運転免許を一度も持ったことがない。運転できるのは、自転車だけ。

手と足で別々のことをするだけでも難しいうえ、前を見ながら後ろや横にも注意を払う、なんて
想像しただけで無理。免許が欲しいと本気で思ったことすらない。

都市部に住んでいるときは、車なんて必要なかったからよかったけれど、
大人なら誰でも車を持っているのが当たり前な地方に住み始めて、はや十何年。
正直、生活に不自由している。夫がたびたび長期出張に出かけるようになってからは特に。

そうしたら去年、知り合いの娘さん(高校生)が原付免許をとって
「(自転車と違って)ものすごく便利になった!」と、感動のコメント。

う~ん。

車の免許はさすがに無理があるけど、自転車に乗れるんだから、原付なら……取れるかも。

周囲に相談してみると、それは取った方がいい、という意見ばかり。
行動半径を広げるいい機会だ、と誰もがいう。

そこで、先月テキストを買ってきて、おずおずと勉強をはじめてみた。

が、しかし。

誰もが「簡単だ」というわりに、ごちゃごちゃした交通規則を独習するのは、難しい。
知っているつもりでいた道路標識でさえ、見慣れないのがいろいろ登場して困惑するばかり。

中でも、難関は数字だ。私は数字に異常に弱くて、まるで覚えられないので、制限速度とか
交差点から何メートルだとか、文中に数字が出てくるたびに「げっ!」となる。

受験するだけでけっこう費用がかかるので、受けるなら合格しなければ!と思うのだけど
何度テキストを読み返しても、さっぱり頭に入ってくる気がしない。
昔から、丸暗記するのが苦手なだけはある……なんて、妙に感心している場合じゃない。
このままだと、今年中に本当に原付免許が取れるのかどうか、怪しくなってきた。

あああ、気分ばかり焦ってしまう。


これ、以前からちょっとした悩みの種だったのだけれど、
誰かと話をしている時、相手の人のパートナー(夫や妻など)を、何と呼べばいいのだろう?

うちでは、普段からお互いを「夫」[妻」と呼び合っている関係で
私の場合、夫を話題にするときもそのまま、「うちの夫」と言っている。
(なぜかと聞かれると困るけど、何となく「主人」や「ダンナさん」には違和感があるため)

けれど、当たり前ながら、他人様のパートナーを「夫」「妻」などと呼び捨てにするわけには
いかないし、かといって、「夫さん」「妻さん」というのは、日本語としてヘン。
「お連れ合い」というニュートラルな呼び方もあるにはあるけど、現実問題、普及していない。

相手が先に「うちのダンナさん」「奥さん」などと話題にしてくれれば
こちらも「ダンナさん(ダンナさま)」「奥さん(奥さま)」と、受けるようにしている。

問題は、相手が話題にせず、パートナーをどんな風に呼んでほしいと思っているか不明な場合。
事実婚や同性カップルなど、パートナーにもいろいろあるし、どう呼ぶべきかは実に悩ましい。

下の名前がわかっている時は、お名前に「さん」づけでごまかしている。ただし、日本語には
目上の人を名前で呼ぶのは失礼、という暗黙の了解があるので、改まった場面では使えない。

既婚女性と話をしていて、パートナーの苗字しかわからない場合、「ミスター○○」(苗字)
と、苦肉の呼び方をすることもある。

明らかにヘンだ。でも、他にどう呼んだらいいかわからない。

何か、これからの時代にふさわしい、いい言葉はないだろうか?
アイデアがあれば、教えてください。


余談になるけど、夫も実は悩んでいる。私(自分の妻)のことを話題にする時、何と呼べば
いいのかわからない、と言う。

彼的には、「うちの妻が」というのはどうも、しっくりこないらしい。なら周囲の男性が
どう呼んでいるのかを聞いてみると、たいてい「うちの奥さん」や「嫁さん」なのだそう。
昔は、「愚妻」などという言葉もあったのに、「さん」づけが当たり前のようになって
いるのか……。いまどきの男性は、女性の呼び方も優しいんだね。












9月1日の防災の日を前に、地域の防災訓練があり、夫婦でちょっとだけ参加してきた。
災害で連絡が取れなくなったら、訓練のあった避難場所で、落ち合う約束をしている。

結婚後すぐに阪神淡路大震災が起きて、身内が被災したこともあり、うちでは東日本大震災より
前から、災害にどう備えるか?その時どうするか?を、なるべく日常的に考えようとしている。

けれど、普段の生活で使うことのない、特別な防災グッズをたくさん揃えたりするのは、予算的
にもスペース的にも難しいし、賃貸なので棚を壁に固定したり、耐震工事したりもできない。

というわけで、うちでは、もっぱら普段使いの身近なものを、どれだけイザという時に活用
できるか?というアイデアや工夫を出し合うことで、ささやかな防災対策をしている、つもり。


<家の安全対策>
・窓には省エネ兼飛散防止のフィルムを貼り、カーテンは防炎の厚手のものにする。
・背の高い家具は置き場所に注意し、倒れてこない安全なスペースを、なるべく確保する。
・食器棚などガラス扉の棚は持たない。客用食器など、普段使わない物はダンボール保管。
・棚には全部カーテンをつける。(本やものの飛び出しを減らす。目隠しや日焼け防止効果も)
・寝場所のそばに、底のしっかりしたはきものを常備。頭位置の近くには家具を置かない。
・閉じ込め防止に、必要ない扉ははずして、カーテンにする。必要な扉は、普段は開けておく。
・どの部屋にも懐中電灯を常備。
・警察や救急の緊急番号と、自宅の住所や電話番号を書いたものを、電話の横に貼っておく。

<水の備蓄>
(事情により常にバスタブに水を張ってはおけないので、少しずつ工夫)
・毎晩、寝る時には枕もとに水の入った500mlペットボトルを置く。
・トイレタンクには洗浄剤などを入れず、定期的に掃除。(飲料水として使えるように)
・普段ときどき飲んでいるペットボトル(大)の飲料は、一種類3本くらいずつ常備。
・ポリタンクの他に、空のペットボトルを何本か水汲み用に常備。ホット用ボトルも便利。
・水やり用として、大きいペットボトルに水道水を入れたものを、常に1本部屋に置く。

<食料品の備蓄>
・お米の袋を新しく開けたら、次の袋を買う。すべての調味料類も同様。(鮮度は落ちるけど)
・冷凍庫に、いつも2つか3つは食パンを入れておく。
・スープや煮魚など、味付でそのままでも食べられる缶詰を、少し多めに常備。
・缶詰を買う時は、なるべく缶切りの要らないものを選ぶ。
・レトルトや冷凍食品、根菜類など、日持ちする食料は、普段から少し多めに常備。
・防災食品がわりに、チョコレート味のプロテインパウダーや砂糖の大袋を1つ余分に常備。

<その他>
・電池は気持ち多めに、トイレットペーパーやラップなどは予備の予備(笑)まで買っておく。
・ゴミ袋は水をためたり防寒具にもでき、用途が広いので、丈夫なものを選び、多めに常備。
・パソコンのバックアップにはオンラインストレージも利用して、データを複数カ所に保管。
・ポップアップテント、予備のバックパックやはきもの、飲料水用ポリタンク、毛布、着替え
 一式、タオルなどを、車に積んでおく。(普段のドライブやキャンプでも役に立つ)
・リアルな人間関係に加え、TwitterなどのSNSも利用して、地域の人となるべく交流する。
・住んでいる自治体の防災マニュアルは、常に最新版を手に入れておき、普段から読む。


……とまあ、こんな具合でまだまだ続く。1つ1つは実にこまごま、ちまちまとしたこと
ばかりだし、実際どこまで役に立つかもわからないけれど(災害というのは常に想定外の
ものなので、何の役にも立たないことがほとんどだろうけど)、それでも、日ごろから
こうすれば、ああすれば、どうだろう?とあれこれ考えをめぐらしながら暮らすのは、
まあ、まるっきり無駄なことでもないかもしれないな、と思っている。

8月6日の今日。広島の原爆投下から67年。

8月9日。長崎の原爆投下から67年。

8月15日。日本の敗戦から67年。
(終戦記念日という呼び方は、何となく事実をぼかしているような気がしてしまう)

ここまでは、半世紀以上も昔のことになったとはいえ、日本国内で直接経験されたことだけに
まだいくらか実感が残っているかもしれない。各地の空襲や、沖縄戦のことなんかもそうだ。
追悼式や記念式がおこなわれ、戦争関連の特集番組も放送される。

でも、毎年8月が来るたびに、ふと思わずにはいられない。
こうした戦争の記憶は、日本人が受けた被害のことばかりに、偏ってはいないだろうか?

たとえばシンガポールのラッフルズホテルのことはよく知られていても、そのすぐ目と鼻の先に
そびえる白い塔のことを知っている日本人は、いったいどれだけいるのだろうと思う。

$エイリアン@地球的異文化マサツな日々-日本占領時期死難人民記念碑

これは、「日本占領時期死難人民記念碑」(中国語名)という。

そもそも、シンガポールが日本軍に3年半占領されていて、昭南島と呼ばれていたことすら
戦後世代の人はほどんと知らないのではないか。そこでは華人(中国系人)の大規模な粛清も
行われた。犠牲者の数は(南京大虐殺と同じく)日本政府の認めている数と現地で言われている
数の間に、文字通り桁違いのへだたりがある。

どちらが正しいとか、間違っているとか、罪がより重いのはどちらかとか、
私は戦争責任を追求したいとかいうわけではないので、そこを問題にしたいとは思わない。
ただ、他の国々でも多くの一般市民が戦争に巻き込まれ、たくさんの人が辛く悲しい経験を
したことを、もっと、次世代の日本人に伝える努力をしてもいいような気がする。

戦争とは、いつの時代でも、どんな大義があろうと、理不尽で悲惨なものだと思うから。
私は、プレッシャーに弱いと思う。気持ちが揺れるよりも、身体の不調という形で感じるのだ。
精神的な重圧は、文字通り、身体にずしんと重しがのっかっているような感覚。

なぜ今、プレッシャーのことなんかを考えているかというと、オリンピック開幕秒読みのせい。
日本代表になった選手に「ぜひとも、活躍を期待しています!」なんて応援の言葉をかける
人々を見ていると、他人事ながら、何だか心配な気がして、ついつい思ってしまうのだ。

「ただでさえ緊張しているだろう人に、何もあんなに、プレッシャーかけなくても……」と。

もちろん、日本代表に選ばれるほどのスポーツ選手のメンタルは、私よりずっと強いだろう。
名門クラブ、マンチェスター・ユナイテッドに移籍した時の会見で、サッカー日本代表の
香川真司選手が、「プレッシャーを喜びに変えてプレーしたい」と語ったのは、
まだ記憶に新しい。

プレッシャーを抑えこんだり、プレッシャーから逃げようとしたりするのではなく、むしろ
プレッシャーがかかればかかるほど快いスリル(?)を感じ、いつも以上の実力を発揮できる
ような人こそ、ほんとうに超一流の選手なのだと言えるかもしれない。

それでも私は、応援という名でかけられるプレッシャーの重みは、何だか、選手の負担を
増やしてしまうことのほうが多いような気がして、しかたがない。

特に、「日本代表としてガンバレ!」とか、「日本の意地を見せてほしい!」とかいう、
日の丸の重みを背負わせるような発言が苦手だ。

選手自身が、日本を代表して競技することを誇りに思うのは、もちろん素晴らしい。
けれど選手に「日本代表としてがんばれ!」とハッパをかけるのは、何か違う気がする。

私はどうも、集団への帰属意識がひどくうすい。日本人、女性、既婚者、自閉系などなど、
種類はいろいろあると思うのだけれど、とにかく何であれ、自分と同じカテゴリに属する
人たちに対する仲間意識とか連帯感のようなものは、ほとんど感じられない。

そのせいか、オリンピックやワールドカップのようなイベントで、国の代表選手に対して
多くの人が抱くものらしい「同じ日本人としてがんばってほしい」とか「日本人として誇りに
思う」といった感覚、一種の感情移入だと思うけれど、それが何とも奇妙に見えてしまう。

応援したい選手はいるし、結果はどうあれ、その健闘をたたえたいと思っている。
けれど、国を背負うプレッシャーをかけたいとは、思わない。

誰かに言われるまでもなく、国の代表選手としての誇りやプレッシャーは、一人ひとりが
ひしひしと感じているに違いないのだから。