次々と桜の便りが入りはじめ、いかにも春らしくなってきた今日この頃。
それなのに、気分はどうにも上がらない。
買い物に行くたび、モノがぐんぐん値上がりしていることに否応なく気づくせいだ。

価格が変わっていない商品も、入っている個数・枚数・グラム数が微妙に減らされているし
パンや豆腐、ソーセージなどの中には、低価格な材料に切り替えられて味が変わったものもある。
値上げは、今年に入った頃からじわじわ進んできたけれど、今や大っぴらになっている。
惣菜コーナーの弁当には、本物の卵に代わって目玉焼きの形をした加工品が使われるようになった
(さすがにこれには驚いた)。

もちろん、値上げそれ自体は「悪いこと」でも「不当なこと」でもない。
長く続いたデフレの間、上げたくても上げられなかった価格が今、一気に動いているのだろうし
4月からの増税を前に、多少高い値を付けても今なら売れるという判断もあるのかもしれない。

ただ、いったん引き上げられた価格は、そうそう下がりはしないと思う。
4月からの数ヶ月は、需要の落ち込みを警戒して、さかんに値引きセールが行われそうだが
その先は、おそらく高くなった価格が定着していくだろう。

ニュースではさかんに、景気が良くなったと伝えているけれど
身近でそんな話はまったく聞かない。
給料アップどころか、諸手当の見直しで春からどれだけ収入が減るか、という話題で持ちきりだ。
地方では、学生の就職率も伸びていない。経済の先行きが明るいとは、とても思えない。

収入が増える見込みのないままの、増税そして物価高。

奇妙な焦りと圧迫感をひしひしと感じて、とてものんびりと春を楽しめるような気がしない。

とはいえ、社会の大きな変化に対して、個人が取れる有効な対策など、どう考えても、それほど
多くはない。気持ちだけ焦っても、しかたがないのだ。

それなら、どうしようもないことを思いわずらって時間を無駄にするより
花を楽しみ、心地よい気分で春を過ごすのが一番なのかも知れない。
ソチ・パラリンピックがいよいよ開幕。

TVの予告編が、一般の人には見慣れない(おそらく)不思議な装具と鍛えられた肉体が
躍動する!闘う!という、スピード感あふれるスタイリッシュな映像になっていて
とても良かった。

選手に対して「障害があるのにがんばっている」なんていう特別な思い入れは、いらないと思う。
全力でスポーツに打ち込む姿は、とてもカッコいい。それだけで十分だ。

そして、オリンピックの前にパラリンピックを開催すればいいのに、という意見には
全面的に賛成。

オリンピック前の、熱気を帯びた盛り上がりの中で、まずパラリンピックを先にすれば
パラリンピックへの関心も、もっと高まるに違いない。

パラリンピックから聖火を引き継いでのオリンピック開幕で、熱気は最高潮に達する……
世界的なスポーツの「お祭り」としては、最高の演出になると思う。

最近、片付けに関する本をいろいろと読んでいる。

子どもの頃から、いつも部屋にはさまざまなモノが出しっぱなしで、よく叱られていた。
今でも、相方がいないとすぐに、あれやこれやのモノが出しっぱなしになって広がってしまう。

別に、片付けが面倒くさいわけではない。すべてのモノにはちゃんと定位置が決まっている。
問題は、視界から消えてしまったモノは、意識の中からも消えてしまうこと。
なので、これから取り掛かるつもりのことを忘れないためには、それに使うモノを見えるところに
出しておくのが一番効果的、ということになる。

一人暮らしの時は、それで特に不都合はなかった。見た目に散らかっていて、足の踏み場もない
状態ではあったけれど、どこに何があるかは把握していたからだ。

ところが結婚すると、当然、相方は整然とした室内空間を望むわけで(ごちゃごちゃしていると
くつろげないそうだ)、共有スペースだけはどうにかスッキリした見た目を保つべく、日々
片付けに追われるようになった。今でもなかなか苦労している。

けれど、今研究しているのは、ちょっと違う種類の片付け。暮らしを小さくするための片付けだ。
要するに、モノを減らすこと。それに尽きる。
それを実行する方法を探している。

所有するモノを少なくすれば、住まいも小さく安くてすむ。買い物も減り、出費も少なくてすむ。
年金では暮らせない世代だし、アベノミクスで物価は上がっても、収入が増える気配など
まったくない。これからの人生後半は、もっと節約して小さく暮らさなければ、絶対に
まかなえない。家計担当の相方からそう言われているし、いくら数字にうとくても、それが
絶対必要なことは、私にもよくわかっている。

それなのに、それなのに。徹底したモノ減らしには、いまだ取り掛かれていない。

問題は、私はあれやこれやとモノを持っている状態が好きだ、ということだ。
「スッキリと何もない、シンプルな暮らしに憧れる」という相方と違って、モノがなくてがらんと
した状態を想像すると、もうそれだけで淋しくなってしまうから困る。

人が生きるのに必要なモノなど、ほとんど何もない。それはわかっている。
雑貨店のような「いろんなモノがあって楽しい」感じが好きなだけだ。
けれど今は否応なしに、暮らしを小さくしなければいけない時。

何年も前に手放したモノですら覚えていて、思い出しては懐かしんでしまう私にとって
共に暮らすモノたちと別れるのは、とても難しい。
誰が最初に東遊園地(という名前の公園。テーマパークではない)に「希望の灯り」を置こうと
提案したのか、誰が最初に、そこで行われる毎年の追悼式で1.17という形に並べた竹筒の
灯りを置こうと考えたのか、詳しい経緯を私は知らない。「阪神淡路大震災『1.17希望の灯り』
という名前の、認定NPO法人さんが行っている活動だということくらいしか知らない。

けれど、毎年、寒く暗い闇の中で行われる追悼式をテレビ越しに見ていると、この灯りのおかげで
奇妙に心が落ち着き、安らぐのを感じる。たくさんの痛ましい出来事や辛い光景をありありと
思い出す日ではあるけれど、ちらちら揺れながら光るあたたかな色の灯りを見ると、何となく
気持ちがなごむ。

もう一つ、折にふれては思い出し、ふっと心が安らぐものがある。

ある本で見た、焼け野原の写真だ。

神戸中心部の焼け跡の写真。第二次世界大戦中に空襲を受けてほとんどの建物がなくなり、
ガレキが広がっていた当時の写真。空襲とその前後の神戸は映画「少年H」で見事に描かれている。

昔の焼け跡の写真を思い出すと安らぎを感じるのは、理解しがたい感覚かもしれない。
写っている荒廃を見て安らぐわけでは、もちろんない。

そうではなく、私の知っている神戸は、ほんの50年ほど前、戦争によってこれほどまでに破壊
された街の跡に、再び人々が集まって作り上げた街なのだということに、写真は改めて気づかせて
くれた。そのことに、私はある種の慰めを見出したのだ。

神戸だろうとどこだろうと、人の営みは破壊と再生、繁栄と衰退を大きな時間の流れの中で
何度も何度も繰り返している。写真はそのことを、しっかりと実感させてくれた。

震災はあまりにも……大きく、唐突で、理不尽で、当たり前の日常を完膚なきまでに破壊した。
そのために私は、時間の流れがおかしくなったような感覚に陥っていた。来るはずだった明日が
来ず、時の流れが不自然に断ち切られたように感じていた。そんな時にこの写真を見て、
何というか、非常にすとんと腑に落ちたというか……納得した。

ああ、これも歴史の一部なんだ。
そう思えた。

時間の流れはおかしくなんかなっていない、大丈夫、明日はちゃんと来るのだと、また思える
ようになった。必ずしも望むような明日ではないかもしれない、昨日の続きの明日ではないかも
しれない、けれど、明日は必ずやって来るのだと。

そう思うと、いくらか安らげた。

この感覚は後にさまざまな大きな事件事故や災害のニュースに接した時も、そして東日本大震災で
世間に衝撃と不安が広がったに時も、常に私の支えとなり、可能な限り冷静さを保つのに役立って
くれている。
2013年はとにかく多事多難な一年だったので、やっと終わってくれることに、正直ホッとしている。

さまざまな予想外の出来事や病気や何やかやの連続に、かなり疲れ気味だったところへ
12月になると、友人知人からたくさんの喪中はがきが舞い込んできたので
何だかひどくしんみりしてしまい
(自分たち夫婦も、親を見送る年齢にさしかかっているのだなあと、しみじみ思い……)
クリスマスや正月を楽しく迎えるような気分になれないまま、どんどん日ばかり過ぎていった。

何も特別な準備や行事をしなくても、2014年は来るんだし。

ま、カレンダーを掛け替えるだけでもいいんじゃないか?と、本気で思っていたのだけれど
それでも、相方が仕事納めを終えて休みに入り、家周りの大掃除など大々的にやりはじめると
さすがに、自分だけぼーっとして、何もせずにいるわけにもいかない気がしはじめ
とにもかくにも、多少の身辺整理をして、三日かけておせちを作り
大晦日の夕食には(毎年するように)二人でそばを作って食べ
やっと、どうにか年越しらしい感じになった。

私は宗教を持たないので、おせち作り以外、取り立てて何の正月行事もしないのだけれど
相方は毎年、近所のお寺で除夜の鐘を撞かせてもらい、早朝に初詣に行く。
たいてい、私も一緒に行ってその様子を写真に撮っている。

そしてそれが、毎年作っているフォトアルバムの、最初のページになる。


2014年、あなたの開く最初のページは、どんなものだろう?
良い一年になりますように。