今日の地方の新聞にこんな記事が載っていました。
「ある教師は、後ろから同級生を殴った小2の男子に理由を尋ねた際『1年前に足を踏まれたのに謝らなかったから』と返答され絶句したと言う。こうした長い間怒りや恨みを秘めた暴力の他にも、理由もわからない状況で突発的に暴力を振るう子もいて、教師はこれまでの対応策に限界も感じ始めている。」
私には、小2の男子が同級生を殴った直接的な理由は「1年前に足を踏まれたのに謝らなかったから」ではないように思います。本人も本当は自分がどういう感情でそういう行為に及んだのか、整理できていないように思います。ただ、尋ねられて、最初に思いついたのが1年前の出来事だったのではないでしょうか。
今、社会では、これまでの常識では考えられないような事件が毎日のように起こっています。その度に、「常識的ではない」部分をだけピックアップして、そこだけに焦点を当てて議論されているような気がします。本質はそこではない。そういう事態に陥る、ずっとずっと以前のところにその引き金があるような気がします。
本来、子どもの気持ちはなかなか大人が理解できないものなのではないでしょうか。それを大人は「すべてわかっている」かのように、型にはめたがる。その方が、指導上「楽」だからです。大人は、「こういうタイプの子にはこうすればいい」的なマニュアルが欲しいのです。
しかし、大人がそんな態度で接することに、子どもは苛立ちを覚える。「何が」という具体的なものではなく、「そういう大人の存在」というとても漠然としたものに・・・
以前は、「大人と子ども」の関係の多くはこういったものだったのではないでしょうか。
ところが、最近では大人たちが「自分は子どもが理解できない」ということに気づきました。「でも、本来はわかってやらなければならない、でもできない。私は大人として情けない。自信がない。どうすればいいのか・・・」それが、子ども達にもストレートに伝わっているような気がします。
では、大人は「子どものことなんてわからない」でいいのでしょうか?
私は、「子どもの心はわかりにくい」ということを前提に、子どもと向き合う姿勢が大事なのだと思います。
子ども達は、決して大人を疎ましい存在のまま終らせるわけではないと思います。日常の様々な理不尽に出会うたび、疎ましいと思うことがあっても、その反面で、それ以上に「理解されたい」と思うのではないでしょうか。それは子どもに限ったことではなく、大人も同じ。人間の本能ではないでしょうか。ただ、その気持ちの表現の仕方が不器用な人を、世間では「子ども」と表現しているだけだと思います。
決して「大人>子ども」ではないのだということに、大人こそが立ち戻らなければならないのだと思います。
「ある教師は、後ろから同級生を殴った小2の男子に理由を尋ねた際『1年前に足を踏まれたのに謝らなかったから』と返答され絶句したと言う。こうした長い間怒りや恨みを秘めた暴力の他にも、理由もわからない状況で突発的に暴力を振るう子もいて、教師はこれまでの対応策に限界も感じ始めている。」
私には、小2の男子が同級生を殴った直接的な理由は「1年前に足を踏まれたのに謝らなかったから」ではないように思います。本人も本当は自分がどういう感情でそういう行為に及んだのか、整理できていないように思います。ただ、尋ねられて、最初に思いついたのが1年前の出来事だったのではないでしょうか。
今、社会では、これまでの常識では考えられないような事件が毎日のように起こっています。その度に、「常識的ではない」部分をだけピックアップして、そこだけに焦点を当てて議論されているような気がします。本質はそこではない。そういう事態に陥る、ずっとずっと以前のところにその引き金があるような気がします。
本来、子どもの気持ちはなかなか大人が理解できないものなのではないでしょうか。それを大人は「すべてわかっている」かのように、型にはめたがる。その方が、指導上「楽」だからです。大人は、「こういうタイプの子にはこうすればいい」的なマニュアルが欲しいのです。
しかし、大人がそんな態度で接することに、子どもは苛立ちを覚える。「何が」という具体的なものではなく、「そういう大人の存在」というとても漠然としたものに・・・
以前は、「大人と子ども」の関係の多くはこういったものだったのではないでしょうか。
ところが、最近では大人たちが「自分は子どもが理解できない」ということに気づきました。「でも、本来はわかってやらなければならない、でもできない。私は大人として情けない。自信がない。どうすればいいのか・・・」それが、子ども達にもストレートに伝わっているような気がします。
では、大人は「子どものことなんてわからない」でいいのでしょうか?
私は、「子どもの心はわかりにくい」ということを前提に、子どもと向き合う姿勢が大事なのだと思います。
子ども達は、決して大人を疎ましい存在のまま終らせるわけではないと思います。日常の様々な理不尽に出会うたび、疎ましいと思うことがあっても、その反面で、それ以上に「理解されたい」と思うのではないでしょうか。それは子どもに限ったことではなく、大人も同じ。人間の本能ではないでしょうか。ただ、その気持ちの表現の仕方が不器用な人を、世間では「子ども」と表現しているだけだと思います。
決して「大人>子ども」ではないのだということに、大人こそが立ち戻らなければならないのだと思います。