通会館があるところは・・・戦後は「鮨屋街」となっていました。 仕事帰りのサラリーマンで大変賑わった場所。特に、この辺りには新聞社が集まり、新聞街、インク街とも言われたほどで、新聞記者さん達のメッカでした。

 この鮨屋街・・・昭和39年に東京でオリンピックが開かれるということが決まると、区画整理の対象となり、立ち退きを迫られました。 最後まで立ち退きに抵抗したのが「だるま鮨」、、、しかし昭和43年、ついに強制立ち退きとなり、取り壊されました。

壊されるだるま鮨を有楽町駅から眺めている大勢の人・・・

 

 

 

◉南町奉行:大岡越前の系図を辿ってみますと、

大岡越前の4代の祖先に、家康の御生母「於大の方」がいます。 徳川家康の異父妹「多劫姫」が曾祖母にあたります。

「多劫姫」は通説・於大の方が再嫁した久松俊勝の娘ということになっていますが、松平広忠の娘だという別説もあります。 とすれば、父母ともに家康と同じ。

大岡越前・・・結構、徳川家康とも近い血筋ではありますよね。

 

 

◈保科正直…家系を辿ると「源頼信」に至る。 源頼義の弟に井上三郎頼季という武将がおり、その系統です。 武田家に仕えましたが、武田家が滅びると徳川家康に従いました。武功をあげ正直の子の正光が初代高遠藩主となっています。 とすれば、源氏の血もひいていた。

正光は諸事情から徳川秀忠の子、幼名「幸松」を預かり養子としました。後の保科正之です。 

保科正之は高遠藩主から会津に移封され、初代会津藩主となっています。

 

■町奉行所あれこれ

<ご参考> 江戸町奉行所の変遷

江戸町奉行は慶長年間から設置されていますが、町奉行所が役屋敷化されたのは寛永8年(1631)。 当初は常盤橋御門内と呉服橋御門内2か所に置かれました。 北(常盤橋門内)は加々爪忠澄、南(呉服橋門内)は堀直之に役屋敷が与えられ、居宅がそのまま奉行所となりました。

その位置関係から、常盤橋が「北町奉行所」、呉服橋が「南町奉行所」と呼ばれました。町奉行の役屋敷は、その後、何回かの変遷を経て幕末まで続いています。 

元禄15年(1702)~享保4年(1710)の間だけ「中町奉行所」が設置されました。

 

北か南か中か・・は、実は、奉行所の相対的位置で呼ばれていたわけで、移転すれば呼ばれ方も変わっていたわけです。 宝永4年(1704)、北町奉行所が数寄屋橋御門内に移転、南町奉行所となっています。

南町奉行所は、その後移転はなく、そのまま幕末を迎えています。

北町奉行所は常盤橋➡呉服橋➡常盤橋と移転、文化3年(1806)常盤橋御門内から呉服橋御門内へと移転、幕末を迎えています。 遠山の金四郎さんが北町奉行だった頃は「呉服橋御門内」にありました。

 

■有楽町駅前を通りすぎ、東京国際フォーラムへと向かいます。

江戸時代は松平土佐守(山之内家)の屋敷があり、明治維新後は2代目東京府庁舎が置かれたところです。

 

 

この辺りを歩いている時、ここはちょっと休ませて頂くのにとてもいい場所です。

「中庭」も快適ですし、ガラス棟の中も広々としていい雰囲気。

頭上には船が浮かんでいます。 

 

 

そしてロビーをロボット君がかいがいしく動いています。

 

 

このロボット君、お掃除ロボットかなと思いきや、警備ロボットなのだとか。

何かの異常を感じたら、なんかActionするんでしょうね。

友人が話しかけてみましたが、Ummm…反応は無し。 スタスタ・コロコロと行ってしまいました。

 

 

この「東京国際フォーラム」がある地には、江戸時代は松平土佐守(土佐高知藩・山内家)の屋敷がありました。 

藩祖山内一豊は司馬遼太郎の小説「功名が辻」にも描かれ、NHKの大河ドラマでも話題となった武将です。 

元々は秀吉の家臣でしたが、関ヶ原では東軍(家康)に組し、その戦功により遠江6万石から土佐一国24万石を領するまでに立身しました。 移封された時、土佐にはまだ長曾我部氏の残党が残っており、制圧には大変苦労し、長期間を要したようです。 

 

幕末には「山内容堂」がでて四賢候の一人と評されました。 慶喜に大政奉還を勧めたのも容堂であったと言われています。 鳥羽・伏見の戦いの後、徳川追討を決める御前会議で、「大政を奉還した徳川慶喜にこれ以上何の罪があるか」と一人反駁し、岩倉具視ら策謀派を困惑させました。 これは関ヶ原では敗軍となった薩摩・長州と違い、徳川家から土佐一国を拝領した山内家の立場の違いを示すものであったといわれています。

 

生涯、酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称したと伝えられます。

晩年は、連日、両国・柳橋などの酒楼にて豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語して諫めも聞かなかったといいます。そのためか・・・46歳の若さで亡くなっています。

 

<山内容堂>

 

この地に、後、2代目の東京府庁舎がおかれました。

 

◉東京府庁舎

明治27年(1894)、有楽町(現・丸の内三丁目)に妻木頼黄(よりなか)設計による赤煉瓦2階建ての府庁舎が完成し、府庁舎は内幸町から移転しました。

 

明治31年(1898)、「市制特例」が廃止され、府庁舎内に「東京市庁舎」が開かれました。写真は明治後期~大正前期の「東京府庁舎」&「東京市庁舎」。 戦時中の昭和18年(1943)、東京府と東京市が統合され、東京都が誕生しました。 この建物は戦災で焼失しています。

都庁が1991年(平成3年)丸の内➡新宿に移転したのは記憶に新しいですね。

 

 

 

◉東京国際フォーラム:1997110日開館。(株)東京国際フォーラムが運営する公的総合文化施設。東京都庁の跡地に建設され、7つのホール、展示ホール、33の会議室、相田みつを美術館などからなり、様々なイベントや展示が開催されている。ガラスの吹き抜けホール(ガラス棟)は「船」を題材にしており、その巨大な外観と共に、船の骨格のような構造を露出した内部が特徴となっている。建物の曲線は山手線の線路の曲線と平行しており、また中庭のような広場が中央部に配置されている。

◈株主:東京都・JR東日本・東電・東京ガス・三菱地所・電通・サントリー・NTT東日本等

 

 

 

この建物の1階には「太田道灌公の銅像」と道灌公にまつわる歴史などが展示されています。

 

■太田道灌公

 

伝承によれば、永享4年(1432)、相模で太田資清(道真)の子として生まれました。諱は資長(すけなが)、別名持資(もちすけ)。 扇谷上杉家の家宰職を継ぎ、武将としても学者としても一流という定評があったとのことです。 『永享記』などによると鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問を修め、足利学校でも学んだといいます。

道灌の名をいつ名乗り始めたかは不明とのことですが、道灌の名の初出は文明6年(1474)の歌合記事とのこと。

太田道灌公、和歌、といえば「山吹の里」の伝承が有名ですね。

 

道灌は康正2年(1456家督を継承、以後、「享徳の動乱」の中、扇谷上杉政真まさざね、定正と2代に渡って扇谷上杉家を補佐、28年にも及ぶ「享徳の乱」を戦う事になりました。

この戦いの中で古河公方方の房総の有力武将千葉氏を抑えるため、江戸城を築城しました。 完成したのは長禄元年(1457)と伝えられています。 他にも川越城や岩槻城などを築城したと伝わります(岩槻城については異論もあり)。 享徳の乱や長尾景春の乱で活躍しますが、長享2年(1488)、永年仕えた主君上杉定正に裏切られ謀殺されました。 今川家の家督相続問題で、北条早雲とやりとりがあった・・・という説もありますね。

 

さて東京国際フォーラムをでたところ、鍛冶橋通り沿いに「東京府庁舎」の碑があります。

 

 

鍛冶橋通りに出て、鍛冶橋跡・鍛冶橋御門跡へと歩きます。

 

続きますでござる