よく、「私はわがままだから!」と平気で人に言って回る人がいますが、私はそれ、大嫌いです!
「私のこのわがままな性格、何とかしたいのよね」であれば、まだいいですけど。自分のことを堂々と「私は○○だから」と言い切るのは、それを認めてしまっていることになると思うのです。
そして、そのことに何の抵抗も感じていない証拠だと思うのです。

私は子どもの頃、人からよく「わがままだ」と言われました。
それが自分で嫌で嫌で仕方なかった。だから「わがままじゃない自分になりたい」ってずっと思ってました。
当然自分で自分のことをわがままだと認めたくなかった。
自分でわがままだと思う言動は慎む努力をしていたから。
でも「私わがままだもん」と言う人はわがままであることを正当化し、裏を返せば「私のわがまま許してね?」と言っているのと同じだと思うのです。

人に「あなたは○○ですね」と言われたことを「そうなのかな?そうかもしれないな?」と感じることと、自ら宣言することは、まったく別の意味を持つと思うのです。

そしてその逆のパターンもあります。自分のわがままにならないように、気を使うあまり、すぐに「迷惑」という言葉を使うのもどうかと。

「迷惑ならいいですから」って・・・少しでも迷惑なのかな?と思うなら最初からやめればいいのに。
言われた方も嫌ですよね?「あなたはこういうことを迷惑だと思いますか?」って試されてるようで・・・
何かを断る理由がいつも「迷惑だから」ではないと思いますし・・・
「これ、断ったら迷惑だからだと思われちゃうのか?」とか、無意識的に考えてしまうものではないですか?人間って。

ただ、人によって受け取り方がいろいろあるので、迷うことはありますよね?普通にいいか悪いかを尋ねればいいと思います。「○○できますか?」「○○しませんか?」など。

でも、こういう言動をしてしまう人というのは、人から嫌われることにものすごい恐怖感を持っている人なのだと思います。
前者は自分から嫌われる要素を出すことによって「嫌われるように振舞っているんだから」と自分を納得させるタイプ。
後者は「あなたの気持ちに配慮します」という気持ちを「迷惑なら」という言葉で伝えたつもりになっているタイプ。

共通するのは視点が相手ではなく「自分がどう見られるか」に置いていることです。
どちらのケースも、変えようと思うなら、まず受け入れてあげることが大事だと思うのです。
「私はあなたが嫌いなのではないのですよ?」ということをしっかりとわかってもらうことが必要だと思います。
でも誰にでもできることではないのですよね・・・相性の悪い人というのはあるわけで・・・そこに無理が生ずる場合は相手を変えようと思わずに、自分がストレスを抱えないように適度な距離を保つ方がいいでしょうね・・・^^;

元上司が、私を引き上げてくれたときに「キミは、人を冷静にさせる素質がある」と言われました。

言われた瞬間は、その意味を理解するのに時間がかかったんですが、今となっては、何となくわかります。当時、自分がそういうタイプの人間だという意識は全くなかったんですが、最近になって、「あぁ、こういうことか」という実感を得ることが多くなりました。


仕事に限らず、人は、相手を見ます。同じ事を言っても、受け入れらる人と受け入れられない人がいます。また、あの人には平気で言えることが、ある人には躊躇してしまうことがあります。

自分がどう見られているかということは、物事を進めたいときに、案外影響力が大きいものです。「この人が言うことならやってみよう、信じてみよう」という気持ちにさせる言動を普段から行っているかが、イザというときに、明暗を分けるのです。


人目を気にすると言うとストレス溜まりそうですが、実は、人目を気にしないことの方が何倍も勇気が要ることなのです。それはとても孤独な生き方です。

「見られている自分」を意識することは、「この人を受け入れてあげよう」という気持ちと融合したとき、とてもバランスの取れた人間関係をもたらすものではないかと思います。

誰からも受け入れられる必要はない。

でも、自分という人間を受け入れてくれる人が欲しいと思うのは、人として極当たり前のこと。

できることなら、人が快く受け入れてくれる人間でありたい。

私はそういう意味で「見られている自分」を意識することは自分自身をも豊かにすることに繋がるのではないかと思います。

HPを開設して、自分の日記を書いたり、BBSでいろんな方と語らったりするようになって、「大人ですね」とよく言われるようになりました。
大人って、どんなことを言うのでしょう。


私は、大人も子どもも「感情を持つ」という点では、大して変わらないと思っています。
むしろ、大人であっても直情的でありたい、そういう感性を持っていたいと思います。
違うのは、その感情に対する対処の仕方、ではないかと思います。

その感情をどんな風に表現し、どんな風に消化させていくか。
人を巻き込むこともあれば、自分の中だけで葛藤することもあるでしょう。

でも、決して、感情的にならないことが大人であるということではないと思うのです。

人が感じる様々な感情や意見、考え方に対して、理解を示すことと、同調することとは別のことであるということ。
そこにたどり着ければ、人とのコミュニケーションがとても楽しい、有意義なものになると思います。

そして、それでもやっぱり最後は、自分と同じような考え方を持つ人と多くの時間を過ごせることが、最もストレスが少ないんだということを知っていれば、相手を受け入れられない自分に苛立ちを覚えることもなくなる。
あぁちょっと疲れたなと思えば、自分と似た感性の友達と過ごす時間を増やしたりして、バランスを保てばいい。
人間は、「完全無欠」な存在になれるほど、簡単な生き物じゃない

自分と言う一人の人間の中にも、多面性があるということを、ありのまま受け入れる。
自分でも、それができたなぁと感じることが出来た時、「少し、大人になったかな?」って、思える瞬間かもしれません(*^_^*)

たとえば、自分の態度が誰かを傷つけてしまったことに自己嫌悪を感じることがありますよね?これは、人として正常な心理だと思います。自分が悪いと思ったことを素直に反省することは必要なことです。そして、その気持ちをきちんと相手に伝え、関係を修復する努力は、人としてしておきたいことです。
でも、できるだけのことをして、それを相手が受け入れるかどうかは、相手によります。やるだけのことをやったら、後は相手次第と割り切ることも、相手を尊重することに繋がると私は思います。

向上心の強い人ほど「自己嫌悪」に陥ることが多いと思います。
適度な自己嫌悪は自分を成長させます。でも、自己嫌悪が激しすぎるということは理想を追求しすぎているとも言えると思います。これでは、人に対して優しくなれません・・・
芸術家のように、何かを完成させるために厳しいものの見方をする必要のある場合はそれでもいいのですが、日常の生活に高い理想を求めすぎるのは、心身ともに疲れてしまいます。

そして、もう一つは自分が周囲からどう見られているかを気にしすぎているとも言えるかもしれません。だから、後悔するのです・・・
「あんなこと言って、自分はこういう人間だと思われたんじゃないだろうか?」
「自分の言いたいことが伝わってないんじゃないだろうか?」とか・・・
いいんですよ、それでも。
人生において、チャンスは1度きりということは滅多にありません。多くのことはやり直しがききます。人も自分も日々変化します。今の捉え方が一生続くわけではないのです。

何かに追い詰められているとき、頭の中に、いろんな残像があり、どこまでが現実のプレイバックで、どこからがイメージなのか、わからなくなることがあります。自分の目の前にあることに真正面からぶつかっているときに、そういう現象に見舞われます。
私はこんなときは、全く別のことに気を向けるようにします。100%気分転換ができなくてもいいのです。100%そのことばかりを考えていた部分が90%になれば、それでいいのです。普段は話をしない人と、たわいのない話をしたり、映画を見たり、スポーツで汗をかくのもいいでしょう。ほんの一瞬でも追い詰められているものから思考をずらすことで、全く別の発想が生まれたりします。

何事も、「それしか見ない」近視眼や狭い視野からは、思考がふさがれ、発展性のある発想が生まれないものです。自分で「追い詰められているなぁ」と思ったら、外を見る癖をつけるといいと思います。
でも、このときの鉄則は、「そこから離れられない自分がいても、自分を責めない」ということです。いいのです。無理なときは、それでいいのです。でも、そういう姿勢を持ち続けていれば、かならず転機となるきっかけが訪れます。そういう姿勢を持っていないと、転機が来ても、それを見逃してしまうのです。
今日の地方の新聞にこんな記事が載っていました。
「ある教師は、後ろから同級生を殴った小2の男子に理由を尋ねた際『1年前に足を踏まれたのに謝らなかったから』と返答され絶句したと言う。こうした長い間怒りや恨みを秘めた暴力の他にも、理由もわからない状況で突発的に暴力を振るう子もいて、教師はこれまでの対応策に限界も感じ始めている。」

私には、小2の男子が同級生を殴った直接的な理由は「1年前に足を踏まれたのに謝らなかったから」ではないように思います。本人も本当は自分がどういう感情でそういう行為に及んだのか、整理できていないように思います。ただ、尋ねられて、最初に思いついたのが1年前の出来事だったのではないでしょうか。

今、社会では、これまでの常識では考えられないような事件が毎日のように起こっています。その度に、「常識的ではない」部分をだけピックアップして、そこだけに焦点を当てて議論されているような気がします。本質はそこではない。そういう事態に陥る、ずっとずっと以前のところにその引き金があるような気がします。

本来、子どもの気持ちはなかなか大人が理解できないものなのではないでしょうか。それを大人は「すべてわかっている」かのように、型にはめたがる。その方が、指導上「楽」だからです。大人は、「こういうタイプの子にはこうすればいい」的なマニュアルが欲しいのです。
しかし、大人がそんな態度で接することに、子どもは苛立ちを覚える。「何が」という具体的なものではなく、「そういう大人の存在」というとても漠然としたものに・・・
以前は、「大人と子ども」の関係の多くはこういったものだったのではないでしょうか。
ところが、最近では大人たちが「自分は子どもが理解できない」ということに気づきました。「でも、本来はわかってやらなければならない、でもできない。私は大人として情けない。自信がない。どうすればいいのか・・・」それが、子ども達にもストレートに伝わっているような気がします。

では、大人は「子どものことなんてわからない」でいいのでしょうか?
私は、「子どもの心はわかりにくい」ということを前提に、子どもと向き合う姿勢が大事なのだと思います。
子ども達は、決して大人を疎ましい存在のまま終らせるわけではないと思います。日常の様々な理不尽に出会うたび、疎ましいと思うことがあっても、その反面で、それ以上に「理解されたい」と思うのではないでしょうか。それは子どもに限ったことではなく、大人も同じ。人間の本能ではないでしょうか。ただ、その気持ちの表現の仕方が不器用な人を、世間では「子ども」と表現しているだけだと思います。
決して「大人>子ども」ではないのだということに、大人こそが立ち戻らなければならないのだと思います。
励ましのメールを送ったつもりが、相手を傷つけてしまったかもしれない・・・そんな悩みを持つ人へ・・・

どんな言葉も、受け手の置かれた状況や、その時の気持ちのあり方次第で、受け取り方が変わってしまうものでもあると思います。

人はみな、自分をわかって欲しいと思う生き物だと思います。
でも、人とはわがままな動物で、「自分がわかって欲しいときにだけ」
わかって欲しいというのもまた、真実だと思うのです。

今を必死で戦っている時は、「自分のことなんて誰もわかってくれない」
そんな気持ちになるときがある。
でも、わかって欲しいと思ったときは、わかって欲しい人に対して、きっと何かのサインがあると思います。
私は、その時を待つこともまた、その人に対する優しさだと思います。

必死で頑張っているとき、戦っている時、どんな言葉であっても、「励まされている」自分を自覚することが辛いときがあるものです。
人間不信だと言っていた友達にメールを送りました。「悩んでるんじゃない?」私のほうから投げかけてみました。
彼女の今の素直な気持ちを聞かせて欲しくて。そこから、彼女の呪縛を解いてあげたくて。
昨日、彼女から返信がありました。
やっぱり、思ったとおりでした。これ以上嫌われるのが怖くて、何をどうすればいいのかわからないと・・・自分は避けられている。相手に嫌な思いをさせるなら、近づかない方がいいんじゃないかって逃げてる自分がいる。最低だって。
私が彼女に気づいて欲しいのは、「相手に嫌な思いをさせるくらいなら・・・」じゃなくて、根本は、「自分が嫌われたくない、傷つきたくない」ってこと。
彼女の言動は全て「自分が」という主語がついているのです。相手がどう感じているか、相手が何を望んでいるかという視点が抜けているのです。だから、相手が疲れてしまうのです。何か悪いことをしたというわけではないのに、相手が自分から徐々に離れていってしまう。
周囲が「自分を」どう見ているかは気になるし、敏感だけど、良く思われていないと感じた瞬間、自分が「被害者」になり、「裏切られた」と感じてしまうのです。
自分の何がそうさせるのか、考えないわけじゃないけど、そこから逃げているのです。
「人の気を悪くするなんて、自分は最低の人間だ」彼女の口から出てくる言葉は、いつも「最低な人間」。
違うのですよ。これは、自分を責めて、かわいそうな自分に酔っているだけ。
酔っているという表現は苦しんでいる彼女にとって失礼なことかもしれないけれど、言葉を変えれば「被害者意識」なのです。見方を変えれば、相手を加害者にしているのですよ。これは、一見相手を思っているようで、実は、自分本位で、勝手なものの見方なんですよ・・・
ここに気づかないと、彼女はこれから先、延々と同じことを繰り返すと思うのです。
ただ、それをストレートに伝えたところで、今の彼女には受け入れがたいことでしょう。
それがどんなに偏った考え方であったとしても、まずは、「苦しんでいる」という心情をわかってあげたい。苦しいんだね、辛いんだねってことを、受け入れてあげたい。
彼女が自分を振り返り、新しいものの見方を受け入れるには、まずは彼女自身を受け入れてもらえることが必要なのです。
昨日、彼女のメールの一言一言に、うなづきの言葉を沿え、彼女自身が気づいていない彼女の心の葛藤を整理できるよう、ナビゲートしてみたつもりだけど、さて、彼女はどのように受け取るでしょうか。
まだ私が伝えたい結論に辿り着くには、長い時間が必要です。なぜなら、彼女に必要なのは、答えをもらうことではなく、彼女自身が考え、気づくことですから・・・
ネットで知り合った友達の言葉。
「信用していたのに裏切られたから人間不信になりそう」
私には持ち合わせていない感性です。
確かに、借金の保証人になって逃げられたとか言うのであれば、まぁわからなくもないのですが、普通の人間関係の中で、こういう感覚、私にはないのですよ。

恐らく、彼女は「自分の言動に100%賛同してくれる人=信用できる人」で、信用できると思った人に自分の言動を否定され、自分を受け入れてもらえなくなると「裏切られた」と感じるのだと思います。
本人には、もう少し複雑な葛藤があるのかもしれないけれど、客観的にはそんな風に見えます。彼女は、何人もの人に「人間不信」を感じているようですから。

「考え方や感じ方は人の数ほどある」根本にそういう感覚を持っていれば、彼女のような「人間不信」にはならないと思うのですよ。
ただね、私は彼女を見ていていつも思うのです。「理解者」がいないのですよ。
自分が心から受け入れられている、理解されているという実感を持てないまま、自分を否定される場面にばかり出くわしてしまう。
どう対処すればいいのかがわからないのです。
一度自分を否定されてしまうと、何を話しても、何をしても否定されてしまうんじゃないか、余計に嫌われてしまうんじゃないか、そういう恐怖感から、距離を置く以外に方法がなくなってしまう。

かわいそうだと思いますよ。人が悪いわけではないのです。
ただ、相手が何を望んでいるのかを察して接することが苦手で、誤解があっても、それをうまく伝える手段を持っていないのです。
その気持ちが空回りしてしまうのでしょう。

多くの友達は、彼女から距離を置くことを選びました。
私もそうすれば、一番簡単なのかもしれない。
でも、私には、彼女の叫びが聞こえる気がして、どういう訳か、放っておけないのです。
本人は望んでいないかもしれないけれど、もしも彼女がまだ私の言葉を聴いてみようと思う気持ちが残っているなら、とことん、向き合ってみたいと思います。
趣味でHP運営を始めて早1年ちょっと。自分の思いや考えをWebに載せて発信すること、それに数々の人との交流があること、それがこんなにも楽しい、充実した時をもたらすなんて・・・
HPにはたくさんの人に訪れてもらい、私という人間のこと、いろいろと知ってもらうことができました。でも、お互いに知り過ぎて語りにくいことも増えてきた。だから、何の共通の接点も持たないところから、新たなBlog生活のスタートです。ここからまた、新しい出会いが始まることを願って・・・