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鎌倉金沢街道を歩く =浄妙寺~鎌足神社
 
 
■金沢街道
奈良時代に藤原鎌足がこの地に逗留し、鎌を埋めたという伝承のある古い街道筋。
鎌足が鎌を埋めたため「鎌倉」という地名になったとい伝承が残ります。

 

金沢街道は六浦から鎌倉へ塩を運ぶための要路でした。
1333(元弘3年)北条鎌倉幕府滅亡後、この一帯に足利政権の「鎌倉公方」がおかれたこともあって、足利氏ゆかりの寺院も存在します。
 
●俗に言う「鎌倉公方」とは
足利尊氏と弟の足利直義が対立した際、上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏(尊氏の四男)を初代とする。
 
京都足利将軍の代理として関東10か国を統治しました。 初代基氏が尊氏の四男であり、京都との対等意識からか次第に対立を深めるようになり、第四代「持氏」の時永享の乱で一旦断絶することとなります。
 
その後、持氏の息子「成氏」の時復活しますが、この成氏も1455年古河に移り古河公方となります。
 
かわって足利政知が鎌倉公方として派遣されますが、鎌倉に入ることなく伊豆堀越にとどまり「堀越公方」と呼ばれました。 
堀越公方も政知の子「茶々丸」の時北条早雲に滅ぼされ、鎌倉公方は消えて行くこととなりました。

 

伊豆韮山堀越御所址・・・今はただの原っぱです。

 

 
●余談ですが…鎌倉は源氏相伝の地と言われます。

 

いったいいつからどのように「鎌倉」は源氏相伝の地となったのか…
発端は「平忠常の乱(1028)」と言われています。
坂東ではそれより先の天慶2年(939)に将門の大乱が起こり、将門の兵士が農耕で多忙な時期を狙い、藤原秀郷が将門を討伐しました。 

 

藤原秀郷にかわって安房守であった平公雅が武蔵守となり、公雅はその報謝として浅草寺に七堂伽藍を寄進しています。 

 

しかしその後も関東の情勢は不穏で、1028年平忠常が安房国に侵入して国司を殺害、平直方が追討使として派遣されたものの一向に乱は収まらず、源頼信が派遣されることになります。

 

源頼信が派遣されると何故か忠常は頼信におとなしく従ったという。
この件より後、坂東の兵は頼信に従うようになります。 頼信もその子頼義も相模守に任じられています。

 

永承6年(1051)、奥州で安倍頼時の反乱(前九年の役)がおこり、源頼義らがこれを平定、頼義は平直方の婿となって、鎌倉で八幡太郎義家が生まれたと伝わります。 
義家も平直方の孫・・・外孫ということになります。
 
◈直方は平氏の嫡系(平国香のひ孫)で、その5代の子孫が平(北条)時政。 武家の系図もなかなか複雑です。

史実が事実なら…源頼朝と北条時政も実は遠い親戚ということになりますね。

 

前九年の役で勝利した頼義は直方の鎌倉の館を譲られ、康平6年(1063)石清水八幡を鎌倉の地に勧請しました(鎌倉元八幡)。

 

●由比若宮(元八幡)  鎌倉材木座にあります。
 
義家は陸奥守に就任しますが、永保3年(1083)清原氏の内紛に巻き込まれ(後三年の役)、勝利はしたものの朝廷からは私闘とみなされなんの恩賞もえることがなかった。 義家は私財をなげうって兵の功績に報い、兵から絶大な信頼を得ることに至ります。
 
この戦いで著名なのが鎌倉権五郎景正と三浦為次。 鎌倉権五郎は歌舞伎の「暫」にも登場しますし、神となって鎌倉御霊神社に祀られています。 元をただせば鎌倉氏も平氏の一族。
 
●鎌倉権五郎神社(御霊神社)
 
 
こうして鎌倉は源氏相伝の地となりました。
頼朝が幕府を開く際この地を選んだのも、地形と共にこうしたことが背景にあったわけですね。
 
 
■鎌倉期の仏教 

鎌倉時代、東大寺をはじめ南都(奈良)諸寺の再建がなされる一方、新興の武士や農民たちの求めに応じる形で、新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などが生まれました。

 
開祖は延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4宗はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、禅宗2宗は中国から新たに輸入された仏教です。
 

鎌倉新仏教の中で、念仏や題目を唱える宗派は「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず、ただただ信仰することにより、在家(在俗生活)のままで救われると説く点で一致しています。(他力本願)

 

一方、中国から伝来した禅宗では戒律や作法が重んじられ、禅を行うことによって自己を研磨し、自己を律することが必要とされます。(自力本願)

 

●鎌倉における禅宗(臨済宗)の発展 =鎌倉臨済五山の制定=

 

鎌倉は武士の町です。武士は、強い精神力を持って道義を重んじ、死をもいとわず、自力本願、自己を律し、自己を鍛える…武士には禅宗はうってつけでありました。そこで多くの武士が「禅」に帰依しました。

実朝を暗殺し、実質的に武士の棟梁となった北条氏は禅宗を重要視し、鎌倉に次々と大きなお寺を創建、中国の五山制に習い、臨済禅宗の寺格を定めました。
 

●鎌倉臨済五山について

北条氏が制定したとされる五山の構成は定かではないようです。鎌倉の寺院を中心に制定したといわれていますが、京都の寺院では建仁寺が当初の五山に含まれていたとされています。
 
後醍醐天皇による建武の新政時には、五山も南禅寺と大徳寺を筆頭とする京都本位に改められたようです。南北朝時代には足利尊氏や弟の直義らが禅宗を信仰、夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに五山を制定したようです。 3代将軍足利義満が相国寺を創建した後に、五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺を置くという改革が行われています。
 

◈鎌倉五山は、第一位「建長寺」、第二位「円覚寺」、第三位「寿福寺」、第四位「浄智寺」、第五位「浄妙寺」となっています。

 
●建長寺
 

 

 

●円覚寺
 
 
 
◈京都五山:度々変更されていますが、
別格=南禅寺別格 第一位=天龍寺 第二位=相国寺 第三位=建仁寺 第四位=東福寺 第五位=万寿寺 。 大徳寺・妙心寺は政治的理由ではずされていました。
 

 

■浄妙寺  =臨済宗=
鎌倉臨済宗五山第5位の寺格の寺院です。
 
庭園に「喜泉庵」という茶室があり、枯山水の庭園を見ながら抹茶がいただけます。
境内がとても美しいお寺で、国の指定史跡となっています。藤原鎌足の伝承が残る古刹です。

 

 
 
 
◈創建:頼朝の忠臣であった足利義兼が創建しました。文治四年(1188)と伝わります。
もともとは密教系でしたが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然が住職となり、臨済宗に改宗しました。足利義満が鎌倉五山の制をしいた時には七堂伽藍も揃い、塔頭も23を数える大刹だったという。
(足利義兼…八幡太郎義家のひ孫にあたります)
 
 
本堂から山門方向を望む
 
 
 
 
■鎌足稲荷神社
 
鎌足稲荷神社」…浄妙寺横の小山の奥に、鎌足稲荷神社という小さな「社」があります。飛鳥時代、大化の改新の後、藤原鎌足が鹿島神宮に詣でる途中の由比ヶ浜の里で、稲荷大神より「授けた鎌を埋めなさい」との霊夢を見、白狐に導かれ、持っていた鎌をこの地に埋めた…という。
これが「鎌倉」という地名の由来…という説もあります。
 
 
 この鎌は、鎌足公幼少の時稲荷大神より授けられもので、大化の改新という大願を果たしたのでもはや埋めなさいという夢告だったといい、浄妙寺には藤原鎌足像が安置されているといいます。(非公開)
 
鎌倉で一番古い神社「甘縄神明(あまなわしんめい)神社」を創建した「染谷時忠」は鎌足の子孫といいますし、鎌倉長谷寺を創建した藤原房前(ふささき)は鎌足の孫といわれています。 鎌足も鎌倉にはいろいろ縁があるようです。 房前は藤原北家の始祖。
 
◈藤原(中臣)鎌足…中大兄皇子(天智天皇)とともに曽我入鹿を倒し、647年大化の改新を成就した。
鎌足が鎌倉に寄ったという伝承は面白いですね。
 
●喜泉庵 浄妙寺境内の古民家を移築した風情ある茶席
ゆったりとした気分で抹茶がいただけます。