私がアレクサンダー・テクニークの指導を受けてきた中では「感覚的な評価はあてにならない」と言われてきました。「じゃあ、何をあてにするんだ?」と私自身も思ってきました。多くの生徒、教師がこれを言われて困惑しているのではないかと思います。
アレクサンダー・テクニーク教師のあきこさんも自身のブログでこれについて書いています。
http://ameblo.jp/akiko-atstudio/entry-11213775094.html
私の意見としては、「あいまいな感覚的評価があてにならない」というだけであって、「感覚的評価があてにならない」わけではないということです。これが明確になった後で、私自身がとてもラクになりました。感覚、感覚的評価もあてにできるようになったからです。その基準が明確になっていればこれらは使えるものです。単なる経験的な感覚&感覚的評価ではうまくいかない場合があり、それに頼っていると問題にいたってしまう可能性があると。
こうした見解を元に今はレッスンを行っているが、生徒さんの反応はとてもいい。全ての人に完璧に伝えることはできませんが、1回のレッスンで生徒さんがそれを自分自身で実践した結果、状態がラクになったという反応も得られます。
ウェブでは、「洗練させたアレクサンダー・テクニークレッスンで」と書いていますが、本当に洗練させています。単なる私だけの経験ではなく、多くの生徒さんとのセッション成果でこれがいえると思います。
以下は、アレクサンダー・テクニーク教師のバジルクリッツァーさんが自身のブログでこのテーマについて書いた後に、私とfacebook上で議論した内容です。私の意見もここに掲載されています。
アレクサンダー・テクニーク教師のバジルさんのブログより
「間違っているという感じ(7つの原理)」
http://basil-horn.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24
(以下facebookコメントでの議論 2011年12月。敬称略)
【青木】興味深く読ませてもらいました。音楽家としての感じ方がとてもわかりやすいね。最終的な結論として、「感覚が教えてくれる客観的な情報を頼りにする」ということは僕も同意見です。
で、だとしたら、「感覚的評価はあてにならない」という原理の表現は適確なんだろうかと思うんだよね。バジルさんの書いているような「感覚が教えてくれる客観的な情報を頼りにする」という方が原理というか、指針としていいのではないか、とね。
マージが「抑制」を使わなかったそうだけど、私たちもF.M.の言葉をさらに検証していかないとね。もちろん十分にF.M.の思いを考慮した上で。もっとも重要なことは、生徒がいかに効果的に自分の体の使い方に変化を与えられるかであって、いかにわかりやすくアレクサンダー・テクニークを理解するかではないのだし。
ちなみに私の基準は、呼吸と声です。これは二つとも客観的に自分の情報を得られるから。演奏家の場合はこれに音が加わります。時々鏡も使うけど、本番では使えないからね。
お互いに洗練させていこう。
【バジル】訳の語感の要素もあるとは思うけれど、私は逆に、ほんと最近になってこの「感覚的評価は当てにならない」というF.M.の言葉の選び方、ものすごく価値あるものだと思うようになりました。初めての人にはもちろん出さないけれど。「分かりやすい意味の透る日本語で伝える」っていうのは、一番大事にしているところでもありますしね。そのうえで、今回ブログの記事にしても、音楽やってる人は、驚くほどピンとくるみたいです。何より、ブログの記事はF.M.の言葉を2000字かけて「言い換えている」わけですしね。だから、言い方に工夫の余地はあるにしても、「当てにならない」という言い方は、かなり的確だと思います。文脈が十分であれば、言葉尻で自分を固くする(英語の人にとって「抑制」という言葉で起るように)言葉には案外ならず、文脈があればむしろ自由と可能性を示唆するものでもあると思います。文脈、前後関係、理解が揃っていれば「感覚は当てにならないんだよ」の一言が『おお~なるほど!』につながる力を持っていると思うんだよな、言い変えるより。.... なんか哲学対話みたいだね(笑)
【青木】バジルさんの考えはよくわかりました。教義論だから色々な見解があっていいはずで、こうやってお互いの理解が深まるわけだしね。
結論の部分に「ラクに吹ける=筋感覚を頼る」というのがあったけど、これは「感覚的評価はあてにならない」に矛盾していないかな。
【バジル】いえいえ、「筋感覚を頼る」とは書いてませんよ。「音が良くなった」ということも「ラクになった」ということも、前者は聴覚、後者は筋感覚ですが、ポジティブな変化があったことを知らせてくれている情報なんです。のりかずさん自身、声を指標にするとおっしゃっていますが、それは聴覚という感覚情報を使ってますよね。同じように、筋感覚も有用な感覚情報の一つです。だから、新たな身体の使い方が、音が良い/ラクという特徴があるとします。でも、「何か間違った感じ」もするとします。当てにならないのは、その後者の方です。それは「評価」だから。感覚は100%正確だけれど、そこから生み出す「評価」が当てにならないのです。感覚が当てにならないのではなく。だからブログでは、「感覚は当てにならない」の意味を、計4000字使って、改めて考え直しているわけです。だからアレクサンダーもちゃんと「感覚的評価は当てにならない」そして「感じは不正確」と言ってます。「感覚は不正確」とはたぶん言ってないはず。だから、主観的な感じ=感覚的評価=当てにしなくていい=変化・選択する自由がある、ということなんです。楽器演奏なら、せっかく音もよくなったし、ラクになったという信頼できてしかもポジティヴな感覚情報フィードバックがあるのに、「なんか間違っている感じ」に基づいて「ダメ」とか「間違っている」評価になってしまう。その評価あるいは正否の感じが当てにならない。すると、評価がせっくの自由や選択を狭めていますよね?だから、「感覚的評価は当てにならない」ってとても役立つアイデアだと思ってます。専門的にやる人にとってはね。そういうわけで、矛盾してません。たぶん問題は、いま訳語だと思う。
当てにならないのは「感覚」ではなく、体験した感覚に対してもつ「正否の感じ=評価」なんですよね。
【青木】「ラクに吹けた=筋感覚を判断材料にする」とブログにはかいてあるけど、これは「筋感覚を頼る」と言い換えてはいけないのかな。
まあ、そこはいいとして、「評価=正否の感じ」という条件がついた場合、つまり「感覚的正否の判断はあてにならない」とすれば、「ラクに吹けた=筋感覚を判断材料にする」という矛盾はなくなるね。ただ、一般的な意味としては「評価」という言葉は、「ラクか否か」も含まれると思う。だとすると、普通に読むと「感覚的評価はあてにならない」と表現してしまうと、「ラクかどうかの感覚もあてにならないのか」となってしまう。
それに「感覚的正否の判断はあてにならない」と言われても、やっぱりこれも「本当だろうか」と何か自分の考えとは違うように思いました。というのは、「感覚的に間違っている」という情報を得ることが役立つ場合があるから。
と、そんなことをここ数日、自分や自分の指導に色々あてはめて考えていたところ、考えが整理されてきた。今の私の考えだと、「感覚的評価はあてにならない」ではなく、「獏とした感覚的評価があてにならない」、または「あいまいな感覚的評価があてにならない」のではないだろうかと。または「基準のない正否の判断や、抽象的な感覚的評価があてにならない」と言い換えてもかまわない。
それで、多くの人は習慣的にこの「獏とした感覚的評価をしてしまっている」ので、だから「感覚的評価はあてにならない」状態であると。そもそも何を基準に「正しい」「間違っている」と感覚を評価しているのか、というと色々あるだろうが、一般的には「毎日そうやってやってきたから」というような基準で評価している場合も多いだろう。これには理性的な基準はない。
これを逆に言えば、正否の基準があったり、具体的な指示があれば「感覚的評価はあてになる」のではないかという説なんだけどね。感覚的評価に問題があるわけではなく、その評価の仕方に問題があると。
つまりは、今までは獏とした感覚的評価だったため、あてにならなかったが、レッスンで明確な基準ができたり、指示ができるようになることで、その感覚的評価(正否の判断)はあてになるようになると。
ここでいっていることは、バジルさんがブログで書いていることを否定しているわけではありません。むしろとてもよく音楽家の心理面がまとまっていると思う。ただ、教師が指導していくにあたって、どういう言葉やメッセージが適切なのかというのを考えたものです。「感覚的評価はあてにならない」という言葉は、つまり「今後、感覚的に正否を判断することはできないんだよ」という生徒の理解につながるメッセージで、極めて重いし、ネガティブな思考を生む可能性がある。逆に、私の仮説のようにとらえると、やや楽観的かもしれないが、「感覚的評価もできるんだ」と自分に信頼も生まれるかもしれない。
この辺りは私の全体の指導法と結びつく部分であって、この部分だけ取り出して説明しても抽象的すぎるかもしれないね。別の機会に自分の考えをまとめようと思う。今度、また意見を聞かせてよ。
【バジル】のりかずさん、やり取り面白かったですね。アレクサンダー自身の概念を、どれぐらい正確にかつネガティブな結果につながるような誤解を産むことなく、そして何より分かりやすく読んでいて面白い日本語で文章にできるかという取り組みを個人的にやっているわけですが、アレクサンダー本人がそれに成功したとは言えないだけあって、まーだまーだ開拓できますね。七つの原理について書くこと、これが二巡目のスタートだったんですが、スタートでディスカッションできて良かったです。去年に一巡目をやったから、これから一年か二年に一度新たに書き直せるとしたら夢が膨らむなあ。実は今回、書きながらきっと誰かから議論を持ちかけられる気がしてました(笑)実験的要素が強かったから。紀和さんで良かったです。というわけで、二巡目続きます(^-^)/
以上です。