今日は8月6日、77年前に広島市に原子爆弾が投下された日。
私の祖父母は戦争世代を生きてきました。
実際に東京大空襲を経験した祖母と、満州からレイテ島へ向かう大連で終戦を迎えた祖父。
共に他界しましたが、祖父母からたまにぽつりと生の戦争体験を教えてもらいました。
話を聞くだけでも恐ろしい事実をよく孫に教えてくれたな、と今にして思います。
話したくなかった過去もきっとあった筈だろうに。
広島・長崎に原子爆弾が投下された時、情報統制が行われていたのか、戦時中の混乱で情報が届かなかったのか、当時を生きていた祖父母はしばらくその事実を知らなかったようです。
私自身は高校の修学旅行先が長崎だったので、被爆に関連する施設・語り部からの言葉を聞く・・という体験をしました。
が、怖さの方が勝り、あまり記憶には残っていません。
大人になって。
ひょんな事から広島を訪れる機会があり、教科書で見ていた「原爆ドーム」を生で見る経験をしました。
初めて見た時の衝撃が、今も頭の中に残っています。
一緒に歩いた友人から、とても平和資料館までは見れない・・という事で、当時人を探すために伝言板が書かれていたという袋町小学校を見学しました。
そこには、原爆で消えてしまった一枚の広島市の写真が飾られていました。
原爆ドームしか残っていない、町が壊滅した更地を見た時、その写真に呆然としました。
そのうち学芸員さんが袋町小学校の様子を色々と教えてくれました。
高学年の子供たちは疎開先に避難していた事。
学校では親元を離れられない低学年が残っていて、校庭で朝礼をしている時間に原爆が投下された事。
原爆で人が消えてしまい、疎開先に避難していた子供たちが一斉に孤児になってしまった事。
孤児になってしまった子供たちが広島駅で、食べ物もなく石ころを口に入れて亡くなっていた事。
また、人身売買の餌食になった子供もいた事。
学芸員の方は語り部2世、実際に体験したわけではないけれど、この話を後世に伝えるために仕事をしていると話されていました。
袋町小学校には、当時広島市以外から家族を探しにきた人たちの伝言が壁にびっしりと書かれていて、近年発見されたようです。
また、眼科医だった医師が袋町小学校を診療所にして、患者を治療していたとの事でした。
広島で軍医をしていた肥田舜太郎著書「広島の消えた日」を読んで訪れたのですが、実際に広島を経験した肥田先生の言葉は衝撃的でした。
広島に原爆が投下された後に、後遺症で苦しむ人たちの治療にも携わってきた肥田先生の著書は多数出版されています。
広島の平和記念公園には地球平和監視時計というものが展示されていました。
被爆体験の風化を防ぎ、繰り返される核実験をけん制する、という意図があるようです。
今現在でも世界に戦争が続いていて、核の脅威をちらつかせている国がある。
その事実にとても怖さを感じます。
焼野原から復興した広島市。
戦争で傷を負った心は風化しない、と語っていた祖父母。
それでも、どんなに辛い事があっても人間は生きていくんだという事実を教えられる1日になります。