12・Concerning Individual Freedom (個人の自由について)
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パスカルによれば、悪徳を食い止めるのは悪徳であり、徳というものは敵対する悪徳と悪徳との間の膠着が生み出した副産物である。自由に関しても同じことが言える。私たちは自身の力によって自由であるのではなく、二つの敵対する力の均衡によって自由なのだ。個人の自由は、力において拮抗する党派・分派・集合体等の引き分け試合の副産物である。西洋における自由の育成は、権力の分割と、権力の永続化に対する選挙などの防止策によって可能となった。20世紀の全体主義はその反転であり、一元化を志向するものである。
有効かつ組織化された反対勢力の存在は、個人の自由のために不可欠である。
個人の自由は、社会のエネルギーを解き放つ不可欠の要因であり、それは社会が個人の自由を支えるに十分な程度に強く、支援するに十分な程度に豊富であることが条件である。後進国はこの条件を満たしていない。
後進国の近代化における知識人の主要な役割は、個人の自由の普及に抗して戦うことでもある。知識人の教育・監督・規制への志向は、社会の組織化を推進するだけではない。知識人の「社会で重きを置かれる存在になりたい」という熱望は、自由の全面的開花に対する非寛容を強化する方向に向かう。
知識人は自らの有用性の感覚を主に監督し、指導し、計画することから、すなわち他人ごとに心を傾けることから得ている。人々が個人や共同体の事を自ら差配できると信じ、監督され規制されることを嫌う自由社会では、知識人は自分が余計者であり無視されていると感じる。
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自由は、社会の中に存在する二つの敵対する力の均衡の副産物として実現する。ホッファーの論理は、マンダヴィル『蜂の寓話』における、各自の私利私欲という悪徳の追求が社会共通の善を生み出すという逆説を思わせる。『蜂の寓話』は諸個人の利己心の無政府的な活動が善をもたらすというのに対し、ホッファーの場合は社会内の対立する集団・勢力の均衡状態から自由が生み出されると言っているので、両者は同じではない。
社会の中の利害対立の妥協点として自由が実現するとすれば、利害対立が存在しない(と言い張る)社会や、一方の陣営が圧倒的優勢を占める社会では、自由は成り立たないということになる。その例証を、ホッファーは全体主義社会に求めている。
多様性と相互抑制のルールが西洋における自由の実現と深化・発展を可能としたとホッファーは見ている。
ホッファーの観点では、正義や理想の実現を訴えて闘争を挑む知識人は、却って自由の敵になり得る。知識人は自らを頭脳とし、一般市民を手足とする一元化された社会を希求する人々であり、それは全体主義と通底するからである。
個人の自由を守るためには、有力な反対勢力が必要である。
ホッファーの社会観は「挽き臼」を連想させる。上臼と下臼が重なり、その回転摩擦で自由が挽き出される。下臼がなくなって上臼だけになったら、それは挽き臼として機能しない。ただ空転するか、支えを失って下に転落するだけで何も生産しなくなる。
矛盾対立があり、相互の主張があり、和解不能の関係であっても、両者の利害の一致点を見出すことはできる。プラトン『ポリテイア』におけるグラウコンの議論以来、社会契約説はこうした妥協の産物である。損得勘定は軽視できない。「決められない政治」こそが自由を守る。しかし誰もが「決められない政治」はよくないという。そこには、一部の人々の一元化したい欲がある。その欲を掣肘し得る反対勢力が育っていない場合、例えば保守=右翼の二大政党制という形の実質的な一元化が行われ、市民から政治的選択肢を奪ってしまう。ホッファーが言うように、有力な反対勢力は自由のために必須である。それを育てるのは諸個人の主体性の問題となる。「客分」ではいられない。
