We Fight Together, Right?
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

FIFA World Cup 2006 Review12

ブラジルは彼らのやるべき事をしかるべき態度で表現した。
そしてその事実は、非情だが全うな鉄槌となって日本を打ち砕いた。フットボールの歴史は厳然とした事実の積み重ねで出来上がっており、その壁は高く厚く揺るぎないものであることを我々は改めて思い知る事となった。
これは嘆くべき結果だろうか?

日本にとってのW杯が終了し、選手、監督が帰国し、世間は次期代表監督就任が決定的と報じられたイビチャ・オシム氏の事に注目が集まっている。時間は流れ過去は過ぎ去る。特に暗く痛い過去からはなるべく早く目をそらせたい。悪夢は早く忘れて希望ある未来をみんなが求めている。まるで教祖を失った妄信者のように。前向きな方向への視点転換と言えば聞こえはいいが、責任逃れと自己保身と馴れ合いと傷の舐め合いのような日本人の悪徳がにじみ出ているようでここ数日のサッカー報道は見る気がしない。

私はかねてよりオシム氏の代表監督就任を熱望していた。
なので現時点でのオシム氏の就任は決定的、本人も前向き、との報道を心から喜んでいるし、まだ日本に救いはあった、とホッと胸をなでおろしたい気持ちにもなっている。だが、ジーコを忘れ、オシムに飛びつく、その軽薄で慌ただしい感情の流れは、我ながら恐ろしいと思う。まだ我々はやるべきことを終えていない。

ジーコの4年間は一体なんであったのか?
成功なのか失敗なのか? 成功か失敗かを判断する為には、ジーコに課せられたミッションを明らかにし、検証しなくてはならない。が、ここで大きな疑問にぶつかる。ジーコジャパンのミッションとは何であったのだろうか? W杯で決勝ラウンドに進む事だろうか? もっと大きくベスト8、ないし4だろうか? そもそも日本サッカー協会はジーコに対し明確なノルマを課したのだろうか。協会が課したノルマは分からないが、間違いなくジーコジャパンは結果を残せなかったのだから、失敗と言っていいだろう。W杯の結果だけが全てではないが、今国内に蔓延している落胆を見れば、多くの人が大きな失望を抱いているのは間違いない。

ジーコがダメなら次はオシムに飛びつく。その思考回路は分からなくもないが、今大事なのはオシムの事ではなく、ジーコの4年間の総括のはずだ。この4年間で行った事、それにまつわる結果、とその過程。そして出来上がった現状と未来へのビジョン、それらを改めて検証することで現時点での日本サッカーの立場と目指すべき方向性が見えてくるのだろう。次期代表監督人事は、その検証の結果から導かれなくてはならないはずだ。

川淵三郎は辞任するべきだ。
川淵三郎は日本サッカー界でも最高の功労者である事は認める。氏の活躍無くしてはJリーグも、代表の盛り上がりも実現し得なかった。生まれたてでいつ崩壊してもおかしくなかったJリーグを、日本プロ野球のように企業の持ち物にではなく、地域に根ざしたクラブへと導き発展させた功績は何よりも賞賛されるべきだ。だが、功績さえあれば強権乱用が許されるわけでもない。功績があるから、何事も自分の思い通りにして言い訳ではない。日本代表、しいては日本サッカーは川淵三郎個人の所有物ではないのだから。ジーコ監督が就任するに至った経緯からして不明瞭な部分はあった。ジーコは世界的名選手と言えど監督の経験が無く、その実力は未知数だった。ジーコを冷徹にジャッジするはずの機関である技術委員会はなくなり、川淵三郎の独断でジーコの4年間は維持された。「自由と創造性」「黄金の中盤」など広告代理店発のキャッチフレーズが大量に作られ、本質ではなく上辺の議論ばかりが先行し、協会とメディアとスポンサーは経済的な関係性から緊張関係を無くし、誰もジーコ日本代表に対し批判的なコメントは発言できなくなった。
この4年間、日本サッカーをとりまく環境は確実に腐敗の一途をたどった。
その責任は、サッカー協会の長である川淵三郎にある。
ジーコの4年間を総括し、決算する為には、まずは旧体制の辞任が求められる。
日本サッカーが何かしらの変革を必要としているならば、表面的な人事ではなく、協会が変わらなくてはならない。でなければ、いくら有能な監督が就任しようが、今までと同じ繰り返しになる。同じ過ちは二度と繰り返してはならない。

日本サッカーは熱病だった。
ドーハでアジアの壁に阻まれ、日本は初めて全国的にサッカーを知った。そこから日本の熱病のようなサッカーフィーバーが始まる。97年初めてアジア予選を突破し98年フランス大会に参加した。ここでフィーバーはさらに大きな怪物に成長していく。予選免除、自国開催の2002年大会で怪物はより広く浅く浸透し、国全体が躁状態になった。この時代、日本サッカーには希望が溢れていた。中田英寿をはじめとする「新しい時代の担い手」がサッカーをリードし、日本の右肩上がりの成長を疑うものはいなかった。事実、若く将来性有望な選手たちが多く海外に渡り、来る2006年への期待を否が応でもかき立てた。そして、日本でも世界でも抜群の知名度と実績を誇る(あくまで選手として)ジーコが登場し、いよいよ日本サッカーは「見せ物」になっていく。それはドラマや劇のようなエンターテインメントとしての享楽だったと思う。日本サッカーはフィーバーの真っただ中にあったのだ。
そして今、06年ドイツW杯を終え、日本全体がある種の狂熱から醒めた。
日本サッカーが大きな期待を寄せた「黄金世代」を集めた「最強の代表」は世界の厚い壁に跳ね返され、その脆さを満点下に表した。言い逃れの出来ない現実が目の前に突き付けられ、何も出来ずに立ち尽くしているのが今の日本サッカーだ。ジーコは若手選手の育成を怠った。故に、現時点で次代の代表を担うべき選手がいないことに気づく。右肩上がりの成長が幻想であった事、そもそも日本サッカー自体がドーハからの引っ張り続けた熱病だったことに今更ながらに気づくのだ。

だが、この熱病は悪い事ではない。むしろ良い事だったと私は強く思う。
これも日本サッカーの歴史の証明だ。日本サッカーの歴史はまだ浅く、脆弱だ。歴史が無いのだから、辿るべき道など分かるはずも無い。成功にうかれ、失敗に愕然とする。その繰り返しこそが歴史を作り、時には熱病のような狂騒もある。誰もサッカー自体に見向きもしなかった不遇の時代もあったのだ。
大切なのは、夢から覚めた今この瞬間、我々がどういう態度をとるか、なのだ。

06年ドイツ大会は非情に有意義な大会になったと個人的には思っている。
第1戦オーストラリア、日本は真剣勝負での気持ちの大切さを学んだ。
一瞬のミスと精神的なほころびが生じれば、わずか6分間で3失点してしまうサッカーの恐ろしさ。オーストラリアにあって日本に足りなかったものが見えてくる。それは真剣さと熱意だろう。技術的なもの体格的なものだけではなく、ギリギリの勝負の場では「気持ちで絶対に負けてはいけない」ということを我々は目撃した。
第2戦クロアチア、この試合、日本はベストを尽くした。だが勝てなかった。
ベストを尽くしても勝てない事がある。それは現時点での力量の問題である。厳然たる事実として、日本代表のクオリティはクロアチアと対戦し、お粗末な試合内容で引き分けるのがやっとというレベルだった。過小でも過大でもなく、客観的な視点で日本代表の実力を目撃する事が出来た。
第3戦ブラジル、我々は世界のサッカーを知った。
サッカーではなく「フットボール」の歴史、偉大さ、素晴らしさ、恐ろしさ、全てが詰まった試合だった。ブラジルは彼らのやるべき事をしかるべき態度で表現し、日本に非情だが全うな立ち位置を示した。日本サッカーを覆う熱病を一瞬で醒ますほど、冷徹で無慈悲に。そして彼らのフットボールは素晴らしかった。今後何十年かかっても追いつけないと感じさせる程、世界最高峰の実力を見せつけた。

ドーハ以来続いていたある種の呪縛から、解き放たれたのだ。私はそう感じる。
日本サッカーは世界にジョインしようとはひた走ってきた。そしてようやくジョインできるであろうと期待したW杯で、恐ろしく厚く高い壁に跳ね返された。日本にはまだ底力が決定的に足りない。それは歴史から来るものだ。まだまだ経験が足りない。これからなのだ。

このW杯の結果は、熱病を醒まし現実を突き付ける。
フィーバーに浮かれる人々はサッカーへの興味を失うだろう。恐らく今後日本のサッカーをとりまく環境は弱体化、沈静化していくのではないか。これほどの現実を見せつけられ、多くの人々は失望した。今後新しく形成される日本代表は、選手の多くが入れ替わり、馴染みの薄い選手ばかりで構成される事になるだろう。CMでよく見かける選手は恐らく大半がいなくなる。フィーバーなファンは、その変貌を地味と受け取り、サッカーから距離を置いていく事が予想される。

それはそれでいい。
人々の出入り、調子のいい時は多くの人が群がり、悪くなると手の平を返す。それは人の世の常だ。
そういった事を繰り返す事で、歴史は作られる。この程度の事で没落してしまうようなら、そもそも始めから日本人にはサッカーが必要ない、ということだ。野球でもやってればいい。
この結果も日本サッカーが紡いでいく壮大な歴史の一ページでしかない。今第1章が終わったところだ。これから過去を検証し、未来に向けて新しい一歩を踏み出していく時なのだ。頭を垂れる必要は無い。これが今の日本の実力だ。熱病から醒めよう。冷静に現実を見つめる事で、対応策も見えてくる。一歩一歩できること、やるべきことを着実にこなしていくことこそが、最も有効で最も近道なのだ。そうした小さな一歩が積み重なり、物語になり、歴史へと成長する。
日本サッカーが熱病から醒め、現実へと回帰するこのタイミングに、イビチャ・オシムという世界で最も尊敬を受ける監督の一人に挙げられる人物が、日本に来てくれる事は最高の幸運であり、日本はまだまだサッカーの神に見捨てられていないと感じる。

イビチャ・オシムは魔法使いではなく、フットボールの歴史を深く知る人物の一人だ。オシム氏が就任すれば全て問題が解決するわけでも、日本サッカーがその日から劇的に強くなるわけではない。サッカーで強くなっていく為の有効な手段を良く知る人物でしかない。そしてそれは時間がかかる。一朝一夕で強くはならない。オシムをサポートしながら、辛抱強く、代表を見守り、愛し続ける事が大切だ。焦ってはいけない。世界のフットボールの歴史に敬意を持たなくてはならない。

そして、最も大切な事は、日本も世界のフットボールの歴史の一員である事を忘れない事。
浅いとはいえ、日本だって着実に実績を作り歴史を刻んできているのだ。そこは見失ってはいけないし、むしろ胸を張らなければならない。我々もサッカーとフットボールを愛する気持ちは変わらないのだから。
そう、歴史を作るのは私たちなのだ。
実際にサッカーをプレイする、しないではなく、愛する気持ちと敬意をもって、サッカーを見つめ続けていく事、それが我々のやるべき事だ。プレイヤーでなくてもサッカーを愛する事は出来る。ただ観戦するだけでも、十分サッカーへの貢献になるのだ。プロ選手だけではなく、むしろ市井の無名の人々一人一人の気持ちが最も大切なのだ。小さな気持ちが寄り添って大きくなって、そこから歴史は紡がれる。
ただが、W杯で結果が出なかったからといって、日本サッカーを諦めるわけが無い。
むしろ、世界の厚さを知った事で、より挑戦する気概が沸いてくるではないか。
いつか日本は世界のフットボールの歴史に強烈な足跡を残すだろう。それが4年後か、40年後かは分からない。しかし、いつであろうと、変わらずサッカーを愛し続けているだろう。青いユニフォームをまとい緑のピッチを駆ける我らが代表選手に、声の限りエールを送り続けるだろう。時に口汚いヤジを飛ばしながら。

我らがやるべき事、具体的な手段はJリーグだ。
自国のプロリーグこそが代表強化の最も真っ当で近道だ。W杯でサッカーに興味を持った人がいれば、次はJリーグを直接見に行ってほしい。少しでも多くの人が目撃する事により、少しずつだが確実にサッカーは盛り上がる。W杯は4年に1度。でもJリーグはほぼ1年中やっている。
W杯が終われば、Jリーグが再開する。
ひいきのチームの応援に声をからそう。握りこぶしを固め、頭を抱え、歓喜に飛び上がろう。
そうやって一つ一つ歴史を作っていこう。
愛する、日本のサッカーの為に。

FIFA World Cup 2006 Review11

FIFAランキング2位のチェコがグループリーグで姿を消した。
グループ最終戦、チェコ対イタリア、ポラクの退場により10人となったチェコは、先のガーナ戦と同様にアメリカ戦で見せた完成度の高いサッカーを再現できず、波に削られる砂の城のようにボロボロと崩れ落ちた。崩れ落ちるチームの中で、パヴェル・ネドヴェドは縦横無尽にピッチを駆け抜けた。時に最終ライン近くでディフェンスし、奪ったボールをドリブルで最前線まで持ち込んだ。倒されても倒しても、苦しい表情を見せる事無く、走り続けた。
決勝ラウンド進出には引き分け以上、ガーナの動向を考えれば勝利が求められる試合。だが、チェコの高次元のサッカーを実現する為のピースが欠けていた。ヤン・コレルの欠場はそのままチェコサッカーの崩壊を意味していた。2メートルを越える長身でありながらボールキープとテクニックにすぐれた巨人は、常に1トップの位置で味方からのフィードのくさび役として絶大な存在感を発揮していた。コレルがほんの2秒ボールをキープし味方にパスを出す事で、才能あふれる中盤が見事なハーモニーを描き出す、それがチェコサッカーの真骨頂だった。残念ながら、ガーナ戦のロクベンツも、イタリア戦のバロシュも、コレルの代役を務めるにはあまりにも荷が重たすぎた。
長年チェコを支えてきた30代中盤のベテラン選手たちにとって、恐らくこれが最初で最後のW杯だったろう。ネドヴェド、ガラセク、コレル、ポボルスキーら、素晴らしい才能の持ち主たちが結集したチェコの最期の輝き。今後ベテラン選手たちは代表から去り、ロシツキ、チェフ、バロシュら若手を中心とした新しいチームが築かれていく。
チェコとして初めて出場したW杯、多大な期待を寄せられながらも、その冒険はわずか3試合で終わってしまった。ただ一つ、黄金世代の選手たちが同じピッチ上に集結し、完成度の高い完璧なサッカーでアメリカを撃破した、その鮮烈な記憶だけを残して。

時間は流れ人は老い時代は変わる。
あの選手たちが集うチェコ代表はもう二度と見る事が出来ないだろう。
サッカーを愛する者として、ただ1試合だけでも、チェコの完璧なサッカーを目撃できた事は幸せだ。

FIFA World Cup 2006 Review10

結論を急ぎすぎていたのかもしれない。
今W杯で日本代表は躍進し、世界を驚かせる程の結果が出し得ると信じていた。
その根拠は昨年のコンフェデレーションズカップ。欧州王者のギリシャを相手に内容で圧倒する完璧な勝利をあげ、世界王者のブラジルと互角に戦えた事で、日本代表のレベルが以前に比べ遥かに向上していると思ったのだ。
それは誤りだったとは思っていない。
ジーコ以前の代表ならば、欧州、南米のビッグネームとは善戦すらあり得なかった。
ジーコジャパンには強豪と呼ばれるサッカー大国に堂々と挑めるだけのポテンシャルはあったと思いたい。
ただ、そのMAXの力を、最も発揮すべきW杯の舞台で披露する事が出来なかったのだ。

これは日本代表がまだまだ世界レベルのチームではないことの証明なのだと思う。
強いチームは、決して褒められた内容ではなくても、絶対勝利が求められる試合で確実に勝つ。コンディション不良や選手連携に問題があろうとも最低限の結果は出す。それが世界レベルのチームだ。それは一朝一夕でできあがったものではない。それこそ長い年月を経て、いくつもの研鑽と挫折と勝利と敗北を繰り返してようやく国全体に浸透してきた「共通概念」みたいなものだろう。
柳沢選手がミスを犯してしまったシュートがそれを物語っている。他国の選手ならあのシュートはまず外さない。日本はギリギリの場面、死と生が紙一重な場面での勝負強さがまだないのだろう。どんな形でも1点を決めれば勝って、敗れればすべてを失う。そういう経験がまだあまりにも薄い。ドーハの悲劇があるという。だが、あんなものは世界のサッカーの歴史の中では些末的な物でしかない。フランスだって94年大会の予選最終戦でロスタイムのゴールで敗れ本大会出場が叶わなかった。日本だけ特別な悲劇を経験したわけではない。

ポルトガルは40年ぶりの決勝トーナメント進出を決めた。
スイスは先日トーゴに勝ち、W杯12年ぶりの勝利をあげた。
オーストラリアもW杯本大会の出場は32年ぶりのことだった。

フットボールには長い歴史がある。
W杯に参加する32カ国、参加がかなわなかった多くの国、それぞれに歴史があり、長い時と多くの人々とともに今現在まで紡がれてきた。そのフットボールの歴史の中で、日本はまだ入り口に立ったばかりのレベルなのだろう。新参者でしかない。日本には大きなポテンシャルがあり、そのMAXパワーを出し切れば、よい結果が出せる可能性はあった。しかし、そのMAXパワーをW杯の舞台で発揮する事がとてつもなく難しい事なのだ。
ドーハがあり、Jリーグが出来、日本もフットボールの歴史を自らの手で紡ぎ始めた。歩みを止める事は無い。いつか日本もW杯の歴史に誰しもが注目する足跡を残す日が来るかもしれない。それが今なのか、4年後か、20年後になるか、それは分からない。

この試合に勝てば、生涯英雄として語り継がれる。だが逆に負けたら終わり。全てを失う。
そういった勝負を多く経験していく事でそのチーム、国のフットボールは成長していく。チームを救うゴールや栄光を勝ち取ったブレーが親から子へ、子から孫へ時代を超越して語り継がれ伝説へと育っていく。欧州や南米ではごく当たり前の光景だ。日本のフットボールにはそこまでの影響力がない。せいぜいサッカー好きがドーハの事を特別な記憶として脳裏に刻み付けている程度。多くの人はもうすでに忘れているか、そもそも興味を持っていない。

W杯は全世界的なイベントで多くの注目が集まる。テレビ視聴率は非常に高くなる。
多くの人がフットボールに触れる4年に一度の祭典だ。
普段フットボールに見向きもしない人々が口々にフットボールを語る。
そういったことは大切だと思う。2002年大会でファンが急増したように、W杯を機会にフットボールに興味を抱く人々が増えるのは喜ばしい事だ。ファン人口が増える事で、競技はより成熟し、「共通概念」はより広く浸透していくのだろう。
だが、そこには必要なものがあると思う。
それはフットボールと言う競技、W杯に対する敬意の気持ちだ。
フットボールもW杯も日本人のものではない。長い年月を経て刻まれてきた大いなる歴史だ。日本人が興味を持つ以前から、脈々と受け継がれ愛され大切にされてきた共通財産だと思う。それを昨日か今日初めてフットボールに触れた程度の人間にしたり顔で語られたくはない。
普段代表戦すら見る事が無く、当然Jリーグ等見向きもせず、世界各国のフットボールにも触れず、ただW杯の試合を数試合目にしただけで、何かを悟ったような気になってフットボールを語る事。これは非常に失礼な行為ではないだろうか。W杯に出場できる国、選手はみな素晴らしいのだ。日本だけでなく、出場国全てが主役であり、その舞台に立てる事はなによりも大きな名誉なのだ。フットボールの世界で日本はまだまだ新参者の立場で、チャレンジこそが目標なのだ。
そのことを忘れてはならないと思う。

明石家さんまの気持ちが今なら少しだが分かる気がする。
日本人がフットボールに熱中する遥か以前から、さんまはフットボールファンだった。多くのスーパープレーや歓喜、絶望を見てきたのだと思う。さんまに言わせれば、今のフットボールフィーバーがうさんくさくてたまらないのではないだろうか。フットボールの歴史に触れる事も敬意を抱く事も無く、ただミーハー根性で騒ぎ立ててはしゃいでいるだけだと。自分が大切にしてきたフットボールが、多くの無粋な手によって汚されていくのが心苦しいのではないだろうか。

フットボールの記憶は敬意とともに受け継がれる。
まだ日本にはその力が足りなかったのだと現実を受け入れる事が大切だ。
そして、同時に敬意を抱く事また大切なことだ。
急ぎすぎてはいけない。
敬意を伴わない勝利がどれだけ哀れなものか、韓国を見れば分かるだろう。

ブラジル相手に2点差以上で勝利する事。
それはフットボールの歴史への挑戦だ。
全世界の人々がおぼろげに持っているフットボールの「共通概念」を大きく逸脱している。
まず必要なのはブラジルと、ブラジルが象徴するものへの敬意、リスペクトの気持ちだ。
安易に「日本がブラジルの勝つ為にはどうすればいいか」などと語ってはいけない。
数字の上での可能性は残されている。だが、日本を過剰評価しブラジルを過小評価してはならない。

本大会でブラジルと対戦できる事は願っても無い名誉な事だ。
グループ突破、敗退は抜きにして、思う存分戦って欲しい。
出せる力を全て出し尽くして、悔いの無い試合をして欲しい。
日本が戦った2試合はフットボールとしてのレベルは非常に低かった。日本への評価は大変厳しいが、それもあの2試合を見る限り致し方ない。悔しいが、当該国以外の人々はさぞかし退屈な試合だったと思う。
せめて最終戦は、たとえ敗れたとしても、胸を張って帰国できる試合見せて欲しい。
この試合を目撃する全世界の人々に、「日本ここにあり!」と刻み付けるような試合を。

どんな結果に終わろうとも、日本代表の面々には拍手を送りたい。
思うような結果は出なかった。
だが、これこそがフットボールなのだ。
最終戦ブラジル戦。
オーストラリア戦、クロアチア戦以上のエールを心からを送ろう。
愛する、日本代表の為に。

FIFA World Cup 2006 Review09

一人の選手が欠けてしまっただけでここまでチームが崩壊してしまうとは思わなかった。
初戦のアメリカ戦で太ももを痛めたヤン・コレルの代わりに出場したヴラティスラフ・ロクヴェンツは、チェコの完成されたサッカーの中では明らかに力不足だった。不動の1トップ、コレルであればキープできるボールが全くキープできない。ガーナの執拗なマークにロクヴェンツは終始思うようなプレーをさせてもらえなかった。
決して弱くはないアメリカを子供扱いして3-0で圧勝したチェコの姿はそこにはなかった。
個人ならではの強いフィジカルとスピード、そして決して尽きないスタミナでガーナはチェコに圧迫を与え続けた。力関係的にはチェコの方が上なのだろうが、この試合に関してはプレッシャーを与えたのはガーナだった。コレルのいないチェコは本来の華麗なパスワークができない。前線でキープが出来ないから、中盤の組み立ても押し上げもできずに、あっさりとボールを奪われてしまう。
「もどかしい」という言葉がよくあてはまった試合だった。
チェコならば身体能力でゴリ押ししてくるガーナを手玉に取る事はたやすいはずだ。パワーでせまってくる相手をパスワークとテクニックであやして攻めるのがチェコのスタイルだ。しかし、ボールが落ち着かないことにはその技を出す事が出来ない。逆にガーナのプレッシャーをまともに受けてしまい、徐々に攻め手を失っていく。最大の武器とする高度なチーム連携が寸断され、個人能力による突破でしかチャンスが作れない。中盤の底からロシツキが幾度か猛烈なドリブルで突進したが、あと一歩、あと一歩でペナルティエリアまで行ける、というあたりでガーナDF3人に囲まれてしまった。
ガーナは強い。何が強いかといえば、個人個人が非常に優れた身体能力を持っている。パワー、スピード、キック力、まずアスリートとしての基本性能が高い。だから少々テクニックがなくてもゴリ押しで突破ができる。その上、中盤にはテクニックをも備えた選手がいる。エッシェン、アッピアー、ムンタリ、この3人はガーナ選手の中でもとりわけ輝いていた。この試合の中盤はロシツキ、ネドヴェドではなく、この3人が支配していたと言えるだろう。
非常に完成度の高いサッカーでアメリカを粉砕したチェコが、ガーナに2-0で敗れた。
アメリカとイタリアは引き分けに終わった。グループEは戦前の予想通り、いや予想以上の大混戦となった。まさに過酷な死のリーグ。得失点差の大きいアメリカは難しいとして、ガーナ、イタリア、チェコの3チームが決勝ラウンド進出をかけて争う。
チェコの次節の相手はイタリア。コレルを負傷で失い、さらに期待のFWミラン・バロシュも怪我で不在。もう一つ加えて最終戦はDFの要ウィファルシも出場停止。チェコに暗雲が立ち込めている。本気のイタリアと手負いの状態でぶつかり合い、しかも勝利を目指さなくてはならない。引き分けではガーナに逆転を許してしまうかもしれない。
チェコは常にその実力を高く評価されながらも、国際的な大舞台で結果を残せていない。もっとたくさんこのチームの試合を見たいと思うが、今の状況は非常に厳しい。コレルのいないチェコはその素晴らしいサッカーを存分に発揮することができない。ロクヴェンツでは荷が重たいことをガーナ戦で悲しい程露呈してしまった。
今回もアメリカ戦での鮮烈な記憶だけを残し、たった3試合で消えてしまうか。
真の死のグループ、その結果は神のみぞ知る。

FIFA World Cup 2006 Review08

基本的にイングランドの試合は面白くはない。
イングランドはサッカーの母国と、20世紀初頭まで世界をリードした大英帝国というイメージによって、常に洗練された印象をもたれがちだが、ことサッカーに関しては決して美しいというわけではない。イングランド(英国)ではフットボールは労働者階級の娯楽であり、元々洗練とはほど遠い。
イングランドのフットボールの基本はキックアンドラッシュ。少ない手数(足数?)と勢いでゴール前までボールを運ぶフィジカルとスピードに特化したサッカーだ。そこにはブラジルの魔術のようなボールテクニックも、ポルトガルのような華麗なパスワークも無い。勢いに乗った疾風怒濤の攻撃には迫力があるが、試合のリズム自体はいたって単調で一本調子だ。まるでイングランド名物のパンクロックのように。そのスタイルがうまくハマる相手ならば、それこそ爽快感溢れる暴力的なサッカーが見られるのだが、ひとたびディフェンスを固める相手に攻めあぐねると、どうしようもなく退屈で淡白な試合になってしまう。
初戦のパラグアイ戦に続いて、2戦目もイングランドは守備を固める相手に手こずる事になる。
スウェーデン相手に魂のこもった熱戦を演じ、見事に勝ち点1を獲得したトリニダード・トバゴは、この試合も前回と同様一体感のある守備でイングランドの猛攻を跳ね返し続けた。やる事は初戦と変わらない。一瞬たりとも集中力と緊張感を切らす事無く、チーム一丸となって体を張って守る。チャンスがあれば前線の選手でカウンターを仕掛ける。トリニダード・トバゴは相変わらず意思統一が行き渡った好チームだった。
試合の注目点は、必然的に殻に閉じこもったトリニダード・トバゴをイングランドがいかに攻略するか、となり。事実イングランドが一方的にボールを保持し攻撃を仕掛ける展開となった。そして、それはフットボールとしては大変面白くない事態だった。イングランドには華麗な攻撃方法はない。中央のFWをターゲットにした左右のクロスからの攻撃と、タフなMFによるミドルシュート。相手の意表をつき攪乱させるトリッキーなパスワークはない。だから、見ていて非常に退屈を味わう事になる。
トリニダード・トバゴの必死のディフェンスは見事だし、力関係を考えると仕方のない戦術だ。しかし、受け身を取り続けて攻撃をしない、引き分けでもよしとするそのスタイルでは、フットボールの喜びである「スリル」を感じる事が出来ない。イングランドが失点する可能性が無いからだ。イングランド、トリニダード・トバゴのいずれにも肩入れする事の無い純粋なフットボールファンとしては、少々辛い試合だったというのが素直な感想だ。
だが、見るべき点がなかった、というわけではない。むしろフットボールの残酷さと素晴らしさと醍醐味を十二分に味わわせてもらった。
それはデイビッド・ベッカムの右足と、ピーター・クラウチの長身だ。
イングランドのフットボールは決して美しくはない。単調な攻撃を幾度と繰り返すだけで創意工夫や瞬間のひらめきやマジックはない。だが、超絶の技術と身体能力で一瞬にしてゴールを奪ってしまった。
ベッカムのクロスは一体なんなのだろう?右サイドのやや浅い位置からのアーリークロス。ものすごいスピードでカーブを描きながらゴール前ファーサイドのクラウチの頭へ。クラウチは2メートル近い巨人だ。その巨人の頭の位置に寸分の狂いも無くピタリと照準があう。
絶対届かない高さからの(しかも至近距離)ヘディング。その頭にドンピタであう超絶のクロスボール。
トリニダード・トバゴは懸命に守っていたが、このクロスとヘディングは防ぎようが無い。
イングランドは終始単調な攻撃で観衆をイライラさせながらも、ベッカムの神業とクラウチの問答無用の長身で無理矢理1点を取った。トリニダード・トバゴのチームワークをあざ笑うかのように。圧倒的な個人技と身体能力でねじ伏せてしまった。たった2人のスーパープレイで11人で必死に守るトリニダード・トバゴは陥落した。
このゴールは美しかった。この試合は、ベッカムの最高精度のクロスを見る為だけにあった、と言っても過言ではない。前半終了間際にもベッカムからの最高のクロスを、ドフリーのクラウチがダイレクトボレーで明後日の方向に蹴ってしまったシーンがあった。ベッカムのクロスは一瞬で試合を決められる。イングランドのフットボールは正直つまらない。しかし、ベッカムが魅せる一瞬の切れ味、一瞬にして相手を切り裂きゴールを強奪するその誘導レーダー付き弾道ミサイルはイングランド以外では見る事が出来ない。
終了時間が迫る時間でのこの防ぎようの無い無慈悲なゴールでトリニダード・トバゴの懸命のディフェンスはついに綻びた。失点の失意が癒えぬ間にスティーブン・ジェラードがこれまた無慈悲で強烈無比なシュートを突き刺した。まさにとどめだった。
終わってみれば、トリニダード・トバゴの健闘むなしく2-0。イングランドが実力でトリニダード・トバゴのチームワークディフェンスを寄り切った。内容的には褒められたものではないが、もともとイングランドのスタイルはこういうものなのだから、完勝といっていいだろう。
イングランドは2試合で勝ち点6を獲得し、順当に決勝ラウンド進出を決めた。盤石といっていい。
イングランドはスター選手が集まった花形チームでファンは多い。しかし、実際その試合を目の当たりにすると意外につまらないと感じる事が多い。だが、イングランドに派手で華麗なプレーを求めてはいけない。華麗ではない、だが選手個々の圧倒的な能力で勝つ。その単調なスタイルこそがイングランドの真骨頂なのだ。

途中交替で骨折で出場が危ぶまれていたウェイン・ルーニーがピッチに戻ってきた。まだ病み上がりで十分なプレーは難しいかもしれないが、これは全世界のサッカーファンにとって喜ぶべきことだ。ルーニーはまだ若いが恐るべき才能の持ち主で、退屈で一本調子なイングランドスタイルに絶妙なアクセントを加える事が出来る希有な選手だ。彼が入る事で、イングランドの質は大きく変わる可能性がある。
ルーニーの復帰により、結果だけでなく内容でも人々を魅了できるサッカーができたなら、サッカーの母国がワールドカップを手にすることは決して夢ではない。

FIFA World Cup 2006 Review07

一つのプレーが試合に重大な意味を持つ事がある。
サッカーのおけるプレーは全て恐ろしく小さなデイテールの積み重ねの上に成り立っていて、そこには運も大きく関与してくる。完璧なシュートがゴールポストにはじかれることも当たり前にあるし、選手に当たってはじかれたボールがたまたま絶妙なパスになる事もある。その日の日照や湿気、ピッチのわずかな凹凸でボールの軌道が変わる事もある。サッカーの試合は偶然によって左右される事態が往々にしてあり、それがサッカーの醍醐味である「不確実性」を一層際立たせる。
スペインのビジャ選手の蹴ったフリーキックがウクライナDFに当たって軌道が変わった。ゴールキーパーはすでに動いており、瞬時の変わった軌道に反応する事は出来なかった。フリーキックが敵味方の選手当たって軌道が変わる事などサッカーでは当たり前だ。その後の軌道等読めるわけが無い。蹴った選手が巧かったとか、運が悪かった、としか言えない。
そして、その「運のないプレー」でワールドカップ初出場ウクライナの初戦は終わったと言っていい。

ウクライナにとって悪夢のような18分だったと思う。
コーナーキックからあっさり先制点を許すと、立て続けにフリーキックで2失点目。前半20分も経たないうちに強豪スペイン相手に2点のビハインド。これはあまりに酷なゲーム展開だ。
この時間までウクライナディフェンスはスペインに決定的に崩されたわけではなかった。選手のクオリティに差があるため、ゲームの主導権をスペインが握るのは容易に想像できた。終始スペインがボールをキープし攻撃を主導する展開になり、ウクライナはまずはしっかり守って、快速FWシェフチェンコを軸として数少ないカウンター攻撃を狙う、そんなゲームプランだったはずだ。
得点機はそう多くはない。だからまずは0-0でしのぐ事。これがウクライナの最大のミッション。スペインのアタックを防御する為に、ディフェンスの集中力は非常に高いものがあっただろう。絶対に破らせない、と。しかし、運命は過酷だった。流れの中でのディフェンスが意味をなさないセットプレーでのまさかの2失点。堅守速攻を狙うチームが先に失点をしてしまっては非常に苦しい。しかも2点。スペインはもう余裕を持って安全にゲームを運ぶだろう。当然カウンターの機会はより少なくなる。さらにスペインは各個人の能力が非常に高くボールを自在にキープできる相手だ。前半18分の段階で、ウクライナの運命は大方決まってしまった。
セットプレーは近代サッカーにおいて重要な意味を持つ。
例えば退場者が出て一人少ない状況ではオンプレーでの攻撃は非常に負担が大きくなる。が、セットプレーならばじっくり時間と人数をかけて攻める事が出来る。プレーの精度によっては即得点につながる可能性が高い。流れの中での攻撃、守備とは異なる局地戦になる。スペインはその局地戦を確実に得点につなげた。それがこの試合の全てだった。

あとはスペインの華麗なるサッカーショーの様相を呈した。
国際大会ごとに大きな期待を背負い、予選での戦いぶりから「無敵艦隊」との呼び声の高いスペイン。だが、一つにまとまる事の出来ない国柄を反映してか、チームはまとまりと底力に欠け、いつも大事な試合で苦杯をなめてきた。2002年大会では明らかな不正行為の犠牲となり、今大会ではさほど大きな注目を浴びてはいない。だが、そのスピーディでスリリングなサッカースタイルは決して衰えてはいなかった。
プレーの安定性こそ欠くが、素晴らしいポテンシャルを感じさせるフェルナンド・トーレスをはじめ、20歳のセルヒオ・ラモス、レジェス、イニエスタ、セスクといった、次から次へと登場する新しいヒーローたちは、これまでのスペインの不運を一気に払拭してしまうかもしれない。長年スペインを支え続けた至宝ラウール、スペインDFの象徴プジョルといったベテランと、若きエネルギーがこのまま高い次元で融合できれば、スペインの悲願も決して夢物語ではないだろう。

念願の初出場を果たしたウクライナにとって、あまりに厳しい初戦となってしまった。
この大会にかけるウクライナの意気込みは、この国がたどってきた過酷な歴史を顧みると、言語を絶する程強いものがあるだろう。既に世界的名声を手に入れているアンドリュー・シェフチェンコは、己の為ではなく、自分の足で歩き始めたばかりの母国を背負って戦っている。ウクライナの名を全世界に轟かせる為に。
初戦が全てではない。まだグループリーグは1試合が終わったばかりで、チュニジアとサウジアラビアとの対戦を残す。まだまだウクライナにとってグループ突破のチャンスは十二分にある。

拮抗した勝負が予想された欧州国対決は4-0という意外な結果に終わった。
それもまたサッカーと言う競技の醍醐味だ。
そしてこの結果はまだ1試合だけのものでしかない。
全てのグループで第1試合が終わり、2戦目に突入した。
ワールドカップの真の面白さ、恐ろしさはここから始まる。

FIFA World Cup 2006 Review06

イワン・ハシェックが好きだ。抱かれてもいいくらい好きだ。
Jリーグ黎明期、最強スター軍団だったヴェルディ川崎相手にハットトリックを達成した姿はまさに現人神。熱病のようなミーハー人気で狂騒した日本サッカー界で、彼は淡々と「世界の技」を披露し続けた。キラ星のようなスター選手たちにスポットライトが当たる中、チェコ・スロバキア代表元主将だったキャリアを持つイワン・ハシェクは地味な存在だった。実績と年齢を考えれば、当時日本に来たビッグネームの中でも全く遜色のない大物助っ人だったにもかかわらず、日本では認知度の低い東欧国出身、おまけにサンフレッチェ広島所属と、輪をかけて地味な扱いになってしまった。当時はサッカーバブルといわれる狂乱状態まっただ中で、サッカーを扱うバラエティテレビ番組もあった。その番組でジェフ市原に所属していたパヴェル選手は、「Jリーグで最も素晴らしい外人助っ人選手は?」との問いに、はっきりとイワン・ハシェックと答えていた。同郷のパヴェルにとって、自国代表のキャプテンを務めたハシェックの存在はとても大きなものだったのだろう。しかし、その番組の司会者は、パヴェルの答えに対し、返す言葉を用意していなかった。意表をつかれて何を言っていいのか分からなくなった司会者は適当に切り上げ、番組を進行させた。当時のJリーグでのハシェックの扱いはそんな程度だった。
ハシェックは間違いなくJリーグへやってきた外国人選手の中でもトップレベルの選手だった。少なくともサンフレッチェ広島では歴代最強は間違いないと確信している。小柄な体(身長170センチ)でありながら、何故かヘディングに異常に強く、安定した足腰の持ち主だった。チェコ代表ではディフェンスから中盤を担当し、フランスリーグ時代はストライカーをこなした無類のユーティリティさは、まさに万能選手の生きるお手本だった。サンフレッチェでは背番号6を背負い、FWとして大活躍した。選手として優れているだけでなく、弁護士の資格を有していることから分かる通り、非常に聡明な選手だった。
彼のプレーを見たいが為にスタジアムに通い、チケットが買えずスタジアムの通用口から無理矢理観戦した事もあった。その試合はベルマーレ平塚戦で、私がスタジアムについた矢先にハシェックは太ももの故障でピッチを後にし、サンフレッチェは1-6で大惨敗した。
チェコを語る際、話の出発点は常にハシェックから始まるのが私のクセだ。
それくらい、彼のインパクトは強烈で脳裏に刻み込まれている。

チェコ・スロバキアは東西冷戦中、いわゆる「東側」陣営だった。事実上ソ連の支配下に置かれた共産主義国家で、個人の思想や活動が厳しく制限されていた。プロサッカー選手の活動も当然制限下に置かれ、国外のチームに移籍する自由さえままならなかったという。国外に出るには一度「亡命」しなければならなかった。そんな時代の面影をハシェックの落ち着いた表情に見る事が出来た。彼はあまり笑わなかった。常に怒っているような気難しい表情をしている印象があった。決して気を許さない、厳格な人柄が垣間見えた。

そのハシェックがとある雑誌で現代表の中心選手であるパヴェル・ネドヴェドについて語っている記事を読んだ事がある。詳しい内容はあやふやなのだが、ハシェックはまだネドヴェドが少年の頃から知っていたらしい。ハシェックはチェコサッカー界の重要人物であり、世代育成にも携わっている。その経験から、次代を担う存在としてネドヴェドに注目し、アドバイスを与えてきた、と。
パヴェル・ネドヴェドは「新しいチェコ」、スロバキアと分離独立し、自由主義国家として新たな歴史を刻み始めたチェコの象徴なのだと思う。国内選手の先陣をきって国外のチーム(イタリアセリエAのラティオ)に移籍し、その存在を世界に発信した。その後の活躍はもはや言うまでもないだろう。

「ロボット」というあだ名に象徴される無尽蔵の運動量と、正確なキックと強烈なミドルシュートで世界トップレベルの実力を誇示し続けるネドヴェド。そして、世界一ボールテクニックのある2メートル、ヤン・コレル。独特のリズムで右サイドを駆け上がるドリブラー、カレル・ポボルスキー。才能あふれるチェコの選手たちの躍動がひときわ輝いたのが2000年に開催された欧州選手権だった。
ユーロ2000で、チェコは結果こそ伴わなかったものの、その完成度の高いサッカーで一躍注目を集めた。各個人の高い技術(パスとトラップの精度が抜群)と、チームとしての統率が素晴らしいバランスで組み合わさったチェコのサッカーは、敗れても称賛を浴びた。
2002年ワールドカップ出場は叶わなかったものの、再び訪れた2004年の欧州選手権で世界は再びチェコのサッカーを目撃した。そして、円熟した黄金世代と台頭する若い世代が見事に融合したその美しいサッカーに再び賛辞を贈った。

そして2006年。世界は再びチェコの為の賛辞の言葉を探している。
真っ先にその賛辞を受けるのはワールドカップ初戦で2得点を挙げたトマシュ・ロシツキー選手なのは間違いないだろう。繊細なテクニックと一瞬で得点機を演出するパス、軽快なスピードでチェコの攻撃を支える若き司令塔。その存在感と華麗さから人は彼を「モーツァルト」と呼ぶ。鍛錬によってのし上がったネドヴェドと対照的な、才能あふれる天才肌タイプの選手で、ロシツキーがボールを持った瞬間からスタジアムは劇場となる。彼の足の一振りは、文字通り指揮者となってピッチの上に壮大なシンフォニーを響かせる。拾ったルーズボールを一瞬でゴールに叩き込んだ目の覚めるような無回転ミドルシュート。ネドヴェドとの完璧なハーモニーパスからあっという間に抜け出して華麗に決めた2点目。まさにアーティストの名にふさわしいプレーだった。
チェコの強さは一言で言うと完成度。
トマシュ・ロシツキーの個人技に注目が集まるが、それが全てではない。チェコを見る時は特に中盤の選手の動き全体を見ると面白い。まずネドヴェドが神出鬼没だ。左右のポジションチェンジは当たり前。ある時はサイドを切り崩し、ある時はボランチでバランスを取る。ロシツキーは中盤の底でボールを散らすだけでなく、ゴール前に進出して危険なシュートを放ってくる。前線には2メートルの巨人コレルが待ち構える。右サイドはポボルスキーとグリゲラが虎視眈々と突破を狙っている。
各選手たちの持ち味と動きを選手全員が共有し、局面ごとにベストな位置関係を瞬時に把握し、常にバランスを保ちながら展開する。ポジション移動があってもチームは破綻しない。試合で何をするべきか、選手の意思統一と相互理解が高いレベルで実現でき、なおかつ選手全員が非常に優れたスキルを持っている。

チェコは間違いなく強い。
初戦で対戦したアメリカは決して弱いチームではない。むしろ強豪とすら言える実力を持っている好チームだ。高い身体能力を持ち、基本に忠実な戦術で、間違った事をしないアメリカのサッカースタイルは、一見地味だが合理的で破綻が少ない。アメリカは成熟した組織力と安定した戦術をベースに戦う非常に手強いチームだった。そのアメリカを全く寄せ付けず、美しい3ゴールで撃沈させたチェコは問答無用に強い。
選手層の薄さと、中心選手の高齢化、怪我人の続出等、不安要素は多々あるものの、チェコは今大会の台風の目として、いや主役として十分意戦える能力を持った素晴らしいチームだ。

チェコを支え続けた黄金世代にとって、今回が最初で最後のワールドカップになるだろう。このような素晴らしい選手たちが1度しかワールドカップを経験できていない事は非常に残念だし、その意味でヤン・コレルの負傷と、直前でメンバーから外れたシュミツェルの無念を思うと胸が痛む。

今大会、結果を出し、人々を感動させるチームは全て「チームとしての戦い」ができている。選手全員が一つにまとまり、集団として機能できているチームは見ているだけで美しく感動に値する。チェコはそこに選手個々の素晴らしい技術と高いモチベーションが加わる。これこそが世界最高峰のサッカーなのだ。ワールドカップだから見る事の出来る、なによりも代え難い素晴らしい瞬間がここにある。

2006年ワールドカップは人々の記憶に深く刻まれるだろう。
そしてその中には、ひときわ強く輝くチェコの姿があるだろう。

Don't Cry! FIFA World Cup 2006 Review05

まさに悪夢だった。
色々書き綴る事はできるだろう。言いたい事や叫び出したい事がたくさんある。
この日を4年間待ち続けた多くの人々をこの上なく失望させた最悪な試合だった。
何よりも「気持ち」で負けてしまった事が悔しくてたまらない。
フォーメーションや戦術論ではない。精神論の問題だ。
選手だけでなく、監督にも言える事だ。

ラッキーな形での得点ではあったが、日本は先制した。
前半を終えて0-1。勝機は十二分にあった。
だが、本来日本が行うべき、ボールをキープし、素早くパスをつなぎ、フィジカルで勝る相手を翻弄する、というパス・サッカーは何一つできていなかった。常にオーストラリアのプレッシャーを受け続け、次第に日本からは勝負を挑む積極的な気持ちが失われていった。
ターニングポイントは坪井の負傷交替だったと思う。
茂庭を投入する事で日本は「現状維持」を選択した。が、坪井を茂庭に変えた事で、ディフェンスは若干だが質を下げてしまった。これは茂庭が坪井に劣ると言う意味ではなくて、レギュラーと控えの差と考えて欲しい。茂庭を戦犯にする意図ではない。ただ、中澤が右に移り茂庭が左に入るという軌道修正が、ディフェンスに「不安感」を植え付けてしまったのではないか、ということだ。
日本は消極的だった。ディフェンスラインはオーストラリアのプレッシャーに押され、ズルズルと後退した。最終ラインから前線までが間延びし、日本が誇る中盤の選手の存在感がどんどん薄まっていく。さらに、熱暑の影響か、中盤から前線の運動量は見る間に減退した。幾度か掴んだカウンター攻撃のチャンスでも高原、柳沢は消極的だった。0-1の息詰る試合展開で、何よりも欲しかったのは追加点だ。もし2点目を上げる事が出来たならば、その時点で試合を決める事が出来ていたのに。

後半オーストラリアのヒディンク監督は立て続けに攻撃の選手を投入した。
フィジカルの強い選手を増やし、一層日本のディフェンスラインにプレッシャーをかけてきた。
チームとしてのフォーメーションや選手配置は崩れるが、目的ははっきりしていた。
「何としても得点を取る」
この目的でチームは一つにまとまり、戦術もより鮮明になった。
ボールを保持したら中盤を飛び越えるロングボールで素早く前線に送る。分かりやすいパワープレイだ。その分中盤と最終ラインは手薄になるが、それも全て覚悟の上で、リスクを承知で突っ込んできた。目的を明確にし、チーム一丸で共有し、リスク覚悟で勝負に出る。これぞサッカーの醍醐味だ。ヒディンクは2002年大会でも同様の選手起用で韓国チームのモチベーションを高めていた。ヒディンクや韓国サッカーについては様々な問題で尊敬するに値しないが、この選手掌握、戦術転換術に関しては一級品だと認めざるを得ない。

日本はこの時点でオーストラリアに敗れる必然があった。
0-1でリードしている状況。選手各人の運動量も減退。何よりもオーストラリアのプレッシャーを受け続け、精神的に疲労していた。そして、この状況をいかに乗り越えるか、日本にはチームとしてのビジョンが無かった。

もう1点とって試合を確定させるのか?  それとも虎の子の1点を守りきるのか?

後半の途中からピッチの上には選手が有機的に蠢き、オーストラリアの執念が渦巻くカオスになっていた。
もはやフォーメーションや選手配置は意味を成さない。
ここで試されるのは、どれだけチームが一つになって目的を達成できるか、という気持ちだ。
オーストラリアは迷う事無く、得点の為にバランスを捨てて果敢なアタックに出てきた。
しかし、日本はチームとしての方向性を見いだす事が出来ていなかった。
前線の選手はカウンターでの追加点を狙っていた。
ディフェンスは何としても点を入れさせまいとラインを下げゴール前に引きこもった。
日本はチームとして気持ちを一つにする事が出来なかった。

もしももう1点を取りにいくならば、ディフェンスは勇気を持ってラインを押し上げ、中盤を密にし、攻撃を仕掛けなくてはならなかった。
もしも1点を守りきるならば、恥も外聞も捨てて、フィールドプレイヤー全員でゴール前に引きこもってディフェンスに徹底するべきだった。
そのどちらともできず、日本は進むべき方向を見失ったまま、ついにオーストラリアのプレッシャーに陥落してしまった。

ここで二つ目のターニングポイントである。
同点に追いつかれた後、ジーコは何かしらの意思表示をし選手に伝えるべきだった。
同点のまま守りきるのか、再逆転を狙って攻撃に出るのか。
しかし、この場でも日本はチームとしての指針を示す事が出来なかった。
選手は恐らく頭が真っ白になってしまったのではないだろうか。後半39分の失点以後、明らかに「何か」が壊れた。文字通り決壊した。その後はオーストラリアの猛烈なプレッシャーを跳ね返す気力を完全に失い、なすがままのサンドバック。日本の気持ちはオーストラリアの執念の暴風に飲み込まれてしまった。帆を失ったヨットのように、荒れた海をただ翻弄されるだけだった。

日本サッカーの神髄、それは選手間の連携にある。
個々の力ではなく、集団の連携と、一瞬のスピードで、相手の意表をついて攻撃するサッカー。その根幹となるのはチームとしての完成度である。各人の考えや能力を元に綿密な連携を築き上げ、個人ではなく、常に集団で力を発揮させる事。1+1を5にも10にも科学反応させる事。中盤のタレントと日本人独特の素早さを活かしたポゼッションとパスを軸としたクリエイティブなサッカー。
その日本の利点が何一つ発揮できなかった。
ダイレクトパスは精度を欠き、ボールキープできず、ロングボールでフィジカルの弱さを徹底的に突かれた。
オーストラリアの執念の前に、日本が誇る連携はボロボロに打ち砕かれ、個対個の勝負で蹂躙された。
サッカーで最も大切な事、それはチームとして一つになること。
目的を共有し、選手全員が目的の為に個々の役割を全うする事。
オーストラリアに出来て、日本に出来なかった事、それが全てだ。
スウェーデン相手に大健闘したトリニダード・トバゴ、あの戦い方が日本にもできていれば、と残念に思う。

ジーコ監督にはビジョンが無い。
坪井が負傷した時点で中盤の選手を入れ、4バックに移行するチャレンジもあってよかったのではないか?そうすることで「攻撃する」意志を選手に伝え、今一度チームを立て直す選択肢もあってよかった。また、後半明らかに柳沢、中村、高原は消耗していた。早めに大黒ないし玉田などの裏をとるタイプのFWを入れカウンター狙いを特化させる選択肢もあった。
オーストラリアがハイボール&パワープレイに出てくる事は組み合わせが決まった半年前から分かっていた。終盤、もはやフォーメーションは壊れていたのだから、あえて稲本や巻などのフィジカルに優れた選手をディフェンスで使ってもよかったのではないだろうか。なぜあの場面で小野伸二を投入したのだろう。中盤でボールをキープしたかったらしいが、オーストラリアはすでに中盤を捨ててロングボールを放り込んでいた。小野がボランチに入り、中田ヒデを前に上げた時点でチームは死んだ。唯一対人勝負ができていたのは中盤で動いていた中田ヒデと福西だったからだ。
1秒ごとに変わる局面に柔軟に対応する能力に、ジーコは決定的に欠けていた。
どうしても1点を守りきるならば、福西も中田ヒデも最終ライン付近まで下がらせ、さらに稲本や遠藤を投入する等して、ゴール前をガッチガチに固めるべきだった。そういうスタイルのサッカーは醜い。しかし、どんなに醜くても勝ち点を獲得する為には手段は選ばなくてもよい。どんなに無様でも、一つにまとまって懸命にプレイする代表ならば、我々は最後まで絶対にエールを送り続けるのだから。

昨夜の試合、日本にとってフォローできる点が何一つないのが最も悔しい。
たとえ敗れても、日本が全力を出し切り、日本本来のサッカーを見せてくれたなら、少なくとも納得はできたはずだ。しかし、昨夜の代表は私の求めた姿ではなかった。メンタルの脆弱さをモロに露呈してしまった。プレイは消極的で勝負を恐れていた。ディフェンスはラインを下げ、FWはシュートを打てず、サイドは緊張からかクロスの精度を欠いた。気持ちで負けてしまった。それが何よりも悔しい。

日本の先制点は誤審だった、と試合後審判がオーストラリア選手に言ったらしい。
本来ならばファールで、得点にすべきではなかった、と。あのミスジャッジが試合を決定づけなくてよかった、と。この記事を見て、目の前が真っ赤になるほどの屈辱と怒りを感じた。
たしかにあの得点はファールをとられてもおかしくはないプレーだった。審判は自らのミスに帳尻をあわせるためか、その後のジャッジはオーストラリア有利に傾いた。ペナルティエリアで駒野が倒されたプレーは間違いなくPKの判定が下されておかしくなかった。オーストラリアのCKのこぼれ球をクリアしようした中澤が真後ろから悪質なスライディングを受けたが、オーストラリアに警告は出なかった。
あの1点が審判個人の力量で生まれ、その後の試合全般に影響を及ぼしたのは非常に残念だ。
それだけでも重大だが、最も憤りを感じたのは、それを試合後にオーストラリア陣営に対し話している事だ。
これは明らかにフェアではない。
ジャッジミスがあったのなら、審判は口にするべきではないし、口にするならばメディアの前で公平に表明するべきだ。オーストラリアだけに耳打ちするように話のは公平なジャッジとしてふさわしい行為ではない。明らかに一方に肩入れしている行為ではないか。

まさに泣きっ面に蜂のような後追いコメントではあるが、何はともあれ日本は1得点を上げた。
この1点が後になって重大な意味を持つかもしれない。
アンフェアな行為をとった審判を見返す意味でも、重要なのはこれから日本がどうでるか、ということだ。

確定した結果に対し、アレコレ言っても仕方が無い。
まだ終わったわけではないのだ。
良い意味でも悪い意味でも開き直るしか無い。何もかも忘れて次の試合に集中するのみだ。
勝つ事だ。勝つ事によって道は開く。
この結果に対し、心中穏やかでない人が多いと思う。想像するにあまりある。
ジーコ監督就任以降、最も内容も結果も悪い試合だったから、落胆はあまりにも大きい。
だが、ここで頭を垂れてはいけない。
安易に絶望に飲み込まれてはいけない。
安易に代表や自分たちを卑下してはならない。
代表を罵倒し、ニヒリズムを気取る事は、実はとても簡単だ。
しかし今求められるのはそういう姿勢じゃない。

今の代表には力がある。
それは間違いないと確信している。
その力を最大限に出す事が出来るか否か。
今こそ日本の力が試されている。
それは選手だけでなく監督、スタッフ、そしてサポーターもだ。
ここで終わってしまうのか、再び立ち上がり、希望をつなぐのか。

次のクロアチア戦、恐らく4バックで来るのではないか、と想像している。
初戦3バックで勝ち点を取れず、2戦目以降4バックで戦った昨年のコンフェデ杯と同じ構図だ。センターバックの宮本と茂庭が警告をもらってしまったことも影響するのではないか。もともとジーコは4バックを想定して23人を選んでいるし、日本が衝撃的な試合をした時は常に4バックだった。私も4バックの日本代表の方がより攻撃的で好きだ。

昨夜の試合、満足したものは誰もいない。選手は当然だろうが、我々サポーターも大きく失望した。
しかし、私は、いや、私だけでなく、4年間この時を待ち続けていた多くのサポーターは、どんな結果になろうとも日本代表を愛し、サポートし続けるだろう。
落ち込むのは今日まで。明日から次に向かって気持ちを高めていかなくてはならない。
まだ終わっていない。
むしろ世界を驚かせる衝撃の物語はここから始まるのだ。

18日のクロアチア戦、昨夜以上のエールを代表に送ろう。
愛する、日本代表のために。

FIFA World Cup 2006 Review04

いまだにイランを「アジア」にカテゴライズするのは抵抗がある。
イランはアジアじゃねぇだろう、と。ありゃ中東だ。アジアよりもヨーロッパに近いだろう、と。
特にテレビ朝日が「アジア」を連呼すると不快感が募る。
だが、そういうことはとりあえず置いといて、同じアジア予選を戦い合った戦友として、イラン対メキシコの試合をイランサイドの気持ちで観戦する事にした。

試合前から奇妙な違和感というか意味不明さを感じていた。
イラン対メキシコ。まるで異種格闘技戦のような趣だ。柔道対ボクシングのような。
決して巡り会う事の無い両者が、ぶつかり合ってしまったような、先行きの見えない感覚。
どちらが勝つのか、まるで予想がつかない。地力的にはメキシコ有利なのだろうが、攻撃のタレントと強いフィジカル、なによりも勝負への熱い気持ちを持ったイランの手強さは、何度も対戦した日本が一番良く知っている。
そう、何度も何度も日本はイランに苦しめられてきた。まさにアジア最高の好敵手。さらにイランはアメリカと緊張関係にあるが、日本とは古くからの友好国だ。イランでの日本の評価は好意的で高いものがある。そういった関係性を見る限り、どうしてもイラン側にひいき目を持ってしまうのは仕方がなかった。

だが、蓋を開けてみれば、イランはメキシコのしたたかな戦術につかまってしまった。
メキシコとイランの決定的な違い、それは経験値だったと思う。
イランはアジア圏内での実績は抜群だが、世界経験があまりにも少ない。
一方メキシコは、一見地味ながらも世界戦において常に安定した実績を残し、FIFAランキングでは4位にまで登り詰めた強豪国である。今大会ではシード国なのだ。この差が如実に、残酷な程露呈した試合となった。

メキシコの特性は「巧さ」だ。巧くて、小憎たらしい程落ち着いている。
これが実績から来る自信、底力、地力といわれるものだろう。老獪にして試合巧者。
まず個人個人が非常に「巧い」。トラップとボールテクニックは特筆すべきものがある。
ボールを安定して扱える技術があるから、イランがボールを取りにきても慌てない。悠々とキープして、敵を引きつけて味方に易々とパスを通す。DFの最終ラインですら、危なっかしい程余裕を持ってボールを扱う。バルセロナのマルケスなんて、表情一つ変える事無く、イラン選手を子供扱いしているようだった。
イラン選手が2人プレスに来ていても、その2人の真ん中にドリブルで平気で突っ込んでいく。でも奪われない。しばしもみ合いになった末、近くの味方にパスを送る。メキシコは玉際の勝負が抜群に強く、安定していた。全選手がそれを分かっていて自信を持っているから、躊躇無く勝負を仕掛けてくる。
前半はそれでも五分五分の試合展開だったが、後半になると露骨に差が現れ始める。
メキシコのもう一つの強さは変わらない運動量だ。
前線の選手がイランDFにプレスをかけまくる。センターライン付近にも3人くらいのメキシコ選手がいて、イランを休ませない。常にボールを持つ選手にプレッシャーを与え続ける。メキシコの変わらない、ぶれないサッカースタイルがジリジリとイランを圧迫し始める。我慢比べだ。水の入った洗面器に顔をつけて、堪えきれなくなった方が負け、そんな息苦しいような攻防。余裕をもってイランにプレッシャーをかけ続けるメキシコに、イランはついに屈してしまった。

イランの2失点目はまさに絵に書いたような「プレッシャーに負けた」ミスだった。
ゴールキーパーのミスキックをあっという間に得点にしてしまった。
そして、意気消沈するイランにとどめを刺すべく、激しくアタックに動くメキシコ。交替出場で入ったジーニャがいつの間にかオーバーラップしてきた右サイドの選手とワンツーパス。パスを受けた右サイドが見事なクロスを折り返し、ゴール前に走り込んだジーニャが見事なヘディングシュートを叩き込んだ。

常にメキシコの執拗なプレッシャーを受け続けたイランは後半完全に動きが止まった。メキシコは試合開始前に描いたゲームプランそのまま、と言った印象で当たり前に順当に勝ち点3を手に入れた。メキシコの運動量は試合終了のホイッスルまで衰える事は無かった。
アジア勢一番手で登場したイランは、負けるべくして完敗した。

一見地味なメキシコがイランに突き付けたのは「世界の壁」。
イラン程のポテンシャルを持つ強豪でも、世界の舞台では子供扱いされてしまうのだ。メキシコは十分世界の強豪と呼ぶにふさわしい好チームだった。体格的に欧州、アフリカ系に劣るものの、堅実なテクニックと豊富な運動量に特化すれば、十分世界で存在感を発揮できることを証明する良いチームだ。
長年言われ続ける事だが、日本代表も見習う点が大いにあるだろう。
まぁ、日本代表が目指すべきなのは、メキシコ型にさらにブラジルエッセンスを加味した独自スタイルだが。

アジア一番手で期待されたイランはメキシコの老獪なサッカーの前に敗れ去った。
今大会、アジア勢の勝利一番手は我が日本代表に託された。
イランよ、仇は取ってやる。

FIFA World Cup 2006 Review03

デニス・ベルカンプが大好きだ。
まるで磁石でも使っているかのような、どんな体勢でも足下にピタリと吸い付くトラップとボールコントロール。スローで見てもどこで蹴っているのか分からないシュートやパス。テクニックとはこういう事をいうのだ、ベルカンプがボールを持つたびに、それだけで私は夢中になった。がっちりとした強固な肉体に精悍なマスク、ちょいと薄くなった頭髪。洗練されたテクニシャンでありながら、その風貌はアーティストというよりもウォーリアーと言った方がしっくりくる。そのくせ大の飛行機嫌いで飛行機を使った遠征には帯同しないポリシーも面白かった。
美しく攻撃的なサッカースタイルで全世界を魅了するオレンジ軍団オランダ。その数多のスター選手の中でもとりわけ美しいテクニックを誇ったデニス・ベルカンプ。私のオレンジ軍団への信仰は彼に捧げられたものだった。
ファンバステン監督が作り上げた新しいオレンジ軍団には、圧倒的なテクニックで「マジック」を披露するベルカンプのような選手はいない。オランダ伝統の4-3-3のセンターFWには、ベルカンプよりももっと得点能力に特化したファン・ニステルローイが君臨する。そして、オランダの象徴たるこの3トップ攻撃スタイルを最も体現する選手が、左サイドにいる。
アリエン・ロッベン。彼のプレースタイルはまさに「ありえん」。
オランダはどの年代の代表でも一貫して4-3-3を採用し、徹底的に鍛える。その結果、いつの時代でも優秀なウィングアタッカーが登場する。私がベルカンプの次に惚れ込んだのは、右サイドを猛烈なスピードで突進したオーフェルマルスだった。オランダに息づくウィングアタックの美学。それを今の時代に受け継ぐ男、それがロッベンだ。
ロッベンについてはアレコレ言うまでもなく、もうすでに世界最高水準の左ウィングである事は周知の事実。
興味はロッベンがいかにオレンジ軍団の中で存在感を放つか、にあった。
そして私のその興味は満たされた。
ロッベンの疾走は小気味いい。独特のフォームで、さほどスピード感を感じさせないものの、誰も追いつけない。ベルカンプとはまた違った趣の「マジック」だ。彼が左サイド、時に右サイドでボールを持つとワクワクする。「何かが始まる」期待感がわき起こる。どちらかと言うと小柄で体格そのものには迫力は無いものの、ボールを受け動き始めるとロッベンは忍者になる。忍術のようなボールタッチ&フェイント&ドリブル。来ると分かっていても、誰も止められない。DFを背中に背負いながら、それをスルリと涼しげにかわして、さらに敵の方へ向かって切り込んでいく。そして目の前のDF2人の間をこともなげにすり抜けてペナルティエリアに進出していく。

ロッベンのすごさはボールキープ力にある。
複数のDFを相手にしても簡単に奪われない。まず盤石にキープする。
そこから、チャンスと見ると果敢にドリブルで切り込んでいく。スピードに乗った彼のドリブルはサッカーの一つの魅力だ。そして、決してムリはしない。個人突破が不可と見れば、しっかりボールキープした後、味方にパスを供給する。ロッベンがサイドでボールをキープする事で、その間にオレンジ軍団は着々と攻撃準備を整えている。
ロッベンが個人技で突破しても、味方にパスをしても、オランダの攻撃は続く。
左サイドでゲームを組み立てるのだ。ある種のプレイメーカーと言える。
そしてオランダはロッベンのこの非凡な才能を基本に戦術を組み立てる。ロッベンを中心としたオランダの戦術は選手全員に浸透しきっているのだろう。

いつの時代も優れた選手を輩出しながらも、チームとしてのまとまりを欠き、土壇場の勝負弱さを抱えるオレンジ軍団。英雄ファンバステンの下、若き才能を手にした幸運をオランダはどこまで活かせるだろう。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>