佳き出会いのつながりの先に、また新しいつながりを確かにつなぐ
。
それは何も異国の地であるから生まれるものではなく、世界のどこであれ、日本のどこであれ、生まれるものだと思う。
「心がけ」一つで、人はどんなつながりの中にも自分を見出すことが出来る、私はそう思っています。
たとえば…
理系とは全く縁のない私。
大学も仕事も理系とは全く関係のない仕事。
文系人に囲まれていたせいか、理系の友人すらほぼゼロでしたから
。
いつかしら、さまざまな人と会うこと、交流することが自分にとって苦ではないことに気づきました。
そして掛け目なく、魂胆なく人と向き合うことで、世界が格段に広がっていくことに気づきました。
その方と時を同じくし席を前後したのは、数年前のことでした。
不思議な縁で知遇を得た大先輩が講義をつとめる特別講座に陪席させていただき、とある分野の祖であり開拓者である人物についてとても興味深い内容に、時の立つのがあっという間だったことを覚えています。
学会や、華やかな会合や、大きな講演会というわけでもない、通常の教育施設の小さな教室で学生相手に行われた特別講義でした。
世界的研究者であるその方は開始の直前に、周囲に気遣いをさせないように静かに席につかれ、講義が終わるとまた主役は講義をした人であるというかのように、また自らの存在感を示さないように静かに席を立たれていました。
あとあと伺ったところでは、その日の講義の開催にあたって配慮が行き届いていたかを至極気にかけていらしたとか。
百科辞典のように世の中のことを何でも知り尽くした気分になり、社会とつながっていることだけに命をかけて、あいつが気に喰わぬと怒ったり、人から無視されたといって気を滅入らせ、それでいて往生際が悪く、ここ一番という引き時になっても執着を捨てられない、そういった中で何かとつながったように錯覚している人たちには決して出てくることのない言葉と感情
。
この人とこうしていたら、こんな人と会えるかもしれない。
あの人にこうしておけば、あんなこともしてもらえるかもしれない。
・・・そんな計算やその場しのぎの魂胆から生まれるつながりも、新たなつながりもありません。
先日、有数の栄誉ある賞を受けられたとの報せを受け、そのときの記憶が鮮やかに甦ってきました。
「自分が何か偉いことをしたわけではない」
その発言を聞いて、これこそまさに取り繕うわけでも、喜びを悟られないようにするための言葉でもない、先生の心からの言葉だと思いました。
早速、お祝いを伝えるべく関係する方々に連絡を入れました。
その中で、講義の場に私を招いていただき、忘れえぬ瞬間と学びの機会を与えてくださった大先輩の言葉に、また心をとても動かされました。
自負をもって同じ分野に携わり、多くの業績を残して後進を育てていらしたその方のメールにはこうありました。
「心から誇らしく思います。」
・・・なんと美しい言葉でしょう
。
ただの祝意だけではなく、敬意に満ちたこれ以上の言葉を言える人間に自分はなれるだろうかと。
会うはずのない人々と会する機会に恵まれ、これほど美しい言葉に会することの出来ました。
ここから学ばずにいてバチがあたるというものです。
誇らしい気持ち、そういう言葉を自然に出せる、そんな人生を送っていかねば・・・。




