中国に対して「支那」という呼称を用いるべきとする議論がある。
要約すれば、「支那」にはその言葉自体に差別的意味はなく、歴史貫通的な呼称としては「支那」を用いる方が合理的であるというものである。
ここでは、田中美知太郎のエッセイ「中国と言わざるの弁」を取り上げる。
「わたしが「中国」と言わずに、いつも「シナ」と言っていることについても、何かシナぎらいの感情的要素があるのではないかと疑われるかも知れない。しかしわたしはそういう好悪感にとらえられているわけではなく、地理的・歴史的名称としては「シナ」の方が便利ではないかと、漠然と、考えているだけなのである。」
「要するに現代のシナ、つまり中国と称せられているものは、永いシナの歴史のなかの一時期の現象として存在するものであり(中略)流動的・浮動的なシナの一部分ということになるだろう。」田中美知太郎「中国と言わざるの弁」(『思想に強くなること』文藝春秋1978年所収)
笠原十九司『日中戦争全史(上)』(高文研2017年)によると、1913年6月、当時の日本政府は内閣の閣議決定で、辛亥革命(1911)により成立した中華民国の国号を認めず、「支那」と呼称することに決定している。欧米では地理的名称としてChinaを使用していることがその理由の一つであった。この閣議決定は辛亥革命時の駐華公使 伊集院彦吉の進言によるものであり、その背景には日本国内への革命波及による国体変革に対する危機感があったという。
しかしその一方で、当時の日本政府は、同じく革命(1917)によって成立したソビエト社会主義共和国連邦(「ソ連」)については、「ソ連」の呼称を認めないという立場をとっていない。
田中美知太郎も同じ文章の中で革命ロシアについては「ソ連」と称している。
“現代のロシア、つまりソ連と称せられているものは、永いロシアの歴史のなかの一時期の現象として存在するものであり、流動的・浮動的なロシアの一部分ということになるだろう。”という立場はとっていない。
革命ロシアについては「ソ連」の呼称を認めるが、中国については中華民国(第2次大戦後には中華人民共和国)を認めず「支那」と称する。これは差別的な扱いであり、その背景には中国に対する蔑視の感情があると考えざるを得ない。
「支那」呼称の背後には、反革命主義と差別主義があり、現代日本において「支那」の呼称に固執する者は反共感情と差別感情に基づいて、「チャンコロ」の代用品としてこの呼称を用いていると思われる。
このような愚劣な立場に私は与しないので、「支那」という呼称を使うことはないのである。