戦争は知らない / カルメン・マキ | 社会不適合オヤジⅡ

社会不適合オヤジⅡ

好奇心、いよいよ旺盛なもので・・・

ブログのお友達、るみ吉さんの「昭和を懐かしんで」に感化され、昨夜はザ・フォーク・クルセイダーズの歌を貼り付けました。

今夜も実は元歌はフォークル。

戦争は知らない、歌い手はカルメン・マキさんで。

 

曲に入る前の語り掛けはおそらくカルメン・マキさんのオリジナルなのでしょう。

 

私ごとながら実父は大正14年生まれ。昭和の元号がそのまま満年齢の生まれというわけです。

貧しくはなかったものの裕福ではなかった父の実家。おばさんにあたる人が戦争で息子さんを失い、父は養子となっておばさんの家に貰われていきました。

 

尋常高等小学校卒業後に近所の機屋(はたや)に丁稚奉公に出され、太平洋戦争が始まったときに16歳だった父のもとには召集令状が来ることになる。

出征時の写真を見たことがありますが、元々小柄だった父は童顔で、今の時代で見ると小学校6年生か中学生くらいに見える幼い姿だった。

ブカブカの陸軍の軍服に出征のたすきを掛け、無表情のまま写真に収まっていた。

 

大陸では射撃の腕前を買われて狙撃兵になり、帰国した次には南洋へと。けれど大海原の真ん中で輸送船が撃沈され、父は飲料水を詰めた樽が浮いているのを見つけ、それに掴まって真夏の海原を3日か4日のあいだ漂流。おかげで飲水は確保できたとか。

駆逐艦に拾われ実家に戻ったときには家も近所も大騒ぎ。

ところが母(祖母)は、潮に焼けてろくに食事もとれていなかった父を我が子だとは気が付かずに、自ら名乗ってようやく気がついたんだとか。

実家にはもちろん父の戦死の知らせが届いていて、仏壇には出征の写真とともに真新しい自分の位牌が飾ってある。それを見た父は「縁起でもねぇ!」と庭先に打ち捨てたとか。

 

私が中学から高校の頃、何故か戦争の頃の話になり、父からこんな体験談を聞いた。

「戦争なんぞ良い訳がない。映画やテレビの戦争など嘘っぱちの造りもんだ。昨日まで飯を一緒に食って風呂も入って肩組んで軍歌を歌っていた友が、ある時グラマンの機銃掃射で吹っ飛んだ。俺の隣で小銃で応戦していたけれど、俺のすぐ脇を嫌な音を立ててグラマンの機銃が駆け抜けた。突っ伏して、すこししてから顔を上げてみると、隣の友は肩口に銃弾を受けて首から上が吹っ飛んでなくなってた。全身が痙攣してちぎれた首からは血しぶきが辺り一面に飛び散ってた。ひでぇことをしやがる!ってこっちも小銃を取ってグラマンの操縦席(キャノピー)に狙いを付けて打ち込んだ。機銃掃射するときは思い切り低く飛ぶもんだから、操縦してるアメさんの顔まではっきり見えた。ゴーグル付けて飛行帽被っていたけれど、自分と大差ない少年のようなヤンキーだった。あいつが奴を撃ち殺したのかと復讐に血が沸き立って、何発か打ち込んだけど仇は打てなかった。あのとき俺は人を殺すことをなんのためらいもなく、もちろん国のためでもなく、ただ、やつの仇を討ちたくて気が違ったように銃を打った。戦争は人の気を狂わせる。戦争なんぞまっぴらだよ」

 

今夜の歌は戦争で父をなくした娘さんが、お嫁に行く時の心情を歌った歌。

「20年後の・・・」とあるように、昭和20年で終戦を迎えて、昭和40年にお嫁に行くという意味なのでしょう。

私は昭和33年の生まれ。考えてみると終戦からたかだか暦が一周りした頃に生まれたわけで、焼け跡さえ見た覚えはない世代ですが、八王子の駅前には偽物の傷痍軍人がおもらいをしていた光景は記憶にあります。東京オリンピックで海外の方が来るという理由で一掃されたと聞いていますが。

 

世界中相変わらず戦争がやまない令和の時代です。日本もキナ臭い空気が漂っています。

本当にもう二度と日本に戦争は起きないのでしょうか。