【何を以て之を文と謂う】(公冶長第五) | つねにコーチであるために

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(公冶長第五)

子貢(しこう)曰わく、孔文子(こうぶんし)は何(なに)を以(もっ)て之(これ)を文(ぶん)と謂(い)うや。子曰わく、敏(びん)にして学(がく)を好(この)み、下問(かもん)を恥(は)じず、是(ここ)を以(もっ)て之(こ)を文(ぶん)と謂(い)うなり。

 

【訳】

子貢が尋ねた。

「孔文子(衛の大夫) は何ゆえに諡(おくりな)を文と 言うのでしょうか」 

先師が答えられた。

「天性が明敏であって学問を好み、目下の者にもへりくだって尋ねることを恥じなかった。それで文と諡されたのだ」

 

#生まれつき利発ながら学問に熱心で、目下の者にも教えを請うことを恥と思わなかった優れた人物に最高の称号の「文」が与えられる。

 

<論語が醸すコーチング>

【何を以て之を文と謂う】何を以てその人の価値が高くなるか、コーチはクライアントが誰からも教えを請う姿勢に価値を見出し、その姿勢を維持できるよう客観的視点から見守りながら、対話によって思考や行動をサポートをしている。