江戸城周辺外濠跡を歩く その2:新橋駅周辺の外濠跡 | jinjinのブログ

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江戸城周辺外濠跡を歩く <その2:新橋駅周辺の外濠跡>

 

 

■新橋附近地図・・・江戸時代と現代を組み合わせたもの

 

1:烏森神社 2:幸橋  3:幸橋御門 4:土橋 5:新橋(芝口橋) 

6:汐留橋 7:新橋停車場 8:松平甲斐守(柳沢家)邸 (初代東京府庁舎) 9:薩摩藩中屋敷(鹿鳴館)

烏森神社は現存、新橋停車場はJRにより復元されていますが、他は全て「跡」になりますw。

◉新橋駅周辺の「煉瓦造高架」は明治時代の遺構というか・・・現役です。

 

■新橋駅付近の外濠跡

江戸時代、現新橋駅付近で、外濠は赤坂溜池~虎ノ門方面から東西に流れる濠と、一石橋付近で日本橋川から分岐し、現東京駅前(八重洲)を通り、鍛冶橋跡~数寄屋橋跡~山下橋跡を通って南北に流れる濠とが合流していました。合流した濠は、土橋から新橋(橋)~汐留橋を通って江戸湊へと流れ出ていました。

 

◉明治以降は東西に流れる濠を「汐留川」、南北に流れていた濠を「外濠川」と呼んでいたようです。

 

 

◉外濠:虎ノ門あたり

赤坂溜池から赤坂ドンドンと呼ばれた「堰」から流れ落ち、「虎ノ御門」前を通り、新橋方向へと流れていました。

 

赤坂溜池は、内藤右近将監邸(日向延岡藩)跡に「工科大学」を建立する際、溜池の堰が壊されたために水を失い、明治20年には干上がってしまい、溜池の跡地は道路(外堀通り)や商業地などへと変わっています。

 

 

 虎ノ門あたりの外濠についてご関心あれば以下ブログをご参照ください。

https://ameblo.jp/am-kojisha/entry-12611406963.html?frm=theme

 

◉外堀通り:明治時代、溜池跡から虎ノ門を通る「外堀通り」が作られましたが、自動車が通行しやすいようにカーブを緩やかするため、虎ノ門からは外濠を埋め立てた上にではなくその南側に作られました。「外堀通り」と聞くと「外濠跡」に作られたのでないかと思いがちですが、そうではありません。

 

 

◉外堀通りの建設:虎ノ門附近(大正元年)

 

 

◉新橋駅周辺

虎の御門前を通って東西に流れた「外濠」には、現在のJR高架をはさんで2つの橋が架けられていました。「幸橋」と「土橋」です。 幸橋を江戸城方向へ渡ると「幸橋御門」がありました。 幸橋御門は左折れの桝形門で、渡櫓門を出ると松平甲斐守(柳沢家)の屋敷がありました。

 

◉幸橋御門:肥後国熊本藩主の細川忠利が築きました。 増上寺参詣の道筋にあたるため御成橋門とも呼ばれていました。 この幸橋御門の内側にある地域は内幸町と名付けられています。

 

 

 

■現在、外濠跡は?

明治20年代、溜池が干上がってしまったため、虎ノ門~幸橋間の汐留川は流れを失い、明治年間に埋め立てが進み、建物が建てられ始めました。

新橋「第一ホテル東京」は正に外濠跡に建てられています。

第一ホテル東京の位置の真ん前に「幸橋」がかかっていまいた。

 

 

 

幸橋を渡ると幸橋御門でしたが・・・ここは今道路、なにもありません。 

左手には「新幸橋ビル」が建っています。

 

 

幸橋のお隣は土橋でした。 「土橋跡」へ、JR高架橋を潜ります。 

この高架橋は「幸橋架道橋」といいます。 幸橋がここにあったことの名残りとなっています。

 

 

 

新橋駅の北東で高速道路は大きくカーブしています。 かつて外濠はその下を流れており、有楽町方面から汐留方向へのカーブの曲がり始めのあたり、高速道路の入り口付近が、土橋が架けられていた地点です。

この下流に橋が架けられましたが、土橋よりも新しかったため「新橋」と呼ばれ、それが地名「新橋」の由来となりました。 切絵図には「芝口橋」」と描かれています。

 

 

◈土橋から下流の汐留川は昭和29年から埋め立てが始まり、昭和38年には最下流部900mを残すのみとなりました。「土橋」はなくなりましたが、外濠通りの交差点名、高速道路の入り口名として「土橋」の名前が残っています。

 

◈土橋と言われる橋には2つタイプがあり、城の堤のようなタイプと、丸太を並べその上を歩きやすいように土で固めたタイプがあります。

当時、この土橋はどちらだったか判りませんが、切絵図では他の所謂「橋」とは違う描き方をされています。

 

◈ちなみに、この地点の高速道路は「首都高速」ではありません。「東京高速道路」という民間企業が運営しています。 KK線と呼ばれています。(新京橋~新橋出入り口まで。その先は首都高です)

 

<在りし日の外濠川>

 

 

外濠がどう流れていたのか確認できる写真があります。昭和22年(1947)の空撮写真です。虎ノ門~幸橋館雄外濠は既に埋め立てられており、ビルが建っています。土橋から海までの外濠はまだ残っています。 

 

 

◉銀座側、土橋方向から第一ホテル東京を望む。 この下が外濠でした。

 

 

◉高速入り口(土橋)と高速道路。 高速道路は外濠跡の上を通っている。

 

 

◉都電「土橋線」

かつて「土橋」から数寄屋橋~鍛冶橋~東京駅八重洲口~新常磐橋まで都電土橋線が運行されていましたが、昭和19年土橋電停は廃止となり、土橋線も昭和43年、廃止となっています。

 

 

ところで、

川や川の跡が市や区の境目になっている例は多いですが、新橋周辺は全くその例にもれずでして、外濠(跡)が区の境になっていました。  

ところが、戦争復興期、銀座周辺の外濠は次々と埋め立てられ、境目であった外濠跡地にビルが建ち、またその上には高速道路が建設されました(東京高速道路=KK線)。 

 

区境をめぐって千代田区・中央区・港区で話し合いが行われましたが、まさか一つの建物の真ん中で区切るわけにもいかず、結論をえず、今もって正式な住所のない場所が発生しました。 

KK線下の、銀座ナイン・銀座コリドー街・銀座ファイブ・NISHIGINZA・銀座インズなどです。

 

 

さて困った・・・郵便物はどうするんでしょう?

「中央区銀座Ⅹ丁目先」などの便宜上の「住所」と「店名」を書けば届くようになっているのだそうです。 

 

JR高架下・高速道路下(外濠跡)を歩く:銀座裏コリドー街

この高架下には、昔から外国人観光客向けの「インターナショナル・アーケード」などの商業施設がありましたが、近年大再開発され、201911月に「銀座裏コリドー街」と名付けられてオープンしました。 更に2020年には、国会通りから有楽町方向へ約300m続く「日比谷オクロジ」がオープン。 外濠跡に沿って、新橋から山下御門跡まで、高架下・高速道路下は大人たちのショッピング・遊びの場となっているとのことです。

 「裏コリ」と「日比谷オクロジ」で雰囲気が全く違うのも、これまた「妙なり」です。

 

ちなみに、正式住所のないお話、銀座コリドー街は中央区銀座(正式住所なし)ですが、裏コリドー街・日比谷オクロジの店舗は千代田区内幸町となっています。

 

 

 

■大和郡山藩柳沢家・松平甲斐守邸跡:

柳沢邸は寛政6年(1794)の桜田火事でほぼ全焼しましたが、翌年再建されています。

この屋敷は、明治維新時に「初代東京府庁舎」として使われ、建物の大部分が旧藩邸そのまま府庁舎として転用されました。

そのため表門などは藩邸時代の門柱に真新しい「東京府」の大看板が掲げられました。明治278月(1894)、鍛冶橋内有楽町二丁目に庁舎を新築するまで、府庁は永い間この場所に置かれました。

この地には、現在は「幸橋ビル」や「内幸町東急ビル」「日比谷ダイビル」「内幸町ホール」などが建てられています。

 

 

この門の出番所の屋根にご注目。 この屋根は桜田火事の後、急ごしらえで作られたもののようで「千鳥破風」で作られています。 

15万石の大大名の格式から言えば「唐破風」が本来なのだそうで、幕末、柳沢家は幕府に出番所屋根の改造を願い出ています。その時の願い書をもとに作られたというのがこの絵図です。

 

 

右が現在(当時)・・・千鳥破風の出番所が描かれ、左に改造後・・・「唐破風」の出番所屋根が描かれています。(松平甲斐守幸橋御門内上屋敷表御門出番所絵図を参考に書かれたものとか・・・柳沢文書保存会)

しかし、結局改築はされなかったようで、こんな写真が残されています。 

出番所の屋根は千鳥破風のままのようです。

*「唐破風」:「唐」とは書くが、日本独特の建築様式とのこと。

 

 

◉松平甲斐守邸御門跡あたりから高架方向を望む。

 

 

 

◉煉瓦造高架・・・を望む

 

 

 

柳沢邸跡の一角に「内幸町ホール」があります。 国会通りに面しています。

 

 

 

国会通りを挟んで旧島津薩摩藩邸(鹿鳴館)がありました。

次回は・・・「鹿鳴館跡」からのレポートです。

 

 

続きますでござる