去年から、私のまわりでは病気やけが、入院や手術などが相次いでいて
長らく自分のブログからは遠ざかっていた。

生老病死についてしみじみ考えるようになって気分的に落ち込んだ、というわけではなく
あちこちの病院に行ったり、喪服を引っぱり出したり、ほとんど会うこともなかった
親族と顔を合わせたりという慣れないことが続き、自分の生活のペースも変化したので
それにどうにか適応するのに忙しく、SNSやブログにまで手が回らなくなっていた。

それに、身近に病気や死を経験して、自分の無力さを強く感じたということもある。
何というか、私には人を癒すことも、人の気持ちを察してうまく慰めることもできないし、
ゆきとどいた気配りができるわけでも、気の利いたことができるわけでもない。

……ほとんど何の役にも立たない。

ブログを書くのも同じようなことで、誰かを楽しませるとか、何かの役に立つとかって
内容でもなく(そもそもほとんど読まれてすらいないし)、とりたてて自分の気晴らしに
なっているわけでもない。SNSへの書き込みも似たり寄ったり。

じゃあ、別に続けなくてもいいんじゃない?と思ったので、止めてみることにした。

何ヶ月経っても、別に何の不都合も起きていない。

ただ最近になって、少し気になってきたことがある。
自分は本当に、このまま誰ともまったくかかわりを持たずに生活したいのだろうか?

ネット上では何かを発信しない限り、人との交流は生まれない。ブログやSNSに書き込む
内容にさほど意味はなくても、人とやり取りすること自体が目的だと思えば、それで
いいのかもしれない。

ご近所付き合いのために、たわいない世間話をするようなものだ。
それはそれで、ちゃんと意味がある。



そういうわけで、このブログも再開することになりました。
よろしくお願いします。

毎日が選挙の話題でもちきりのなか、昨日発売になった年末ジャンボ宝くじのニュースを見て
ふと思った。

選挙に投票するって、宝くじを買うことに似ている。
もちろん、投票はひとり一票しかできないところが、くじとは大きく違うんだけど……。

賞金額の大きいジャンボくじを買うのは、大政党へ投票することに
賞金額の小さいくじを買うのは、小政党へ投票することに似ていなくもない。

ジャンボくじなら、大当たり(=大きな変革や政策が実現)して人生が変わることもあるけれど
賞金額の小さいくじだと、当たってもあんまり生活に変化はない。
グループ買い(みんなで投票)すれば、当たる確率を高めることができるのも、似ている。

でも、一番似ている点は、せっかく期待して買っても「めったに当たらない」ってことだろう。
特に、大当たりする確率はものすごく低い。限りなくゼロに近い。

そう思うと、ため息しか出ないけれど
それでも、買わなければ決して当たらないのも、また、確かだから、

投票しよう。
インターネット上のソーシャルメディアで活発に発言をしている子役さんが脅迫され
警察も介入しているというニュース。あちこちのSNSで話題になり、何だかずいぶんと
熱い議論もかわされているようなので、どんな感じなのか、少し様子をのぞいてみた。

(以下、ずっと経緯を追いかけていたわけではないので、あくまでちょっと様子を見ての印象)

・「とてもしっかりしていて、子どもとは思えない」といった感想が目についた。

 けれど、子どもとメディアの関わりについてであれ、何であれ、自分なりの理想
 というか「こうあるべき」というものを持っていて、そのために世間のバッシングだの
 脅迫だの、面倒なことにも立ち向かう意思がある、それはまさにとても子どもらしい
 態度だと思う。子どもは大人の未完成品とは違う。驚くほどのエネルギーに満ち、実現の
 難しそうな夢でも信じる力をより多く持っているのは、子どもたちのほうだろう。

・この子役さんの事例をとりあげて、やはり子どもはソーシャルメディアに参加すべきで
 ないとか、参加を制限すべきだとか、いやご本人の主張どおり自由に参加させるべきだとか
 いった議論が、大人のあいだで巻き起こっているらしい。

 一つの事例にだけ注目して「だから子どもは」と話を一般化するのは、正当だろうか?
 この子役さんご本人のソーシャルメディアへの参加をどうすべきかは(というか、子ども
 に関する決まりごとは基本的にすべて)ご本人と保護者が話し合って決めるべきことで、
 第三者が寄ってたかって、かんかんがくがく議論するようなことではないはず。

私の考えでは、インターネットであれ何らかのメディアであれ、「子どもだから禁止」と
年齢でひとくくりにして(大人の思う)危険や汚染から遮断してしまうのは、どうかと思う。
子どもだって、現実社会の中で生きていることには変わりない。インターネットであれ
リアルであれ、社会には必ず、危険もあれば失望もあるし、善意もあれば悪意もある。

悪いものや危険なものから子どもを守りたいという感覚は、わからなくもないけれど……。
どうしたって、一生、守りきれるものではないのだし。

現実を見る目はやはり、子どもの頃から養っていく必要があるのではないかと思う。
なんてワクワクするお店だろう!

テレビの朝のニュースで紹介されていた、その本屋さんは、まさに"本好きの血が騒ぐ"ような
ところだった。何たって、店の奥には若者(30歳以下)だけが入れる特別な地下室、その名も
HAKKUTSUがある。そこは、大人から若い人たちに向けたさまざまなメッセージがついた古本を
暗がりの中、懐中電灯片手に、探検気分で「発掘」することができる場所なのだ。

う……うらやましい。30歳以下が本気でうらやましい!
何て魅惑的な設定だろう。

このお店のことをもっと知りたくなって、いそいでWeb検索してみた。

ツルハシブックス~ジブン発掘本屋
新潟県、内野駅の前の本屋さんだった。

テレビで紹介されていた地下室の、詳しいルールを読んでみる。

10代は100円均一
20代は200円均一
30代以上は入室禁止
発掘したら寄贈者へメッセージを書く
小中高生は、発掘して読み終わった本を別の本と交換できる

お店紹介のページには、店主ニシダタクジさんの「未来の種をまく本屋」と題された文章が
載せられ、お店のテーマが語られている。

「本を買うことも
 人と出会うことも
 大切な本を贈ることも
 ひとつひとつが未来への種まきです」(一節を抜粋して引用)

そういえば、もう長いこと、こういう「テーマのある本屋さん」を訪ねていないことに
気がついた。ポリシーをそのまま店名にした「ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト」
や、旅に関する古本と地図だけを集めた店。ミステリ専門店や、詩集と絵本の店……個性的
な店に足を踏み入れると、それこそ異世界を探検するような、ワクワクした気持ちになる。
本の選び方、見せ方、店内のしつらえといったものすべてを味わって、楽しめるのだ。

オンライン書店には何でもある。検索するのは便利だし、電子書籍は価格も安くて保管場所
もいらない。でも、私は本独特の匂い、手に持った時の重み、ページを繰る手触りといった
ものすべてが、たまらなく好きだ。オンラインで本をプレビューすることは、店頭に並ぶ
本の中から選びぬいて手にとり、ぱらぱら自由に繰ってみてわかる情報には、遠く及ばない。

紙の本は、実際のところほとんどが、インクで印刷された、ぱっと見淡々とした文字列の
ならぶページを、束ねてとじたものにすぎない。ところが、読むという行為が、そこに
化学反応を引き起こす。書き手と読み手の相互作用で、ひとつの世界がたちあらわれる。
本を読むという行為は、読むたびに生じるその世界を体験すること、そのものだと思う。

印刷された紙の束にすぎない本から、自分の内側に世界が生まれるという不思議。
そのギャップの面白さは、もともとバーチャルなものである電子書籍からは、あまり
伝わってこないような気がする。気のせいかもしれないが。

今の若い人たちに、メッセージのついた古本を地下室の暗がりで発掘してもらう、という
試みは、もしかしたら、重さや手触りをともなった、アナログな紙の本の持つ魅力を
若い世代に新たに発見してもらう、という意味でも、画期的なものかもしれない。

ツルハシブックスの地下室で、これからもたくさんの本が発掘されますように。
しばらく、ごぶさたしていました。けっこういろいろあって。

先月は、しばらく神戸に戻っていて、インターネット環境のないところで生活していた。
一人暮らしの夫の親族が入院して、家と飼い猫の面倒をみたり、入院の保証人になったり、
身のまわりのこまごました用事をしたりする人が、急きょ必要になったため。

私にとってはあまり知らない家の、あまり知らない人のことだし、私はこと人付き合いに
かけてはかなり難があるヤツなので、最初、「もしかして今回、私が行かなきゃ誰も行く人が
いないんじゃ……?」と思い至った時には、一瞬目の前が真っ暗になるくらいのパニックに
おそわれてしまった。

結局、たまたまシンガポールに行っていなくて、少しだけ仕事の日程に余裕があった夫と
二人で神戸に帰ることになった。(私一人では無理!というのは、夫の適切な判断だと思う)

おみやげ持参で、入院にあたってお世話になった人や、飼い猫を数日面倒みてくれていた近所の
人に挨拶してまわり、病院で医師にも挨拶し、入院の書類にサインし、毎日お見舞いに行っては
必要なものを届けたり、洗濯ものを持ち帰ったり。ちょうどお彼岸の頃でもあったので、夫の
家のお墓参りに行ってお墓の掃除をしたりもした。留守をあずかるだけとはいえ、けっこう
毎日あれやこれやと忙しかった。

そもそも初対面の人が苦手な私は、次々と知らない人に挨拶するはめになって、緊張と不安
でガチガチ。「顔、引きつってる!」と夫に言われる始末。

いつも神戸に帰るときには、数日ホテルに泊まるだけなのに、今回はよく知らない家にしばらく
滞在していたので、それも何だか変な感じだった。とても古い家なので、ホームセンターに
行って道具や材料を買い、二人で修理をしたりもした。

少し時間があると、気晴らしに海に行ったり、子どもの頃よく遊んだ公園を散歩したりした。

入院そのものは幸い短期間ですみ、元気になって退院する日に自宅まで送り届け、落ち着く
のを見届けてから、私たちも家に戻った。

もっとも、帰宅するまで何とか(普通の人、というか)地球人のフリをがんばっていた私は
翌日からどっと疲れが出てしまい、10日ほども寝込んだうえに、いまだ午後の微熱が続いて
いたりする。

自分がどんなに実用的な人間でないか、痛感するのはこういう時だ。
どうにかこうにか現実問題に対処したつもりでも、無理しているので後が大変なことになる。

夫の親族には高齢者が多いし、今後もこんなことはまた起きるだろうに、先が思いやられる
ばかりだ。今回だって、夫がもし仕事を休めなかったら、私一人でどうなっていたことか。

私は(動物を飼ったことがないのもあり)猫の餌やりひとつ、うまくできなかった。

それにしても、いまだに入院する時や部屋を借りる時に保証人が必要なのは、なぜだろう?
保証人の心当たりがない、家族のいない人は、どうやって生活すればいいのだろう?
自分だって、家族といえば夫くらいしかいない私は、何とも不安な気持ちになってしまった。