alp-2020のブログ

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読書ノートその他
ギリシア哲学研究者の田中美知太郎は、その著書『ロゴスとイデア』に収められた論文を、”対話者の登場しない対話篇”として書いたという。私も、そんな風に書くことができればよいと思う。

「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」

 

現首相・高市早苗はアジア・太平洋戦争における日本の対外侵略について、上記のように発言している(1995年3月16日の衆議院外務委員会。当時は新進党に所属)。これは「個人主義」というよりも、徹底した「利己主義」の立場であると思う。

 

個人主義は、人間を歴史から切断された「孤立した個体」とは考えない。個人主義の国・アメリカ合衆国の思想家エリック・ホッファーは以下のように述べている。「自由の伝統とは、抵抗・反逆の伝統である。伝統的に自由な社会では、強制に抗して戦う個人は、孤立したアトムではなく、反逆的な父祖たちの、強力な種族の一人であるという感覚を持っている」(Eric Hoffer “The True Believer” 第122節)。時代と世代の連続の中で「個人」と「個人の自律」を捉えるのが「個人主義」である。

 

孤立した個体にとっては、自分が偶然生まれ合わせた国家・社会の過去の誤謬など、自分には無関係であるということになるだろう。しかし個人は否応なく、生まれ合わせた国家・社会が経過してきた歴史を、「正」「負」ともどもに受け継がざるを得ない。歴史的な過去が沈殿した国家・社会の中で個人は自己を形成するからである。マルクスが言う「死んだ労働」が現在の労働者を支配するように、過ぎ去った歴史は消え去ることなく現在のわれわれを支配する。それを無視して「国家」、「国体」、「伝統」、「国民性」を云々することはできない。

 

利己主義者は、自己利益の極大化を目指す。過去にも、現在にも、未来にも、責任を負わない。

 

「並外れて利己的な人は、欲求不満の影響を受けやすく、自己放棄に走りやすい。最も激しい熱狂主義者は、しばしば利己的な人である。それは生来の欠点か、外的な環境によって、自分自身への信念を喪うことを強いられた人である。彼らは自分の利己主義のための精妙な装置を、首尾よく行かない自分から取り外し、何らかの大義に装着する。それが愛や謙虚の信仰であったとしても、彼らは誰も愛さず謙虚にもなれない。」(Eric Hoffer “The True Believer” 第38節)。

 

高市の発言の主旨が、国会決議で国民の総意を一方的に示すことへの批判であるというなら、憲法改正や皇室典範改正に関して、「国民の総意」を一方的に押し付けるべきではない。

 

利己主義者は論理的ご都合主義者でもある。

 

高市の発言を仮に肯定するなら、自民党の右翼政治家たちがいう「靖国のご英霊」に現代のわれわれが感謝するいわれもなくなる。