世間のニュースはこのところ、いじめ自殺の話題を連日、報じている。
けれど、実際に今回の、少年が自殺する事件があったのは、去年10月だ。

今、現実にいじめの問題で、苦しい思いでいる人たちにしてみれば
「誰かが死んで、裁判にでもならない限り、いじめは話題にさえならないのか?」
という風に、感じてしまうのではないだろうか。

実際、これまでにいじめが何度か大きな社会問題として取り上げられた時は、決まって誰かの
自殺がきっかけになっていると思う。

違うだろうか?

死を選んでしまう人が出る前に、何とかして救いの手を差し伸べる必要があるはずなのに、
実際には、誰かが死んでマスコミが騒ぎ立てはじめて、やっと事態が動く……の繰り返し。

そして、決まって聞かれるのは「まさか自殺するほど深刻だとは思わなかった」という言葉。

中学生の頃、自分もいじめに悩まされていた一人として思う。
報道を見れば見るほど、私の中学時代から、事情はほとんど何も変わっていない。

学校は事なかれ主義。担任は「いじめの中心は被害者。問題は被害者自身」といった感じ。
教育委員会は「実態については、聞いていないのでわからない」を繰り返す。警察は動かない。
(もちろん、良心的な教師や真剣に取り組む学校もあるのだろうが、今回の事情は違うようだ)

私の場合にも、まさに同じようなことが起きた。

首相は先日、テレビに出演して呼びかけた。いじめにあっている人の味方になってくれる
誰かは、必ずいる……という主旨だったと思う。

けれど、私はそんなに楽観的になれない。

いじめにあい、本来助けの手を差し伸べるべき人たちにも取り合ってもらえず、ひどい状態に
ある人に向かって、「必ず誰かが味方をしてくれる」なんて、とても言えない。
逆に、教師や学校、また親にも、救いを期待をしたら、かえって失望させられるかもしれない。

私に言えるのは、ただ耐えるのではなく、全力で逃げまくるべき時もある、ということだけだ。

いじめの被害にあって、心身ともにボロボロで疲れ果てているときには、正直、逃げることすら
おぼつかない。けれど、学校に行くのをやめる、遠くの親戚宅や別の学校に避難するといった
選択肢だってある。その際、親や教師に学校に行くよう、いじめる友達と付き合うように
言われても、断じて、断じて従ってはいけない。

自分の命の方が、絶対に重要なのだから。

とにかく、いじめの起きている場面からは離れて、身を守ること。ネット上のいじめの場合は、
ネットの利用をしばらく、きっぱりとやめること。

何たって、いじめ殺されてしまったら、究極の負けなのだ。遺書で相手をどんなに名指しで
呪ったところで、相手に与えられるダメージなんて、たかが知れている。

何よりも、生き延びること。

生きていさえすれば、きっといいことがある、なんてことは、私にはとても言えない。
死んでしまえば楽になる、と思っている人もいるだろう。
それは間違っている、とは、私には言えない。

けれど、もし本当はもっと生きたいのに、疲れてしまってとても無理だと思っているのなら
(死にたいと思いつめている人の多くは、そんな風にどこか心残りを感じているのではないか
と、私には思えるのだけれど)

もっと生きたいんだという、自分のその気持ちを信じて、全力で安全なところへ逃げて欲しい。
いじめへの対処を考えるのは、必ず、自分自身の心身の安全を確保してからにして欲しい。

もしも、関係者の誰にも取り合ってもらえず、警察にも被害届を受理してもらえないような
場合は、マスコミに訴えて世論を動かそうとする、くらいのことは考えてもいいと思う。

死んでから、どんなにニュース種になったところで、しかたがない。どうせなら、生き延びる
ために、暴力や違法行為以外なら、使える手段は何でもいいから使ってほしい。

私の場合、幸い、学校に行くのをしばらく止めた程度で、大多数の生徒のいじめ熱はさめた。
もちろん、仲間はずれ状態は続いたけれど、授業妨害や持ち物盗難に関しては禁止令が出た。

学校側は私の状態を「不登校」として問題児扱いし、ちゃんと登校するように説得された。
でも、学校で生徒(私を含む)が、安全に授業を受けられるようにする管理責任は、学校
側にある、という理由をあげて、親が教育委員会や学校、担任などの相手をしてくれた。
親までが学校側の言うことに従い、私に登校するよう促していたら、どうなっていたことか。

こんな文章をここに書いたところで、一体どれだけの人に届くのだろう?
けれども、今回、中学時代の自分の姿がことさらに思い出されて、書かずにはいられなかった。

(最後まで読んでくださった方、ありがとうございました)
いろいろあって、長らくお休みしていました。

休んでいる間に、たまたま機会があって、いわゆる「ブロガー」の女性たちと一緒に、街歩きを
したのだけど、これが何ともいえず、強烈に奇妙な感じのする経験だった。

少し説明が必要かもしれない。

「ブロガー」とは、本来「ブログを書く人」一般のことをさす言葉のように思われるのだけど
今どきの日本女性のあいだではこの言葉、ちょっと違った意味合いで使われているらしい。

例えば、ファッションの通販サイトでは、最近「ブロガー風」という売り文句をよく見かける。
当然、おしゃれで流行に敏感な人の好むようなスタイルですよ、という意味だと思う。
「ブロガー」という言葉は、どうやら、おしゃれで素敵なライフスタイルの伝道者、といった
ニュアンスで使われているようなのだ。

だから、人気ブログの書き手は、雑誌の「読者モデル」と同じように、女性たちの憧れの的と
してもてはやされ、多くの女性がこぞってカリスマブロガーを真似る、といった現象も起きて
いる。

これだけでも、地味なブログをひっそりと書いているだけの私などにとっては、奇妙きわまり
ない感じがする現象だ。けれど、別に有名人ではない一般主婦のブロガーさんと実際に街を
歩いてみて、いわゆる「ブロガー」に対する違和感は、もっと強くなった。

それが、どんな感じのするものだったか、というと……


ブロガーは、とにかく片時もスマホをいじるのを止めない。一緒に歩いて会話を交わしていて
も、常に意識の半分はスマホに向いているようで、Twitterのタイムラインから目を離さない。

ブロガーは、見つけたものは何でもスマホで撮影する。いい写真を撮ることが最優先で、目の前
にあるものを自分の目でじかにゆっくり観察して、楽しんだりはしない。食事も、まず料理を
ひとしきり写真に撮ってからでないと、食べられない。同行者はその間、待たなければ
いけない。まあ、こうした風潮は、ブロガーに限らないのかもしれないけれど。

ブロガーはお店に入るとしばしば、「ブログに載せていいですか?」という一言を口にする。
店側では、良い印象を与えるように書いてほしいという心理が働くのか、買い物をおまけして
くれたり、ちょっとした割引をしてくれたりすることが多い。ブロガーだと自称すれば、
一般人より「おトク」が味わえるわけだ。(う~ん、これってどうなんだろう?)


……とまあ、こんな具合だった。

あなたの印象はどうだろう。私はすっかり、今どきの「ブロガー」は、自分とは相容れない
不可思議な人種のような気がしてしまった。
子どもの頃から、地図が大好き。
世界地図から街の観光案内地図まで、どんなものでもくまなくながめて、長い時間楽しんでいられる。

怪我で長く寝込んでいたため、体力が落ちてしまい、いまだに横になって過ごす時間が長いのだけれど
地図をながめていると、いながらにして、いろいろなところへ出かけた気分になれる。

今は「月」にまつわる名前を見つけては、どんなところか空想して楽しんでいる。
ムーンストーン・レーン(月長石小路)や、ムーンライト・ベイ(月光湾)などなど。
どことなくファンタジーのような響きがあって、いつか行ってみたい気持ちをそそられる。

ウィリアム・サローヤンの小説『パパ・ユーアー・クレイジー』にも、ハーフムーン・ベイ(半月湾)
という地名に魅せられた男の子と、その父親が、オンボロ車ではるばるそこを訪ねるというエピソードが
あって、そのくだりを読むたびに、自分まで子どものようにわくわくした気持ちになってしまう。

地名に注目する以外にも、川の流れや鉄道路線をたどってみたり、通りに並ぶ店の名前を眺めたり、
観光名所の印があるところの説明を読んだりと、地図の愉しみかたは実にいろいろあって、飽きない。

自分があまりにも地図が大好きなので、地図なんてほとんど見ない、興味がない、という人もけっこう多く
いることが、何とも不意義でしかたがない……。
何でもないところで派手に転倒事故って、しばらくパソコンからも離れて寝込んでいました。
怪我は幸い、青あざだらけになって尾てい骨にちょっとヒビかも?という程度で済んだのだけれど
精神的にはかなり凹んでしまった。

そんな気分のところへ、最近ふと耳にして何となく気になったのが「根拠のない自信」という言葉。

Web検索してみると、スポーツ選手や脳科学者、起業家など、実にさまざまな人が
根拠のない自信を持つことの大切さについて語っているらしい。

面白いのは、どうやら根拠のない自信は、根拠のある自信より強い、ということ。

根拠のある自信は、根拠となるものが崩れた時にはなくなってしまうけれども、
そもそも根拠がなければそんな心配はない。
何の前提条件も必要としないし、誰でもいつでも持つことができる。

う~ん。

常になんとなく自分に確信が持てないでいる私としては、
そんな風にあっけらかんと根拠のない自信を持つことは、できそうにない。

けれど、魅力的な考え方ではある。

確かに、世の中を見回すと、根拠がどうこうなんて考えずに、自信を持ってものごとに取り組む人の
ほうが、より楽観的に、積極的に、大胆に生きられそうだ。

そもそも、自信に「根拠がある」なんて、単なる自分の思い込みにすぎないのかもしれないのだから
すべての自信は、もともと根拠なんてない、ただの感覚なのかもしれない。

もっとも、自信とは、文字通り自分を信じる力だとすると、
どんなものであれ自信を感じるためには、自己肯定感が必要な気もする……。

自信や自己肯定感。こうした感覚は、どうやって手に入れればいいのだろう?
雨の中でダンスを、というのは、
今朝テレビで見た、ベニシア・スタンリー・スミスさんの講演会での言葉。
逆境にあっても人生を楽しむ、というような意味合い。

そういえば、これにちょっと似た言葉、持っていたなあ、と思って探してみたら、
あった、あった。
何年も前に手に入れた、市販品のグリーティングカード。
(面白いデザインのものや、気のきいたフレーズの書かれたカードを見かけると、買い集めている)
白無地のカードに、丸っこい書体で、大ぶりの文字だけが並んでいる。

 
 雨の中を散歩しよう
 花の香りをかごう
 砂のお城を作ろう
 ピクニックをしよう
 もののしくみを知ろう
 おとぎ話をしてみよう
 魔法の言葉を言おう
 この世界を信じよう
                  -Bruce Williamson


(※英語で「魔法の言葉」といえば、「お願いします」「どうぞ」)

今のような、何とも言えず不安なことの多い世の中だからこそ、
雨の中を散歩し、人生のシンプルな喜びを大切にしながら
「世界を信じて」日々を生きることには、意味があるかもしれない。

好むと好まざるとにかかわらず、これが私たちの、たったひとつの世界なのだから。